チビが何処にいるか分かりますか?
銀座線外苑前駅で下車。聖徳(せいとく)記念絵画館は神宮外苑の銀杏並木146本の奥に位置している。外観は花崗岩貼りで中央には直径15メートルのドーム(補修中)を戴く左右対称の構成で、荘厳さが伝わってくる。「直線的意匠と先駆的技術を採用した我が国初期の美術館建築」と評価され、昨年(平成23年)、国の重要文化財に指定されている。
中央大広間は丸天井に大理石の柱。明治天皇(第122代)と昭憲皇后の御聖徳を永く後世に伝えるために造営されたもので、その事績を描いた絵画が「御降誕」(1852年11月3日)から始まって「大葬」(1912年9月14日)までの80点が常設展示されている。
絵画館の構想は、明治天皇が崩御されたことに始まった。御陵は京都の桃山に決まったことから、東京には明治天皇をお祀りする神宮を造営しようということになった。さらに外苑を設けることになり、大正6年に絵画館委員が任命された。大正8年秋、旧青山練兵場の跡地に絵画館の建設が始まる。途中、関東大震災(大正12年)に遭いながらも大正15年3月に工事が完了。そして同年10月、明治神宮外苑竣工奉献式を迎えることができた。
工事が進捗するに伴い絵画の制作が急がれることとなった。まず画題が最優先され(画家や画風は二の次にされた)、天皇の前半生を日本画で、後半生を洋画にすることとなった。日本画系の画家の選任は遅れに遅れ、一人の画家が2点あるいは3点の作品を手掛けるということも起きた。画家は大正14年には内定していたが、依頼を受けながら途中で逝去された方がいて、全80面が揃ったのは昭和11年であった。構想から20年、制作開始から10年の歳月を経て完成を見るに至った。
中央大広間の右側(東)に日本画40点、左側(西)には洋画40点。その全てが縦3メートル、横2.7メートルの大壁画だ。迫力は満点。画題の年代順に展示されているので、当時の出来事を時間軸を追って見ることができる。時代絵巻といったところだ。
心配したニャ~!
見覚えの絵が何枚もある。中学生用の歴史教科書で確認してみる。「大政奉還」、「五箇条の御誓文の発布」、「江戸城無血開城」、「廃藩置県の布告」、「琉球藩設置」、「屯田兵による北海道開拓」、「岩倉使節団の出発風景」、「下関講和会議」と8枚もあった。その内容を思い出すために教科書のコメントを書き出してみる(番号は絵画館の展示番号)。
・5「大政奉還」:将軍徳川慶喜が重臣を二条城に集め、政権を朝廷に返上する決意を告げている。
・12「五箇条の御誓文の発布」:右側に明治天皇。天皇にかわって神前で御誓文を朗読するのは、新政府副総裁の三条実美。
・13「江戸城無血開城」:談判する西郷隆盛と勝海舟。勝は開明的な幕臣で徳川慶喜の信頼も厚かった。
・20「廃藩置県の布告」:版籍奉還と2段構えで中央集権国家への移行を果たした。
・21「岩倉使節団の出発風景」:小舟に分乗して沖合の外国船に向かうところ。
・26「琉球藩設置」:琉球国王を琉球藩王に任命する文書を持って那覇港に入った使節団一行。
・42「屯田兵による北海道開拓」:屯田兵とは、平時は開拓農民として働き、有事の際には即座に兵士として出動できる予備兵力の制度で、主に北海道内陸部の農地拡大に貢献した。
・62「下関講和会議」:総理大臣の伊東博文、外務大臣の陸奥宗光、中国側の全権代表の李鴻章。
ついでに第4章 『近代の日本と世界(Ⅰ)―幕末から明治時代』を通読してみると、あらためて「近代日本の曙」が確認できる。
画題で注目したのが、5「大政奉還」(慶応3年10月13日)とその隣の6「王政復興」 (慶応3年12月9日)である。「大政奉還」は土佐藩主・山内容堂の進言もあり、将軍慶喜が二条城の大広間に在京の重臣を集め、政権を天皇に返還する決意を告げる光景で、「王政復興」はその山内容堂(議定)と京都御所で岩倉具視(参与)が激しく論争する光景。岩倉具視の顔がとても怖い。御簾の奥深くには明治天皇が・・・
「大政奉還・王政復興」と続けて覚えたのでワンセットであるかのように思いがちだが違う。つまり、大政奉還は天皇の下に新しい幕府主導の組織を設けて政治を行うというものに対して、王政復興は幕府の主導を排除して天皇自らが政治を行うというものである。
400%に拡大すると、チビがいるのが分かりますよ。
倒幕へと向かう薩長の矛先をかわすように幕府が大政を奉還したので、このままでは薩長は倒幕の大義名分を失ってしまう。そこで、薩摩藩士の大久保利通と公卿の岩倉具視(いわくら ともみ)は王政復興の計画を立てた。まだ元服前の明治天皇の大号令によって総裁に就任した有栖川宮熾仁親王(ありすがわノみや たるひとしんのう)、山内容堂ら議定(ぎじょう)、岩倉具視ら参与による会議が京都御所内の小御所で開かれた(そこには徳川慶喜ら旧幕府の要人は出席していない)。
会議は倒幕一色となり、①徳川家の所領の返上、②征夷大将軍職と内大臣の冠位の剥奪、③一大名への格下げなどが話し合われた。何とか徳川慶喜復活の道を開こうと山内容堂は岩倉具視と激しくやり合うが、休憩を挟んだ後半の会議では山内容堂は身の危険を感じ沈黙せざるをえなかった。
これによって徳川幕府は終わりの方向へと進んでいく。と言ってもまだまだ幕府生き残りのチャンスはあった。しかし、壁画は7「伏見鳥羽戦」へと続くのである。まるで歴史の大転換が目の前で起こっているようだ。
※ 徳川慶喜の孫である公爵・徳川慶光が「大政奉還」、松平春嶽の孫である侯爵・松平康荘
(やすたか)が「王政復興」、西郷・勝両家が13「江戸開城談判」の奉納を申し出たことから、奉納者を画題に縁故ある者から優先的に決定している。
見終えて、この一大事業が国及び画壇を挙げて取り組んだことは大いに理解できるが、芸術性の面からは疑問が残る。そんな中、22「大嘗祭」(だいじょうさい)や58「日清戦争平城戦」には光るものが感じられた。
受付に戻ると、チビがバッグから首を長くして待っていた。外はまだまだ暑い。浴衣に麦藁帽子で涼しげなチビ。絵画館の前の角池(この池も重要文化財の附として指定されている)絵画館の周りには御観兵榎(初代の榎は絵画館内に保存されている)や建国記念文庫などがある。散策しながら過ぎし時代に暫し思いを馳せつつ・・・。振り向くと銀杏並木の焦点に絵画館があった。