伊能忠敬24・07・22

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源空寺に眠る伊能忠敬

 源空寺(げんくうじ、東上野6-19-2)の源空は法然上人の諱(いみな)で、徳川家康から源空寺の号を与えられた。1636年、第3代・家光は神君家康公と第2代・秀忠の供養のために寺に銅鐘を寄進している。第4代・家綱が治世の1657年に起きた明暦ノ大火(振袖火事)によって、湯島からここに移転してきた。
 伊能忠敬(いのう ただたか)が1818年に亡くなった(享年73)とき、遺骸は遺言により高橋至時(たかはし よしとき)の墓と並べて葬られた(髪と爪は佐原の伊能家菩提寺・観福寺に)


法然上人(ほうねん しょうにん、1212~1133) : 平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、浄土宗の開祖。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できると説いた。

 伊能忠敬(幼名は三治郎)は1745年、小関村(こぜきむら、現:九十九里町片貝)の名主・小関家に生まるも、6歳の時に母を失う。婿だった父は子がありながら離縁となり兄と姉を連れて、父の実家(名主・神保家)の小堤村(おんずみむら、現:横芝光町、小関村とは15km離れている)に帰る。10歳になった時に父が迎えに来る。そして17歳で佐原の伊能家に婿入りすることとなった。
 酒造業(造酒高1200石)を営んでいる伊能家では、子持ちの4歳年上のミチが待っていた。伊能忠敬は造酒高を1400石台に増産するとともに多角化経営によって、隠居する49歳までの32年間に家産を20倍くらいにした(家産3万両、およそ45億円に)。凄腕の商人であった。

 伊能家の一門には隠居後、佐原村の古記録を集め史料 『部冊帳』 (ぶさつちょう)を編纂した者とか、隠居後に出府(しゅっぷ、江戸に出ること)して賀茂真淵(かもノまぶち、1697~1769)門下の国学者として名を成した者がいる。これら先輩の影響を受け、伊能忠敬は息子に家督を譲ると出府して、天文・暦学を学ぶため幕府天文方・高橋至時に弟子入りするという道を選んだ。ここから伊能忠敬の第二の人生が始まるのである。それも思いがけない方向に進展するのである。

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伊能忠敬の雅号は東河

 伊能忠敬が38歳の時、21年間連れ添ったミチが亡くなった。その後、45歳の時にお信を迎えた。お信の父は仙台藩の江戸詰めの上級藩医で、幕閣の一人と強い繋がりがあった。そんな関係で、寛政ノ改暦のため天文方に新たに召し出された高橋至時と娘婿の伊能忠敬を結びつけたのであった。かくして50歳にして江戸に出て高橋至時の弟子となる。高橋至時と巡り会ったことは実に幸運であった。その第二の人生の滑り出しを見届けるかのように、お信は亡くなった。

 忠敬は富岡八幡宮の近くの自宅(深川・黒江町、現:門前仲町1丁目)に天体観測所を設け、ここから浅草の蔵前(現:浅草橋3丁目)にある天文方(暦局)の高橋至時の許に通って天文・暦学を学んだ。
 勉強しているうちに、暦学者の間で地球の大きさが話題になっていることを知った。自宅の黒江町は北緯35度40分半、暦局の北緯は35度42分、その差は1分半であることは分かっていたので、あとは黒江町と暦局の南北の距離を測れば緯度1分の長さが計算できる。そうすれば地球の円周が分かるはずだと考えた。歩測によって求めた測量図が今でも伊能家に残っている。それによると、28町(1町=109m、28町=3.052km)

 師匠の高橋至時に測量図を見せながら、緯度1度の値は122km(3.052km×60分÷1.5分=122km)。よって地球の大きさは360倍した43,920km(正解は4万km)であると開陳したのだろう。これに対し師匠からは、自宅と暦局の間を測って地球の大きさを決めるのは、いくらなんでも大雑把すぎる。もっと長い距離、たとえば蝦夷地あたりまで測れば妥当な値が得られるかもしれない。といわれ、それじゃ蝦夷地までの距離と緯度を測ってきます。自費で行きます。ということになった。

 早速、お信の父が幕府要路への工作にあたった(この時、すでに娘・お信は亡くなっていたが)。そしてやっと測量許可の書付(かきつけ)を手に入れることができた。その書付には、
1.身分は元百姓で浪人(知行所から苗字帯刀を許されているから)
2.測量試みとして認める(あくまでも測量の試行である)
3.手当は1日7匁5分(図らずも180日分で22両2分の補助金がつくことになった)
この書付の他に、人馬については、旗本から宿駅に対し便宜を図るようにとの紹介状も渡された。実際は緯度1度の長さを測ることを目的としていたが、建て前はあくまでも蝦夷地までの地図の作成。幕府との折衝に時間がかかったが、ともかく決まった。
 出発は1800年6月11日早朝、内弟子3名と下僕2名を連れて富岡八幡宮に参拝。伊能忠敬55歳、蝦夷地(北海道根室付近)へ向かう。


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高橋至時の雅号は東岡

 高橋至時(1764~1804)は大坂城代を補佐する城番(定番)の同心の子として生まれ、14歳で父の後を継いで大坂城番同心となったが、天文・暦学を当代随一の麻田剛立(1734~1799、あさだ ごうりゅう)に学んだ。門下第一の俊才といわれた高橋至時は、寛政ノ改暦(1798)のために、師匠の麻田剛立に代わって幕府から召し出され、天文方に抜擢された。

大坂城代 : 大坂城を預かり、西国大名の監視および城の警護等にあたった。城代を補佐していたのが城番で、京橋城番と玉造城番がそれぞれの虎口警備にあたっていた。

麻田剛立 : 豊後国杵築藩(現:大分県杵築市)の藩医。独学で天文学を学んだ。1763年の日食を予言した。オランダから輸入した反射望遠鏡で月面観測図を記す。ケプラーの第3法則を我が国に伝わる前に独創していた。月のアサダクレーター(直径12kmの笑窪)は、麻田剛立に因んで命名された。

 高橋至時が31歳の時、19歳年上の伊能忠敬が弟子入りしてきた(1795)。高橋至時は理論家であり指導者で、観測方法の確立に努めたり、測定器を開発した。その理論と指導を忠実に実践したのが伊能忠敬であった。実際、伊能忠敬はおそろしいばかりの熱心さで蝦夷地往復3,200kmの道程を180日かかって歩測し、測量し、恒星の緯度を測った。それを江戸から見守っていた高橋至時・・・。高橋至時あっての伊能忠敬であった。

 高橋至時は 『ラランデ暦書管見』 11冊の翻訳をやり遂げたが、その時の無理が祟って1804年、39歳の若さでこの世を去った。長男・景保(かげやす)が父・至時の跡を継いで幕府天文方となった。伊能忠敬の死後、その測量に基づいて 『大日本沿海輿地全図』 (輿地=よち、大地のこと)を完成させた。

 楽隠居も良いかもしれないが、第二の人生の生き方として、伊能忠敬の生き方を参考にしてみるのもいいだろう。

参照 『伊能忠敬の歩いた日本』 渡辺一郎著 ちくま新書 1999年
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# by chibi-papa | 2012-07-22 23:55 | チビのお出かけ  

電池の屋井先蔵24・07・22

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神吉町会館

 江戸時代、幡随院門前(ばんずいいんもんまえ)と呼ばれていた浅草神吉町は明治2年に成立。郡区町村編制法によって明治11年、浅草区と下谷区が設置された際、浅草区の所属となった。昭和18年に浅草区と下谷区の境界が変更になった際にはその一部が下谷区に編入されて、下谷神吉町と呼ばれるようになった。
 戦後の昭和22年、浅草区と下谷区が合併して台東区となり、昭和40年の新住居表示により東上野となり現在に至っている。神吉町の名はここ神吉町会館(かみよしちょう かいかん)として残っている。


 幡随院門前→浅草神吉町→浅草区 (浅草)神吉町→下谷区 (下谷)神吉町→台東区東上野 

 明治43年(1910)、(浅草)神吉町に乾電池工場を建設。本格的量産にとりかかり、現在の乾電池のスタイルを確立した。乾電池を発明した屋井先蔵(やい さきぞう)は 「乾電池王」 とまで謳われるようになった。しかし屋井先蔵を偲ぶものは何も見つけることができなかった。

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会館内

 屋井先蔵は明治維新の4年前の1864年、越後は長岡藩士の家に生まる。5歳で父が他界したため叔父に引き取られる。13歳で東京日本橋の時計店の丁稚になるも、病気のため帰郷。地元の時計店で年季奉公を勤め上げた後、永久機関を発明しようと再び東京に出る。永久機関は不可能だと諭され方向転換。
 明治22年(1889)電気時計を完成。そして明治25年、ついに乾電池を完成させた。その翌年(明治26年)、シカゴ万博に乾電池を使用した地震計を出品。明治27年(1894)からの日清戦争では、携帯型通信機の電源として屋井乾電池が使われた。従来の液体型の電池では極寒の満州では氷結してしまう。号外には「乃木希典少将、満州海城を攻略す」に続いて、「厳冬の戦地で大活躍!世界一の“屋井乾電池”厳寒の地でも氷結せず」の活字が躍った。翌日の紙面でさらに詳しく報道され、特集が組まれた。


 ・明治18年浅草七軒町の裏長屋で試作開始(明治25年、屋井乾電池合資会社の看板を掲げ製造を開始)→・西黒門町(少し広い場所に移転)→・明治43年神田錦町(本社屋)浅草神吉町で量産体制に入る→・大正2年下谷日暮里(大正12年の関東大震災で工場が焼失、再建するも又もや火災により焼失)→・川崎並木町(斬新な大工場を建設、昭和2年 胃癌により死去、享年63)→・後継者に恵まれず、いつしか乾電池工業会の名簿から消える。

 発明家になるんだと、親戚一同の反対を押し切って上京を決意。三国峠を越え、残雪の残る山肌を振り返った時、それが白い躑躅(ツツジ)のように見えたという。故郷のことを忘れることのないよう、都内の自宅に白い躑躅を植え生涯愛でたという。
 先人未踏の道を情熱で切り開き、幾多の困難を夢見る力で乗り越えた発明家・屋井先蔵。せめて神吉町内会のどこかに、白いツツジで囲んだ案内板が設けられていたらと思う。


参照 「乾電池王」屋井先蔵の生涯 『白いツツジ』 上山明博著 PHP研究所出版 2009年
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# by chibi-papa | 2012-07-22 23:00 | チビのお出かけ  

東村山菖蒲まつり24・06・23 

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新宿駅東口

 吠えるときはね、こうやって思いっきり大きく口を開けるんだよ!

 西武新宿駅までちょっと離れている。西武新宿線を高田馬場駅から新宿駅東口付近へ乗り入れる計画があって、その手前を仮駅として開業(昭和24年?27年?)した。その後、計画が頓挫し、昭和52年に駅ビル(プリンスホテルなど)が完成し、そこを本駅とした。だから新宿駅からちょっと離れている。でも新宿の街中を歩くのも楽し。

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北山公園の花菖蒲

 東村山の北山公園は、西武新宿線・東村山駅から歩いて15分、八国山緑地(はちこくやまりょくち、映画「となりのトトロ」のモデルとなった)の麓に位置している。一面に菖蒲田が広がり10万本が花をつける。公園の敷地の西側には田圃がある。隣接する北山小学校の授業で使われる田圃だという。

 長閑(のどか)な中の 花菖蒲 江戸紫に 京紫 (チビ)

 ここら一帯はもともと水田地帯であったが、昭和47年頃から不動産業者による開発が始まった。これに対し、東村山市は土地を業者から買い戻して北山公園とし、花菖蒲の植栽を始めた。そして昭和57年、「新東京百景」に選ばれるまでになった。

昭和47年というと、田中角栄通産相が「日本列島改造論」を発表した年。

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弁天池公園

 市内をぶらぶら散策する。
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# by chibi-papa | 2012-06-24 16:22 | チビのお出かけ  

行徳~鳥越24・06・10

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行徳・押切稲荷神社

 地下鉄東西線の快速電車に乗った。行徳駅は快速は止まらないので、浦安駅で各駅停車に乗り換えた。
 駅前通りを旧江戸川に向かって行くと右手に押切稲荷神社の本殿が見える。ここ押切の地を鎮守するこの神社は、今からおよそ350年前の江戸初期に鎮座されたが、度々の津波などで破壊されてしまった。そこで、御尊体はここ東葛飾郡押切村から対岸の南葛飾郡下鎌田村(現:江戸川区瑞江1-18-1)の長寿院(明治初期に廃寺となり現在は跡地に豊田神社が建立されている)に預けられることになった。それが大正2年に戻って来た。良かった、良かった!でも翌年の大津波は大丈夫だったのかニャ~。


 拝殿の右隣には千寿銀杏といって高さ20メートル、幹周6メートル以上もある巨木(市川市指定の保存樹木)がある。

江戸湾の津波
・1651年(慶安4年):第3代将軍・徳川家光の治世の時
・1680年(延宝8年):第4代将軍・徳川家綱の治世の時
・1791年(寛政3年):第11代将軍・徳川家斉の治世の時
・1914年(大正3年):今から98年前にも発生したとある。
1855年(安政2)の安政江戸地震の時の津波はどの程度だったのだろう?
因みに東京直下地震が発生した場合、最大津波を2.6メートルと想定している。地下鉄が水没する可能性大。

東葛飾郡押切村
・明治22年:湊村、欠真間村などと合併して南行徳村となる
・昭和12年:南行徳町となる
・昭和31年:市川市に編入

 南葛飾郡下鎌田村
・明治22年:二之江村などと合併して瑞穂村となる
・大正02年:一之江村と合併して瑞江村(瑞穂のと一之江ので瑞江)となる
・昭和07年:小松川町、小岩町、松江町、葛西村、篠崎村、鹿本村と合併して江戸川区が誕生し、東京市に編入
・昭和18年:東京都制の施行

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行徳・光林寺

 旧江戸川堤防に出る。ちっちゃな湊水神宮がある。押切排水機場がある。ここら一帯は土地が低く自然排水が不可能なので、行徳地区と浦安地区合わせて26ヶ所の排水機場で守られている。

江戸川放水路
・大正05年:江戸川放水路の開削着工
・大正08年:江戸川放水路完成
・昭和40年:江戸川放水路が江戸川となり、元の流れは旧江戸川と呼称変更

 ところで徳川家康が江戸城に入って(御打入り)すぐに手をつけたのが、江戸城の大増改築と塩田開発だった。行徳の塩は新川→小名木川の運河を通って江戸に運ばれた。

1590年7月13日、豊臣秀吉によって徳川家康は関八州へ転封された。家康は江戸を本城と定め8月1日、江戸御打入り(おうちいり)した。

行徳の特産品は塩であった。JR京葉線・市川塩浜駅、塩浜1丁目~3丁目、塩美橋にその面影が残る。
 1590年:徳川家康、江戸城 御打入り
 1591年:塩浜開発のための下付金1,000両
 1595年:塩浜開発のための下付金3,000両
 1596年:塩浜開発奨励として5年間の年貢免除
 1600年:関ヶ原の戦い
 1632年:行徳・江戸小網町間12、6kmの航路開通

 光林寺は室町末期の創建と伝えられているが。江戸後期の寛政3年や大正3年の大津波などで過去帳や古文書が流失してしまい、詳しいことは分からない。
 大津波があったのニャ~。東京湾内にも大津波があったのニャ~。房総半島で守られていると油断していてはいけない。油断大敵、油断大敵!


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2k540商店街

 日本橋駅で東西線から銀座線に乗り換えて、末広町駅で下車。ここから鳥越神社に向かう。昨日と今日は鳥越神社の祭礼だ。途中、JRのガード下に商店街があるのに気がついた。何だ、何だ!
 ここは東京駅から線路の距離で2,540メートルの位置。そのJR高架下に人気カフェ、個性的な雑貨店などが並んでいる。


鉄道駅を財産とするJRは本業の輸送業外のマーケティングで俄然優位な立場に立つ。「駅ナカ」を定着させたJRは、大宮駅や立川駅で食堂街 『ecute』 (駅+cute=エキュート)を成功させ飲食業でも業界屈指の売上げを誇る。さらに開拓の矛先は高架下の空間まで伸び、新たなビジネス空間が生まれた。高架下では有楽町や新橋のように成功した例はあるが、秋葉原・御徒町間 (AKI-OKA) の高架下はこれまで手付かずだった。

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鳥越まつり

 神田明神と浅草三社に挟まれる浅草南部の鎮守様が鳥越神社で、創建は651年(飛鳥時代中期)といわれ、日本武尊が祀られている。参拝する長蛇の列に目が点のチビ。

日本武尊(やまとたけるノみこと)が東夷征伐(とういせいばつ)の折に、この里へ暫く留まったことから、村人はその威徳を慕って小高い白鳥山に白鳥明神として奉祀(ほうし)した。
鳥越の地名は、源義家が前九年ノ役(1051~1062)で、奥州安部氏の反乱を鎮撫できたのは白鳥明神の加護によるものだとして、ここを鳥越と命名した。
その後、江戸時代に入って、白鳥山を取り崩し隅田河岸を造成した。そしてそこに幕府備蓄米の蔵を建てた(蔵前の地名の謂れ)

 ワッショイ!ワッショイ!そ~れそれそれお祭りだ!今朝、神社を出た本社神輿は夜になって戻って来る。この宮入りが「鳥越ノ夜祭」と言われるもので、宵闇を背景にした幻想的な光景は下町の初夏の風物詩になっている。

 それを見ずに戻ることになった。ここから銀座線・浅草駅まで歩こう!チビはパパに肩に飛び乗る。ワッショイ!ワッショイ! 

「ワッショイ」の語源
 皆で神輿を背負って和むという意味で、「和を背負う」→「わしょう」→「わっしょい」となった。また、古代ヘブライ語では「神を誉め讃えよ」という意味になるらしい。そして神輿は契約の箱「アーク」を真似たとも謂れている。

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御茶目なチビ

 顔出し看板を見つけたゾ~。ここから顔を出すんだニャ。どれ、どれ!?
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# by chibi-papa | 2012-06-10 23:00 | チビのお出かけ  

24・05・26 花園神社祭礼

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花園神社

 新宿駅より徒歩7分。花園神社の例大祭は毎年5月28日に一番近い土、日、月曜日に行われる。今日は土曜日。
 徳川家康が江戸にお打ち入りした1590年には既に存在していたようだ。その後、宿場町・内藤新宿が開かれると 『四ツ谷追分稲荷』 と呼ばれるようになった。
 それまで現在の伊勢丹本館あたりにあったが、第11代将軍・徳川家斉が治世の頃、そこから北に250メートルの現在地に遷座した。その場所(尾張藩下屋敷の庭の一部)が花が咲き乱れていた花園だったことから 『花園稲荷神社』 と呼ばれるようになった。そして昭和40年、現在のコンクリート製の本殿に建て替えた際に、『花園神社』 に改められた。
 2年前、屋根の改修が行われた。お化粧直しをした本殿の前でパチリ。


 本殿の向こうには全く別の世界がある。都会に残ったバラック街「新宿ゴールデン街」が隣接している。戦後に建てられた木造長屋建ての店舗が狭い路地を挟んでマッチ箱のように並んでいる。
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# by chibi-papa | 2012-05-26 23:00 | チビのお出かけ