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♪ 41 八幡太郎 21・02・22

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練馬白山神社の大ケヤキ

 平安時代後期、源義家(よしいえ、1039~1106)が奥州征伐(おうしゅう せいばつ)に向かう途中、戦勝を祈願して欅を奉納したと伝えられ、国の天然記念物に指定されている。幹の太さは8メートル(もう1本あって、石段上のは7、2メートル)

ブルーシートで覆われているのは、改修工事中の練馬区立厚生文化会館。

義家は7歳のとき石清水八幡宮(京都府八幡市)で元服して以後、八幡太郎と呼ばれるようになった。

 第56代・清和天皇(850~881)の血を引く源義家は前九年ノ役(奥州征伐、1051~1062)で父・頼義(よりよし、988~1075)と共に奥州の豪族・安倍氏を討伐した。

東北地方には陸奥国(むつノくに、奥州、青森県+岩手県+宮城県+福島県)に豪族・安倍氏、出羽国(でわノくに、羽州、秋田県+山形県)には豪族・清原氏が勢力を誇っていた。安倍氏は陸奥国司と対立したため、源義家は父と共に奥州征伐に赴くが苦戦。しかし、前九年ノ役の最終局面で羽州(うしゅう)の清原氏が参戦したことにより奥州を平定できた。
その後、奥州にも勢力を伸ばすこととなった清原氏だが、内紛が起こり前九年ノ役(12年戦争)から20年後に後三年ノ役(5年戦争)が勃発した。 

 源義家は、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、そして鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞、さらに室町幕府を開いた足利尊氏の祖先にあたることから、武門の祖として英雄視され多くの逸話が残っている。 

♪ 八幡太郎
(文部省唱歌 大正元年)
一、
駒の蹄(ひづめ)も 匂うまで
「道もせに散る 山桜かな」
暫し眺めて
「吹く風を 勿来ノ関と 思えども」
(かい)なき名やと 微笑みて
緩く(ゆるく)打たせし 優しさよ

二、
落ちゆく敵を 呼び止めて
「衣のたては 綻びにけり」
敵は見返り
「年を経し 糸の乱れの 苦しさに」
付けたる言(こと)の めでたきに
(め)でて許せし 優しさよ


道もせに・・・道面せに、道一面に
効なき・・・効き目がない、効果がない

吹く風を 勿来の関と 思えども 道もせに散る 山桜かな (源義家)
「千載和歌集」に収録されている。
勿来ノ関(なこそノせき)は常陸国(茨城県)と陸奥国・磐州磐城(福島県東部)との国境にあった関。夷人(いじん、蝦夷、未開人)はここからこっちに入って来る勿れ(くるなかれ)と、千五百年前の大和時代に設置された。
来る勿れという名の勿来ノ関なのだから、吹く風も来る勿れ。でも、来るな!というのは名だけのことであって、風が吹いて一面に山桜の花が散っている。その中を奥州へ、奥州へと駒を進めて行く。

勿来ノ関 : 今のところ所在地は分かっていないが、福島県いわき市勿来町に「勿来ノ関」を見立てていて、観光名所にしている。
山形県温海町の念珠ヶ関(ねずがせき)、福島県白河市の白河ノ関(しらかわノせき)と合わせて奥羽三関という。

年を経し 糸の乱れの 苦しさに (源義家と
   衣のたては 綻びにけり   安倍貞任との連歌)
1062年の衣川ノ戦いでのこと。敵とは安倍貞任(あべノさだとう、1019~1062)。衣川の館(やかた)を捨てて敗走する安倍貞任を追う源義家が、矢を番え(つがえ)ながら下ノ句を問いかけると貞任は振り返り、即座に上ノ句を返してきた。義家は感じ入って「武士の情け」と、矢を放つのを止めた。とあるが実は、義家は次の下ノ句を返せなく連歌で貞任に負け、矢を放てなかった。いずれにしても安倍一族の文化レベルは高かった。
・下ノ句の意 : 経糸(たていと)が綻びて衣がバラバラになったぞ!衣と衣川それに経と館を掛けて、衣川の館(たて)は敗れたり!
・上ノ句の意 : 衣の糸(鎧の経糸)がほつれたのは戦闘によってではない、古くなっただけだ。糸を意図に掛けて、長い年月の間に奥州と朝廷の意図が相違して起きたこの戦い。戦況不利で(衣川の館をひとまず撤退する)。

陸奥国・陸中(岩手県)は平泉付近の衣川(ころもがわ)での戦い
・ 789年 : アテルイ、第一次征東軍を撃破する。
・ 792年 : アテルイ、坂上田村麻呂が率いる第二次征東軍も跳ね除ける。
・1056年 : 安倍貞任、討伐軍を破る。 
・1062年 : 源義家との戦いで安倍貞任、敗走する。 
・1189年 : 源義経と弁慶が藤原泰衡の夜襲に敗れる。
 
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豊島園の入園口
 
 子供の乗り物1日券は身長110センチを境に1200円の料金差がある。安全を考慮して遊具に身長制限を設定しているためで、基準値以上が2900円、未満が1700円。
 高さ110センチの目盛りと男の子の絵が描かれた物差しの上に乗っかって、


チ ビ ; この高さならジェットコースターに乗れるニャ~?

パ パ ; 残念でした。豊島園には入らないの。石神井川に沿って城北中央公園に行くんだよ。第一、ズルをしてはいけないよ。

 豊島園は西武池袋線の練馬駅から西武豊島線がでている。豊島園といっても豊島区でなく練馬区にある。
 豊島園は平安時代末期から練馬城があったところで、豊島氏の居城であった。豊島と練馬でややこし。豊島区も練馬区も当時は武蔵国の豊島郡だった。

 室町時代後期にここから南東3キロメートルの江古田・沼袋原での戦いで、豊島氏は太田道灌に敗れた。
 この江古田は 「えごた」 と読むが、西武池袋線・江古田駅は 「えこだ」、大江戸線・新江古田駅は 「えごた」。「えこだ」 と 「えごた」 でややこし。


豊島氏と太田道灌の戦いは平成21年1月10日の チビのお出かけ 179 を見てね。 

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高稲荷公園の林昭三 作 『道』

 石神井川を下る。石神井川は石神井村を流れていたのでその名がある。では、石神井村の起こりはと言うと、その昔、井戸を掘ったところ霊石と思しき石の棒が出てきた。それを石神として崇め、いつしかそれが地名となった。

 川の延長は25キロメートル。小平市御幸町を源に途中、富士見池(武蔵関公園)や三宝池(石神井公園)からの水を集め隅田川に注いでいる。
 160センチの像は川上を向いている。ボクたちは川下へ。挨拶をして別れる。


高稲荷神社(たかいなり じんじゃ)は急階段を上った舌状台地にある。石神井川が大きくカーブしている。

神社の下が高稲荷公園で、昔は大きな沼があって紅葉が美しく、遠方から人々がもみじ狩りに来るほどだったという。今は花見の名所。だから町名は桜台というのかニャ?

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荒れ放題の栗原遺跡

 城北中央公園は石神井川と田柄川に挟まれた台地にある。関東ローム層からは先土器時代(1万年以上前)の黒耀石(こくようせき)の石器が出土している。また縄文土器や奈良時代の土師器(はじき、素焼き土器で文様がない)が出土すると共に、弥生時代から平安時代の竪穴住居跡が発見されているので、長い間ここで人々が暮らしていたことが偲ばれる。

田柄川は1970年代までには全て暗渠にされた。

 昭和32年(1957)に復元された住居跡は、今から千二百五拾年ぐらい前の奈良時代初期のもので、地表から50センチの深さに掘られていて、北側には粘土の竈(かまど)が造られていた。奈良時代に入っても竪穴式住居に住んでいたとは驚きだ!縄文時代か!
 奈良の都・平城京の華やかさに比べ、武蔵国の農民の暮らしぶりがどんなものであったかを語りかけてくる。


竪穴式住居は地表から50センチ~1メートルも掘り下げて床を作るので、水はけのよい台地は適地だった。

近畿地方では飛鳥時代には掘立柱住居に移行していたが、関東・中部地方以北では平安時代まで竪穴式住居が残った。
縄文時代→弥生時代→古墳時代→飛鳥時代→奈良時代→平安時代→鎌倉時代と続く

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城北中央公園の遊具で遊ぶ

 復元した竪穴式住居の天辺(てっぺん)が破損している。地元の人が言うには、修理もせず暫くそのままだという。雨が入って崩れかかっているように見える。
 次世代に豊かな文化を残していかねばならない。わが国が “文化小国”であっては、 断じてならないなのニャ~!


 ・・・ 今年のキーワードは 『 解 』 ・・・
(チビの日記!!チビの愛唱歌 ♪ 41 )

by chibi-papa | 2009-02-22 16:55 | チビの愛唱歌  

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