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都電・荒川線(175) 20・11・23

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三ノ輪橋停留所で下車

 庚申塚停留所から都電・荒川線に乗る。車内はすし詰め(packed like sardines)。まるで缶詰の鰯のよう!王子駅前停留所で座れた、と思ったらお年寄りが。席を譲る。 

チ  ビぜいぶん混んでますね。

お年寄り荒川遊園地前でだいぶ降りますよ。

チ  ビところで、昔は王子電気軌道と言ったんですってね。

お年寄りそう、そう。王電とか王子電車と言ってたわ。飛鳥山への遊覧客目当てに敷設されたの。
 それに赤羽までも線が延びていたのよ。そのころが懐かしいわ。赤羽といってもね国鉄の駅とは離れていたの。今でいうと、地下鉄・南北線の赤羽岩淵駅あたりが王電・赤羽だったのよ。


都電荒川線 : 昭和39(1964)年の東京オリンピックを機に始まった首都大改造は、都電を消し去っていった。が、唯一残った路線が荒川線。
三ノ輪橋~赤羽の都電27系統と、荒川車庫~早稲田の都電32系統の2系統は殆ど(9割)が専用軌道だったため代替バスが導入できないので、存続となった。今も一日4~5万人を乗せ、12.2kmを一時間かけてのんびりと走っている。長閑。

都電と荒川線の歴史
・M44年:東京市が東京鉄道(路面電車会社)を買収。王子電気軌道(荒川線の前身)が飛鳥山~大塚 開業。
・S17年:戦時体制で東京市は王子電気軌道を含む市内の路面交通事業を統合。
・S18年:都制施行に伴い、市電気局は都交通局に。
・S34年:道路交通法改正で、自動車の軌道内乗り入れ実施。
・S42年:路面電車廃止の方針。
・S48年:都議会で都知事は27、32系統を残す方向と答弁。
・S49年:27、32系統を一本化し「荒川線」と命名。
・S53年:ワンマン運転開始。
・H12年:「荒川一中前」停留所を新設
・H19年:レトロ車両9000形を導入。三ノ輪橋停留所をレトロ調に整備。荒川車庫内に「都電思い出広場」を整備。

三ノ輪橋・早稲田間の敷設
明治44年(1911) : 飛鳥山~大塚 開業
大正02年(1913) : 三ノ輪橋~栄町 開業
大正04年(1915) : 王子~飛鳥山 開業
大正14年(1925) : 栄町~王子、大塚~鬼子母神前 開業
昭和03年(1928) : 鬼子母神前~面影橋 開業
昭和07年(1932) : 面影橋~早稲田 開業

王子・赤羽間の敷設
大正15年(1926) : 王子柳田~神谷橋 開業
昭和02年(1927) : 神谷橋~赤羽 開業
昭和07年(1932) : 王子柳田~王子駅前 開業

王子駅前・赤羽間の停留所
・王子駅前
・王子ニ(王子柳田)
・王子三
・王子四
・神谷橋 → 南北線・王子神谷駅
・宮堀
・北町
・志茂町一 → 南北線・志茂駅
・志茂町三
・岩淵一
・赤羽 → 岩淵一と赤羽の間に、南北線・赤羽岩淵駅

京成電鉄は昭和3年(1928)白髭線(しらひげせん、向島・白髭間)を開業し、白髭橋を渡って三ノ輪橋で王子電気軌道と連結する計画を立てたが、昭和8年に青砥・上野間を開業できたことに伴い、その計画は取り止めとなった。白髭線自体も昭和11年に廃線とした。

お年寄りそれにね、王子電気軌道という会社は電力事業の方が主力で、王電は副業みたいだったのよ。

チ ビ電力事業は東京電力だけだったんじゃないんでんすか?

お年寄り当時の鉄道会社は殆ど電力事業もやっていたわ。京成電鉄もね。それが、戦争が始まって国家統制になって統合されたのよ。
それはそうと、王子区という区があったのよ。知っている?
私、次の町屋駅前で降りるわね。


チ  ビ京成電車にお乗り換えですか。

お年寄り北村園にお茶を買いに来たの。

東京の電力事業会社 営業収支トップ3
・第1位:東京電燈㈱ (東京電力㈱の前身)
・第2位:東京市電気局 (東京都交通局の前身)
・第3位:王子電気軌道㈱

昭和22年、王子区と滝野川区が合併して北区となった。

 昭和17年(1942)戦時体制による電力統制と交通統制で、電力事業は関東配電に、鉄道事業は東京市に事業譲渡して、王子電気軌道は清算。そして電車は市電となり、翌年には都制の施行により都電となる。
 時は移りモータリゼーションには勝てず、北本通りの路面を走っていた王子駅前~赤羽は昭和47年(1972)に廃止された。しかし殆どが専用軌道だった三ノ輪橋~早稲田だけは都電・荒川線として今でも活躍している。というより、今、路面電車とかライトレール
(LRT、Light Rail Transit) が見直されている。

早稲田~新庚申塚については、平成18年4月15日の チビのお出かけ 43 を見てね。
都電6000形の静態保存は、平成18年5月4日の チビのお出かけ 48 を見てね。

 終点の三ノ輪橋で下車。昭和2年(1927)に建てられた王電ビルヂィング(旧:王子電気軌道本社社屋)が今でも立っている。

 21、22、23の三日間、一葉記念館(台東区竜泉3-18-4)では「一葉祭」がおこなわれている。今日11月23日は樋口一葉の命日(一葉が亡くなってから112年経つ)


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樋口一葉旧居 跡の碑

 一葉記念館の近くに一葉の旧居 跡がある。明治26年7月 本郷菊坂町より下谷竜泉寺町に移り住み雑貨店を開いた。この吉原界隈を背景にして 「たけくらべ」 の題材を得た。

 一葉はこのあたりを
鶉なく 声もきこえて 花すすき まねく野末の 夕べさびしも
(一葉)
と詠んでいる。鶉(うずら)が鳴いて、ススキが揺れているような野の果てだと言っている。この辺りに鶉がいたのか?
 これは今から八百年前の藤原俊成が、鶉の鳴き声を和歌にl盛り込んで、荒涼とした秋の野辺を表現しているのを、一葉が本歌取りしただけであって、この辺りに鶉がいたかどうかを詮索しても意味がない。
夕されば 野辺の秋風 身にしみて 鶉鳴くなり 深草の里
(藤原俊成)
 小説のみで生計を立てる決意をして雑貨店を明治27年5月に引き払い、現在の文京区西片に転居して行った。依然として苦しい生活が続く。夕方から朝方まで人力車が絶えない竜泉寺町は、一葉にとって荒涼とした秋の野辺のように映ったのであろうか。  

 一葉の短い生涯は常に金策に追われていた。その一葉がこともあろうに平成16年(2004)から五千円札の肖像になった。一葉も苦笑いしていることだろう。

我こそは だるま大師に 成りにけれ とぶらはんにも あしなしにして (一葉)
 知人が亡くなったので弔いに行きたいが、貧しすぎて香典に包む御足(お金)がない。達磨さんみたいな私。


樋口一葉(ひぐち いちよう) : 明治時代の小説家。日清戦争終結の翌年の明治29年(1896)肺結核により死去。享年24。
一葉は明治5年、現在の千代田区 内幸町に生まれた。17歳の時 父親が他界して女戸主として母親と妹を養うため生活苦との闘いが始まった。小説を書いて生計を立て直そうとするが、女性が小説を書いて原稿料を手にすることは困難な時代であった。それでも小説家への志をあきらめることなく 「大つごもり」 「たけくらべ」 「にごりえ」 「十三夜」 などの名作を遺した。殊に 「たけくらべ」 は母親と妹の三人で竜泉寺町に住み、雑貨店を営みながら生活したその体験を素材にして書かれた。

藤原俊成(ふじわら しゅんぜい) : 平安時代末期から鎌倉時代初期の歌人。後白河院の命により 「千載和歌集」 (せんざいわかしゅう、1188年)を撰進(せんしん)した。

千円札の肖像については平成20年7月12日の チビのお出かけ 160 を見てね。

(チビの日記!!チビのお出かけ 175 )

by chibi-papa | 2008-11-23 00:00 | チビのお出かけ  

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