♪ 16 宮さん宮さん 18・05・21 

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有栖川宮記念公園に向う途中、ミッキーマウスと出会う。Hello!

 宮さん宮さん(トンヤレ節)
 〔作詞〕 品川弥二郎 〔作曲〕 大村益次郎

♪宮さん宮さん 御馬(オンマ or オウマ)の前に
 ひらひらするのは 何じゃいな
  トコトンヤレ トンヤレナ
  あれは朝敵 征伐せよとの
  錦の御旗じゃ 知らんのか(or 知らないか)
  トコトンヤレ トンヤレナ


 戊辰戦争(ボシン センソウ)における官軍の進軍歌で、討幕のため江戸に向かう薩摩・長州の武士たちによって歌われた。
 品川弥二郎と大村益次郎は共に明治維新で活躍した長州人で、靖国神社参道中央には大村益次郎の銅像が建てられている。品川弥二郎の銅像は靖国通りを挟んで常燈明台(ジョウトウミョウ ダイ)の隣に建っている。


・宮さん : 宮様のことで、東征大総督の有栖川 熾仁(アリスガワノミヤ タルヒト)親王を指す。
・ トコトンヤレナ : とことんやり通せの意。
・ 朝敵(チョウテキ) : 朝廷に手向かう賊。
・ 錦の御旗(ニシキノミハタ) : 官軍(朝廷の軍)の旗。大和錦に金の日像、銀の月像の緞子(ドンス)を付けた旗で、この日之御旗と月之御旗は二つ一組(菊のご紋が刺繍されているのではない)
・ 作詞をした品川弥二郎は松下村塾の門下生。 

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途中でこんなのとも出会う
 「ねぇ、これニャ~に?」 Who are you ?
 そう言うボクは、乳牛の縫いぐるみを着た猫だけど・・・

♪一天万乗の 一天万乗の
 帝王(ミカド)に手向い する奴を
  トコトンヤレ トンヤレナ
 狙い外さず 狙い外さず
  どんどん撃ち出す 薩長土
  トコトンヤレ トンヤレナ


・ 一天万乗(イッテンバンジョウ) : 天下を治める位をいう。
・ 薩長土(サッチョウド) : 薩摩・長州・土佐。

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麻布の有栖川公園までもう少し、広尾公園にて

 1868年(慶応4年=明治元年)、幕府軍は鳥羽・伏見ノ戦いで官軍に矢を向け、ここに戊辰戦争が勃発する。賊軍の首領は徳川慶喜(ヨシノブ)、官軍の大総督は有栖川宮熾仁親王(西郷隆盛が参謀として親王を補佐)
 徳川慶喜は天皇に反抗する意思がないことを示すため上野の寛永寺にて謹慎していたが、官軍は錦の御旗を掲げて江戸へ進軍を開始。東海道では一度の戦闘もなく官軍は江戸に到着。江戸城は無血開城。江戸は東京と改称される。


♪音に聞こえし 関東武士(カントウサムライ)
 どっちへ逃げたと 問うたれば
  トコトンヤレ トンヤレナ
  城も気概も 城も気概も
  捨てて吾妻へ 逃げたげな
  トコトンヤレ トンヤレナ


・吾妻(アズマ) : 江戸を指す。
・徳川慶喜と有栖川宮熾仁親王は従兄弟(イトコ)同士であったため、親王は慶喜助命の道を模索、結果的に外国に隙を与えるような内乱にならずに済んだ。
・明治10年の西南戦争でも熾仁親王は大総督になり、今度は西郷隆盛と刃を交える立場に立った。

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赤穂藩下屋敷→盛岡藩下屋敷→有栖川宮家→高松宮家→区立公園

♪国を追うのも 人を殺すも
 誰も本気じゃ ないけれど
 トコトンヤレ トンヤレナ
 薩長土肥(サッチョウドヒ)の 薩長土肥の
 先手(サキテ)に手向かい する故に
 トコトンヤレ トンヤレナ


 「♪ 宮さん宮さん」を歌いながら行進。有栖川宮記念公園に着いた。かってここ麻布盛岡町(現:南麻布5丁目)は赤穂藩の下屋敷だったが、1656年(赤穂義士討ち入りの46年前)に赤坂南部坂(現:赤坂2丁目)の盛岡藩(南部藩)の下屋敷と等価交換している。

 時代は変わって、明治29年に有栖川宮家の御用地となるも、大正12年(1923)に後継ぎが居なくなったため有栖川宮家は断絶、高松宮家が継承した。昭和9年、有栖川宮家最期の威仁(タケヒト)親王の20周忌に東京市に下賜(カシ)され、公園となった。かくして名家・有栖川の名は公園として残った。 

その高松宮も一昨年の平成16年(2004)に断絶。現存する宮家は、秋篠宮、常陸宮、三笠宮、桂宮、高円宮の5家。

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高低差がある有栖川宮記念公園

 園内は高台から低地に向けて大きく傾斜していて起伏に富んでいる。湧き水が渓流となって池に注いでいる。広場には御馬に跨(マタガ)った熾仁(タルヒト)親王の銅像が凛々しい。

 熾仁親王は17歳の時に当時6歳の皇女和宮(カズノミヤ)と婚約したが、和宮はその後「公武合体」の目的で第14代将軍・徳川家茂(イエモチ)と政略結婚させられることになり、熾仁親王との婚約は破棄された。
熾仁親王は大総督として江戸に進軍、江戸城を無血開城させたが、この無血開城に勝海舟と共に尽力したのが、かっての婚約者・和宮であった。
 和宮は家茂の没後は夫の菩提を弔うため仏門に入った。大政奉還(政権を朝廷に返上)後は徳川の家名の存続や最後の将軍・徳川慶喜の助命嘆願に重要な役割を果たし明治10年、その生涯を終えた。享年31。


和宮は維新後、一旦は京都に帰るも明治7年(1874)に東京に戻り、明治天皇の勧めで麻布市兵衛町(現:六本木)に住む。その3年後に脚気を患い、箱根塔ノ沢にて療養中、明治10年に亡くなった。
徳川家の菩提寺・増上寺の家茂のお墓の隣に眠る。昭和35年の発掘調査によると、烏帽子(エボシ)に直垂(ヒタタレ)姿の家茂の写真乾板を胸に抱えていたという。

(チビの日記!!チビの愛唱歌 16)
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by chibi-papa | 2006-05-21 16:27 | チビの愛唱歌  

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