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高尾山で六根清浄 23・11・23  

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金比羅台

 ここから八王子市街地を望むことができる。写真を拡大すると黄色い帯状のが見えるでチョ。甲州街道の銀杏並木なんです。

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薬王院・願叶輪潜(ねがいかなう わくぐり)

 仁王門を潜ると直ぐ六根清浄石車がある。この石車を 「懺悔懺悔六根清浄」(ざんげ ざんげ ろっこんしょうじょう)と唱えながら回す。「懺悔懺悔どっこいしょ」 と言いながら回しているお年を召した方がいた。
 五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)プラス第六感が清らかになったところで、次は石で出来た智慧の輪がある。願いを掛けながらこの輪を潜る。ボクの願いはパパにも内緒。潜ったらその願いがちゃんとご本尊に届くように、大きな錫杖(しゃくじょう)を鳴らすんだニャ~。

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薬王院 ・ 「♪ 若いお巡りさん」の歌碑

 八王子生れで、現八王子高校で教鞭をとった後、作詞家として活躍した井田誠一(明治41年~平成5年)の歌碑がある。歌碑の前に立つとメロディーが流れてくる。

♪ 若いお巡りさん
[作詞]井田誠一 [作曲]利根一郎 [歌]曽根史郎 (昭和31年)
一、
もしもし ベンチで囁く お二人さん
早くお帰り 夜が更ける
野暮(やぼ)な説教 するんじゃないが
ここらは近頃 物騒だ
話の続きは 明日にしたら
そろそろ広場の 灯も消える

二、
もしもし 家出をしたのか 娘さん
君の気持も 分かるけど
故郷(くに)じゃ父さん 母さん達が
死ぬほど心配 してるだろ
送ってあげよう 任せておきな
今なら間に合う 終列車


 この他、「東京シューシャインボーイ」(Tokyo Shoe Shine Boy、昭和26年、歌:暁テル子)や 「泣かないで」(昭和33年、歌:和田弘とマヒナスターズ)、訳詞としては 「バナナ・ボート」(昭和32年、歌:浜村美智子)などがある。
 生粋の八王子っ子を自認していた井田誠一は八王子市長房町で85歳の人生を終えた。


 メロディーを聞きながらも、体をキレイ綺麗に余念のないチビであった。 

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薬王院・弁財天洞

 本坊裏手の弁財天は洞窟の奥深く40mの所に祀られていたが、7年前に崩落して、今では3mほどしか入れない。そこに新しい弁財天が祀られている。
 階段の下、左には現代的な弁財天が鎮座している。琵琶を奏でる美人の弁天様と記念撮影。


ここから山頂まで裏道を行く。頂上のトイレは建替え中で、仮設トイレは長蛇の列。

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599mの山頂

 山頂標の上からおやつを食べる場所を探す。みんなより一段高い海抜600mから探すも、人、人、人で一杯。山頂でおやつを食べるのを諦めるしかなかった。

□ おやつをウサちゃんのリュックに入れて登って来たのに~
■ 『のに』 が付くと愚痴が出るから、やめようね。1、5キロほど下った十一丁目茶屋の辺りで食べようよ。

・・・・・

■ さあ、これから一気に下山するよ。しっかり肩に掴まっていなさい!

 と言って、枡酒をグイと飲み干すパパであった。

□ ニャ~ニャ~ニャ~!おかわりはダメだニョ~!パパにはボクを無事にお家に連れて帰る義務があるんだヨ~!
■ ニャ~! (パパの返事)

 六根清浄になった二人?は山を降りて行くのであった。

清酒 『桑乃都』(くわノみやこ)枡付きで400円、おかわりは200円、と言うことは持ち帰ることができる枡が200円ちゅうこと。「桑都」は八王子市の別名。絹織物の産地として知られた八王子市。蚕が食べる桑→養蚕業(ようさん ぎょう)→絹織物。因みにサンフランシスコを漢字で書くと 「桑港」。

  
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by chibi-papa | 2011-11-23 23:59 | チビのお出かけ  

みずくらいど公園 23・11・12

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みずくらいど公園 (拝島駅から北に700m)

 江戸幕府が1653年に江戸市民の飲料水の確保を目的として、多摩川から引水し、江戸市中へ配水するために開削(かいさく)した工事跡に石碑が立っている。
 開削工事の跡がなぜここに残っているかと云うと、この場所の工事が失敗して新しい堀を北側に掘り直したため、当初の掘跡が残されたもの。これが 「みずくらいど公園」 として保存されている。
 なぜ折角掘り進んだのに失敗したかというと、通水してみたらここで水が地中に吸い込まれてしまった。実はこの付近の土は、水喰土(みずくらいど)だったのだ!


水喰土 : 浸透性の高い関東ローム層で、水はみるみる吸い込まれてしまう。

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玉川上水開削工事跡

 掘られた場所に降りてみる。全て人力で、クワ(鍬)やツルハシ(鶴嘴)で掘った土をモッコ(畚)で運び出した。そして期待に胸を膨らませて通水した水が、この辺りで見る見る地中に吸い込まれるのを玉川兄弟をはじめ人夫が見た時には、さぞ落胆したであろう。
 でも、直ぐに気を取り直して北側に付け替えた。こうした苦難を乗り越えて、羽村から四谷大木戸までの43km(高低差92m)を、たった8ヶ月で完成させたのである。この玉川上水開削工事跡は、近世前期の大規模な土木工事の遺構として歴史的、学術的に貴重なものと云える。


 ・ 1653年4月 : 開削工事開始。
 ・ 同年  11月 : 開削工事完了。
 ・ 1654年6月 : 江戸市中へ通水開始。
 ・ 1895年(明治28年) : 淀橋浄水場完成。 
 ・ 1965年(昭和40年) : 淀橋浄水場(新宿)を廃止したことにより、上水として311年間の使命を終える。


先達の 努力の址(あと)が 身に沁みる 落ち葉が隠す 鶴嘴の音 (チビ)

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玉川上水緑地でバードウォッチング

 ヤマガラ(山雀)、ホオジロ(頬白)、ヒヨドリ(鵯)、コゲラ(小啄木鳥、小さなキツツキ)、カワラヒワ(河原鶸)、ジョウビタキ(尉鶲)、ツグミ(鶫)それにアオジ(蒿雀)などがいると書いてあるので、覗いたけれど、み~んなお昼寝中みたいだニャ~!

尉鶲(ジョウビタキ)、鶫(ツグミ)、蒿雀(アオジ)は冬鳥。

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玉川上水が右に折れてる

 白濁模様の玉川水路は拝島駅から一路東へと延びている。天王橋を過ぎると、瀬切れ状態の残堀川(ざんぼりがわ)と交差している。玉川上水の方が水位が3mほど高いのに、伏越し(ふせこし)と呼ばれる工法で、何と川幅18mの残堀川の下を潜り抜け(深さ8m、長さ30m)ている。

狭山池を水源とする残堀川は、かつて玉川上水に合流していたが、明治になって残堀川が汚れてきたので、玉川上水の下を潜らせて多摩川に放流するようにした。戦後、残堀川の氾濫対策として現在のような形に改修された。
 
 そこからさらに850m行った立川市砂川町3丁目29番あたりで、上水路が折れ曲がっている。何か理由があるようだ。
 並行して走っている西武拝島線は土盛りをした高架になっている。しかし、都道55号(所沢-武蔵村山-立川線)の辺りでは地形が盛り上がっていて線路は土盛りの必要がなくなっている。
 このような地形の起伏(撓曲、とうきょく)から、地層を見なくてもここに活断層があるということが容易に認定できる(変動地形学)。残堀川の河岸が起伏している所と結んだ線に立川断層が走っていて、玉川上水はその立川断層を迂回する形で掘り進んだことが分かった。


活断層:極めて近き時代(新生代第四紀)まで地殻運動を繰り返した断層で、今後も活動する可能性のある断層を言い、かつ断層面が地表まで達しているものをいう。
と言うことは平野部では断層面が埋もれてしまうので、それは活断層ではないことになってしまい、曖昧な定義であると言わざるを得ない。
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by chibi-papa | 2011-11-12 18:14 | チビのお出かけ  

松下村塾 本日開講23・11・05

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松下村塾正面

 松陰神社(世田谷区若林)の境内は七五三参りで賑わっている。

 本日開講と聞きつけて松陰神社の松下村塾(しょうか そんじゅく)にやって来たチビ。
 頼もう!入門したくやって来たニャ~!誰かおらぬか!頼もう~!おかしいニャ~、開講日だというのに誰も居にゃい。


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松下村塾裏手

 裏手に回ってみるが、やはり誰も居にゃい。向学心に燃えていれば、吉田松陰先生なら猫でも門下生にしてくれるに違いない。平成維新で活躍したいのニャ~!
 仕方ない。ここで一休みして待つとするか。


◇ 11月5日開講といっても、154年前のことなのよ。
→ えっ! 154年も前の話だったの!

◇ それに、ここの松下村塾はレプリカであって、本当の松下村塾は萩(山口県)にあるのよ。
→ ありゃ~!

< 時と場所を間違えていたチビであった >

◇ それにしても日本髪の鬘(かつら)にドレスとは、何とも変わった恰好だわね。
→ そうかニャ~。坂本龍馬だって和服にブーツだったんだから、そう奇妙な恰好とは言い切れないと思うんだがニャ~。 

◇ ところで、その鬘はどこで買ったの?
→ 一昨日の文化ノ日に浅草で時代祭りがあってね、仲見世通りの安立屋で買ってもらったんだニャ~。

< もし、こんな猫に出会ったら吉田松陰も坂本龍馬も驚くだろうに、そんなことにお構いなしのチビであった >

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松下村塾側面

◇ そもそも松下村塾に入塾したいという動機は、いったい何だったの?
→ 『人生倏忽(しゅっこつ)夢の如く幻の如し、毀誉(きよ)も一瞬、栄枯も半餉(はんしょう)、唯だ其の中に就き一箇不朽(ふきゅう)なるものを成就すれば足る』という吉田先生の言葉に触発されたんだ。

◇ それ、どういう意味なの?
→ 「人生というものは極めて短いものであり、夢幻のようなものである。誹り(そしり)を受けることも、褒められることも一瞬である。栄えることも衰えることも瞬時である。儚い人生である中で一つだけでいい、永遠に朽ちない事柄を成し遂げられれば充分である」ということだニャ~。

◇ だって、あんた猫でしょ!
→ 転瞬倏忽、猫不変人(てんしゅん しゅっこつ は世の常であり、猫も人も何ら変わるものではない)

転瞬 : またたきする程の短い時間
倏忽 : たちまち

 1854年、ペリーの再来航の時に黒船に乗って密出国を企てたが失敗、長州・野山獄に収容された。1855年に出所し、1857年11月5日に吉田松陰による松下村塾を開講した。開講したのも束の間、1858年12月に安政ノ大獄で再投獄される。吉田松陰が松下村塾で教鞭をとったのはわずかな期間だったが、塾から多くの人材が輩出し、日本の激動期に活躍した。

一旦、獄を出ることを許されても自宅に幽閉されていた。そこで、慕い来る近隣の青年たちに自分の思想、知識を伝授するようになった。初めから塾で生徒を教えようとして松下村塾を主宰したわけではなかった。

 吉田松陰の信条は、知識を身につけるだけでなく、身につけた知識をどう生かすかを考えさせることにあった。それを吉田松陰自身にも求めていた。即ち、松下村塾の中で最も熱心な塾生が吉田松陰だったわけである。塾生はそんな吉田松陰の姿勢に感化された。
 今、平成維新が近い!

 
♪ 吉田松陰
[作詞]星野哲郎 [作曲]浜口庫之助 [唄]尾形大作
一、
時と命の 全てを賭けた
吉田松陰 憂国の
夢草莽(ゆめそうもう)に 果つるとも
松の雫は 久坂に宿り
花は桂の 枝に咲く

二、
口で言うより 行うことが
志士の志士たる 誇りなら
覚悟の罪の 踏海忌(とうかいき)
下田港の 弁天島の
波も讃える 男意気

三、
何も持たない 若者たちの
無欲無限の 赤心(せきしん)
日本の明日を 創るのだ
松下村塾 長州魂(ちょうしゅう ごころ)
今も生きてる 萩の町


草莽崛起(そうもう くっき) : 身分を問わず、在野の志ある者たちが、新しい時代を築くために立ち上がること。

久坂=久坂玄瑞(くさか げんずい)のこと。
桂=桂小五郎(後の木戸孝允)のことを指している。

 七五三。7+5+3=15。

ボク十五 みんなに交じって 七五三 (チビ)

 足すと15になる。なぜ15かというと、論語に「子曰く、吾れ十有五にして学に志す」とある。本来は11月15日に氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長の加護を祈るのであるが、現在では11月15日に拘らず11月中のいずれかの土日祝日に行うようになった。今日11月5日は土曜日。
   
 ボクは吉田先生を見習って、もっと勉強しなくてはいけない。「一にご飯、二に昼寝、三に居眠り」を反省する今日この頃である。反省するニャ~。だからボクにも千歳飴を買ってニャ~! 


 
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by chibi-papa | 2011-11-05 18:40 | チビのお出かけ  

文化ノ日 23・11・03

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浅草寺境内の菊花展

 今日11月3日は「文化ノ日」。元々は睦仁親王(むつひと しんのう、第121代孝明天皇の皇子)の誕生日(旧暦だと9月22日)で、明治天皇の在位中は「天長節」と呼ばれていた。しかし、明治天皇の崩御と共に一旦廃止になった。
 昭和2年に「明治節」として復活し、戦後の昭和23年には「自由と平和を愛し、文化を奨める」を謳い文句に「文化ノ日」とされた。


明治5年に太陽暦を採用したため、 
明治元年(1868)~明治5年(1873)の天長節は9月22日。
明治6年(1874)~明治45年(1912)の天長節は11月3日。
(睦仁親王の誕生日を与えられた大室寅之祐の心境はいかに)

♪ 明治節 (めいじせつ)
[作詞]堀澤周安 [作曲]杉江 秀
一、
亜細亜の東 日出づる処                                             
聖の君の 現れまして                                               
古き天地(あめつち) 閉ざせる霧を
大御光(おおみひかり)に 隈なく祓い
教え遍く(あまねく) 道明らけく 治め給える 御代尊(みよとうと)

二、 略

三、
秋の空澄み 菊の香高き
今日の佳き日を 皆(みな)寿(ことほ)ぎて
定めましける 御憲(みのり)を崇(あが)
(さと)しましける 詔勅(みこと)を守り
代代木の森の 代代長(よよとこし)へに
仰ぎまつらん 大帝(おおみかど)


(まるで讃美歌のようだニャ~)

さし昇る 朝日の光 曇りなく 栄えむ國を 我が祈るかな (明治天皇御製)

天高く 秋の空澄む 文化の日 代代長へに 菊の香を聞く』(チビ)
 
 1866年(慶応2年)、父・孝明天皇が亡くなり、翌1867年、睦仁親王が16歳で第122代明治天皇になられた。その際、大室寅之祐なる者がすり替わって明治天皇になった、と言われているが定かでない(大室寅之祐を「表の明治天皇」、睦仁親王を「裏の明治天皇」とする説がある。この説によると明治天皇は二人三脚していたことになる)

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雷門通りを鎌倉武士が 牛 歩

 東京時代祭が開催されていた。浅草寺が興った飛鳥時代から江戸時代そして近代までの歴史を華やかな時代絵巻行列で表現している。場面は 「源頼朝 隅田川陣営」。
 1180年、頼朝は隅田川河岸に陣を張り、浅草寺に平家打倒を祈願したことをモチーフにしている。頼朝に率いられた威風堂々の千葉常胤(ちば つねたね)の軍勢が前を行く。既にこの年には事実上関東を支配。5年後の1185年に平家を滅ぼし、鎌倉時代が成立した。


源頼朝の活躍
1180年 : 伊豆で挙兵。鎌倉に侍所(軍事・警察組織)を設置。
1183年 : 東海道、東山道の行政権を獲得。
1184年 : 一ノ谷の戦いで平家を破る。
1185年 : 屋島の戦いで平家を破る。壇ノ浦の戦いで平家滅亡。
1192年 : 征夷大将軍となる。
(鎌倉幕府は1333年滅亡、鎌倉時代は1185~1333年の148年間続いた)

 行列の間隔がスローテンポ過 ぎ て、 何 だ か 眠 く な っ て き た ニ ャ ~

     パ パ ~ 帰 ろ う よ ~

それに人手が足らないせいか、女子供まで武士の恰好での行列にはちょっと興醒めしたニャ~。
 
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by chibi-papa | 2011-11-03 20:34 | チビのお出かけ