<   2012年 08月 ( 6 )   > この月の画像一覧

 

平成24年(2012) INDEX

・24・01・01 我こそは猫の王なり
・24・01・01 平成24年元旦 謹賀新年
・24・01・03 富士塚登拝(砂村富士)
・24・01・15 閻魔堂
・24・02・11 建国記念ノ日
・24・03・20 椿公園
・24・03・24 梅屋敷公園
・24・03・25 蓮如上人
・24・04・07 桜とスカイツリー
・24・05・26 花園神社祭礼
・24・06・10 行徳~鳥越
・24・06・23 東村山菖蒲まつり
・24・07・22 屋井先蔵
・24・07・22 伊能忠敬
・24・08・03 暑中見舞い(金曜デモ)
・24・08・09 長崎原爆ノ日
・24・08・11 緯度1分の値
・24・08・13 磯野家の人々
・24・08・15 戦没動物の慰霊
 
[PR]

by chibi-papa | 2012-08-31 23:59 | 全索引  

戦没動物の慰霊 24・08・15

e0031605_2332269.jpg
靖国神社 大鳥居

徴発で 召集された 馬や犬 霊を見守る 梟と吾(チビ)

徴発(ちょうはつ) : 軍需物資を国民から強制的に集めること。
(フクロウ) : 動物の霊を見守ってくれる象徴。

 ボクは動物を代表して、戦場で散った軍犬・軍馬などを慰霊しに千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れた。その足で、靖国神社の大鳥居を潜った。

駆り出され 動物たちも 戦場に 戻れた数は ただ一二のみ (チビ)

100万頭の軍馬が再び故国に戻れたのはほんの僅か。運よく内地に戻っても、食肉業者に一括払い下げ。
軍馬甲功賞を受賞した勝山号は奇跡的に昭和20年10月17日、岩手県江刺の飼い主の許に帰郷できた(2年後、戦傷が原因で死亡)。無事故郷に戻れた軍馬は、勝山号1頭だけだったかもしれない。

 靖国神社の神門を潜った瞬間、守衛からつまみ出されてしまった。
 千鳥ヶ淵戦没者墓苑では多数のSP、警官らが警備していたが、締め出される雰囲気すらなかった。懇ろに献花。思いは先の大戦で犠牲となった動物への慰霊である。
 摘み出された後、大鳥居の所に戻って、そこで深く哀悼の意を表す。軍犬・軍馬・軍鳩(ぐんきゅう)。それに動物園で殺処分された象や豹。サーカスの虎や熊たちよ、どうか安らかに。どうか安らかに。


慰霊には 人あらずんば来るでない 万物の長とはこんなもの (チビ)

上野動物園に対しては、都長官から戦時猛獣処分命令が下された。猶予期間は1ヶ月。それは全国の動物園に広がっていった。また飼料不足も重なり、多数の飼育動物が死んでいった。
気性の穏やかなインド象のトンキーは絶食開始から30日後の昭和18年9月21日、力尽きついに大きな体が崩れ落ちた。
・象(ゾウ) : 毒餌を吐き出してしまうので、餓死させる。
・豹(ヒョウ): 毒餌を食べようともしないので、ワイヤーで絞殺。
・月輪熊(ツキノワグマ) : 薬殺。
・黒熊(クロクマ) : 投薬のうえ槍で刺殺。
・ニシキ蛇 : 生餌しか食べないので薬殺不能、刃物で頭部切断。
都長官 : 昭和18年から22年までの東京都の首長(官選)。昭和22年5月からは選挙による東京都知事が首長となる。
サーカス団に対しては、警視庁から猛獣類処分命令が下された。猶予期間1週間。
[PR]

by chibi-papa | 2012-08-15 23:00 | チビのお出かけ  

磯野家の人々 24・08・13

e0031605_18555057.jpg
フグ田家(サザエ、タラオ、マスオ)

 東急・田園都市線の桜新町駅前にサザエさん一家の銅像が設置されている。漫画 『サザエさん』 の原作者・長谷川町子(1920~1992、享年72)が居住していたこともあって長谷川町子美術館がある。駅と美術館を結ぶ商店街は 「サザエさん通り」 と名付けられ、あちこちにサザエさんのイラストがある。

 サザエさんはマスオさんと結婚していて、専業主婦。タラちゃんの母。27歳。旧姓は磯野。波平とフネの長女でカツオとワカメの姉。頭の前頭部と左右の側頭部にパーマをかけたような髪型が特徴。性格はそそっかしいが明るい。
 生真面目(きまじめ)で不器用なフグ田マスオさん(32歳)は、髪型はオールバックでメガネをかけている。マスオさんは婿養子ではなく、フグ田家として磯野家に同居している。
 タラちゃん(2歳)は、いろいろなことに興味を示し、おとなしく物分かりの良いいい子。年齢的にまだ幼稚園に通っていない。


e0031605_1859649.jpg
磯野家(波平、カツオ、ワカメ、フネ)

 波平の祖父は幕末の福岡藩士・磯野藻屑源素太皆(いその もくず みなもとノすたみな) で源氏の系統の黒田武士。
 波平は福岡生まれの世田谷に住む54歳。双子の兄に海平(本家を継いで福岡にいる)がいる。妹になぎえがいて波野家に嫁いでいる。なぎえの子がノリスケで、タイ子との間にイクラちゃんがいる。


 禿げ頭に頂頭部に1本だけある髪の毛がトレードマーク(兄の海平には2本ある)の波平、かなりの頑固者でやや短気。それでいて怒ったことをすぐ忘れる。酒好きであるが酒癖は悪いほう。アニメでは山川商事に勤める事務職の課長で、会社は銀座の晴海通り沿いにある。趣味は盆栽、囲碁、俳句など。
 フネ(48歳)は常に和服に割烹着姿で、髪は後ろで一つに結っている。趣味は芝居見物。お酒は全く飲めない。

 丸刈りのカツオはサザエさんの弟で、11歳の小学5年生。運動神経が良い。無類のいたずら好きで勉強嫌い。口達者で外面がいい。
 おかっぱをアレンジしたような髪型をしているのはワカメ。サザエさんの妹で、7歳の小学1年生(アニメでは小学3年生の設定)。性格も原作とアニメではかなり異なっている。


 タマがいないニャ~。木にでも登ってるのかニャ~?

e0031605_1652854.jpg
ちょっと一休みするニャ~

 漫画の世界も四半世紀が経ったとすると、磯野家の人々の年齢は、磯野波平79歳、妻:磯野フネ73歳、長女:フグ田サザエ52歳、長男:磯野カツオ36歳、磯野ワカメ:32歳になっている。それにサザエさんの夫のフグ田マスオは57歳、そしてあのタラちゃんは27歳になっている。日本男子の平均寿命が79.44歳(女性は85.90歳)であることからすると、磯野家にいつ相続が発生しても不思議ではない。そうなると世田谷区桜新町に自宅を持っているので、相続税が気になるところである。
 波平が病死したとすると、法定相続人はフネ、サザエ、カツオ、ワカメの4人ということになる。基礎控除額は5千万円+法定相続人の数4人×1千万円=9千万円。これ以上の相続財産があれば相続税の申告をしなければならない。
 長谷川裕雅著の 『磯野家の相続』 と 『磯野家の相続税 』 (すばる舎発行)を参考に、相続について以下考えてみることにする。
(書きかけ中)
[PR]

by chibi-papa | 2012-08-13 23:00 | チビのお出かけ  

緯度1分の値 24・08・11

e0031605_10162725.jpg
富岡八幡宮・日本最大の神輿

 今日11日(土曜)から15日(水曜)まで富岡八幡宮(とみおか はちまんぐう)の例大祭。とにかく賑やか。
 この神輿(みこし)は単に大きいだけでなく、いたるところにダイヤなどが使われているという豪華なもの。どこにダイヤが・・・警備員の目が光っている。


例祭は深川祭と呼ばれ、神田祭(神田明神)、山王祭(山王権現)と並んで江戸三大祭に数えられた。1807年(第11代家斉の治世)、見物客で隅田川に架かる永代橋が崩れ落ち、1.500名が死亡した。

e0031605_10165615.jpg
富岡八幡宮・伊能忠敬像

 お祭りの陰に隠れていても、ひたすら歩く人、伊能忠敬(いのう ただたか)。測量で歩いた歩数は5千万歩(およそ地球1周分の距離)。それも55歳から(71歳まで)だというから驚いちゃうニャ~!

e0031605_10172574.jpg
伊能忠敬居住跡をスタート

 隠居した伊能忠敬は江戸に出て深川黒江町(現:門前仲町1-18)に住み、ここでも天体の観測ができるようにした(北緯35度40分30秒と測定した、正しくは28秒、その差たったの2秒)。そして、ここから直線距離で3キロ北の浅草天文台の高橋至時(たかはし よしとき)の許に毎日通った。伊能忠敬が歩いた道は 『黒江町・浅草測量図』 として残っている。その道に沿って追体験してみよう!レッツゴー!

 沿道には神輿の担ぎ手に掛ける水を用意している箇所が見受けられた。子供たちがその役割のようだ。三年に一度の本祭り、町は祭り一色。
 塩でなく 「水」 撒いておくれ!わっしょい、わっしょい。ソ~レ ソレ ソレ お祭りだ~。


e0031605_10174585.jpg
採茶庵跡で芭蕉と出会う

 松尾芭蕉はそれまで長年住みなれた芭蕉庵を手放して、芭蕉の門人の別宅であった採茶庵(さいとあん)に厄介になっていた。元禄2年(1689)、45歳の芭蕉は曾良(そら)を伴って、東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅をした。 採茶庵は仙台掘川の横にあったので、ここから舟で隅田川をさか上り千住まで行く。舟を降りて一句。

行く春や 鳥啼き魚の目は泪』(芭蕉)

 これを矢立(やたて)の初めの句として、全行程600里(2,400km)を約150日かけた紀行文集が「奥の細道」である。
 芭蕉から百年後、伊能忠敬は採茶庵の前を毎日通っていた。その二百年後の今、チビとチビパパは伊能忠敬と同じ道のりを歩いている。
 旅立ち姿の芭蕉と別れ、我々は蔵前にある浅草天文台を目指す。奥の細道の600分の1(2,400÷4=600)でしかないが・・・


黒江町の自宅から浅草天文台までの実測は4,075m。角度調整後の子午線上では2,928m。

e0031605_10181278.jpg
浅草天文台跡がゴール

 この案内板は蔵前1丁目の交差点の角にある。案内板によると天文台(暦局、司天台)は、浅草蔵前(現:浅草橋3丁目21、22、23、24の全域と3丁目19、25、26の一部)にあって、天文・暦学を学ぶためここにいた幕府天文方の高橋至時に弟子入りした。時に伊能忠敬50歳、高橋至時31歳。

e0031605_22232724.jpg

中央下に、天文屋敷測量所と書いてある所が、浅草天文台。
右下に、幕府の米蔵があったことからこのあたりの地名は蔵前と付けられた。米蔵の用地は1620年に鳥越の丘(白鳥山)を削り、その土砂で隅田河岸を造成した。蔵の数は67棟。63万俵(37,500トン)の幕府備蓄米と旗本・御家人への給料米を収納した。

 浅草天文台は1782年、牛込藁店(うしごめ わらだな、現:新宿区袋町)から移転してきた。本来は暦を作る役所の施設で、正確な暦を作るためには天体を観測する必要があった。その規模は周囲93.6m、高さ9.3mの築山の上に、5.5m四方の天文台が築かれ43段の石段があったという。 

e0031605_22335254.jpg

左上は浅草天文台の立体図。左下はその平面図。
右は葛飾北斎の「富嶽百景」の中の「鳥越の不二」。背景に富士山、手前には渾天儀(こんてんぎ、天球儀のことで天体運行の観測器械)を据えた浅草天文台が描かれている。
描かれている人物は、伊能忠敬でも高橋至時でも高橋景保でもない。その後の人物だろう。
「鳥越の不二」としているのは、近くに鳥越神社があることから付けられた。

 高橋至時の死後、父の跡を継いだ高橋景保(たかはし かげやす)の進言により、1811年、天文方内に「蕃書和解御用」(ばんしょわげごよう)という外国語(特にオランダ語)の翻訳局が設置された(変遷を経て現在の東京大学に繋がっている)。  
e0031605_10194613.jpg
駒形堂(右奥の水色の橋は駒形橋)

 伊能忠敬は自宅の深川黒江町(北緯35度40.5分)と暦局(北緯35度42分)の距離(角度調整後)を28町(1町=109m、28町=3,052m)とした。それを基に緯度1度を距離を出すと、122kmとなってしまう。これは方角を正確に補正できなかったので正確な距離が測定できなかったことと、緯度をもっと精緻に測れなかったことによる。

 師匠の高橋至時に相談すると、そんな小さい北緯の差や距離から緯度1度を算出するのは無理だといわれ、蝦夷地測量(第一次測量)を決意するのであった。その翌年1801年(忠敬56歳)の第二次測量(本州東岸)の結果、緯度1度の値を28.2里と算出。1802年の第三次測量(羽越)でもやはり28.2里(1里は3.9273kmなので、110.75km)とした。正解は110.99kmなので、誤差はたった240m。

地球が真円だとしたら、今はパソコンで緯度1度の値を簡単に求めることができる。
(1)自宅(門前仲町1-18)の緯度と経度をメモる
 北緯35度40分28秒、東経139度47分39秒
(2)暦局(浅草橋3-22)の緯度をメモる
 北緯35度42分3秒
(3)東経139度47分39秒上の北緯35度42分3秒の地点を特定し、自宅との距離をメモる 2,928m→2.928km
(4)緯度の差
 35°42′3″ー35°40′28″=1′35″→1.583分
(5)緯度1度の値は 1度は60分なので、 
 2.928km×60分÷1.583分=110.98km
因みに地球の円周は110.98km×360度=39,953km→約4万km
 
 暦学者の間で地球の大きさが話題になっていることから、緯度1度の長さをより正確に測ってみようということで蝦夷地に出かけたが、幕府の許可を得るための建て前は、地図の作成のための測量であった。最初はほとんど自費負担だったが、地図が正確なため、だんだん幕府から支援を得られるようになった。とうとう国家的事業となって、日本地図を作り上げてしまったのである。
 明治17年から近代地図に順次置き換えられ始め、最後の種子島、屋久島の地図が置き換えられたのが昭和4年だった。伊能忠敬が亡くなってから何と最大111年間も使用されたことになる。

[PR]

by chibi-papa | 2012-08-11 23:00 | チビのお出かけ  

長崎原爆ノ日 24・08・09

e0031605_10113743.jpg
東海寺・原爆犠牲者慰霊碑

 慰霊碑の左側には長崎の下ノ川の護岸石が、右側には広島の御幸橋の歩道の縁石が添えられている。いずれも被爆した石である。
 下ノ川が流れる松山町は昭和20年8月9日午前11時2分に原爆が炸裂した中心地である。当時この町には約300世帯1,860人余が生活していた。原爆は松山町上空500mで爆発、巨大な火の玉となり、数百万度の熱線と放射能と爆圧はあらゆる物を一瞬にして破壊し汚染した。町内にいた者は、偶然にも防空壕にいた9歳の少女一人を除き全員が死亡。町の東部を流れるこの下ノ川は水を求めそこで力尽きた者で埋まっていた。川の水も流れることができないほどに。

 現在の護岸には被爆当時の石が用いられている。これは昭和59年から60年にかけて河川改修に伴ない、被災資料として現在地とここ慰霊碑の脇に留め残された。長崎市から寄贈されたここの護岸石は爆心地から100mの距離にあったもので、熱線による剥離が見られる。


e0031605_10103544.jpg
このまま忘れ去られるか

護岸石 枯れた献花に何思う 今にも語る護岸石かな (チビ)

 あれから67年後、民主党(野田佳彦首相)、自民党(谷垣禎一総裁)、公明党(山口那津男代表)の3党合意で、原子力基本法に原子力の利用は我が国の安全保障に資すると入れて、原爆製造を伴う核による自衛の道を開いた。

e0031605_1012734.jpg
史跡めぐり広場・展示スクリーン

 東海寺の参道脇には36階建てのタワーコート北品川が建っている。かつては広大な境内を誇ったが・・・
[PR]

by chibi-papa | 2012-08-09 23:00 | チビのお出かけ  

平成24年 暑中見舞

e0031605_11154897.jpg
金曜デモ

暑中お見舞い申し上げます

                 平成24年盛夏 チビ

e0031605_11173549.jpg
[PR]

by chibi-papa | 2012-08-03 23:00 | チビの時候のご挨拶