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伊佐沼、川越まつり23・10・16

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九十川を挟んで左が伊佐沼公園、右に伊佐沼

 九十川(くじゅうがわ)で鮒釣りを楽しんでいる人に声をかけながら、源流の伊佐沼を目指す。この九十川は江戸時代初期(1640年頃)に新河岸川(しんがしがわ)の舟運のために川越藩主が開削したもので、4~5Kmと短い水路だ。
 それなのに何で九十と付けたのだろう。九十川というと大井川とか天竜川の異称として知られている。それは川が増水したとき、肩車で90文の渡し賃を取ったからなんだ。まさに旅人にとって苦渋だニャ~。


九十川の下流は川越市南田島付近で新河岸川と合流して、岩淵水門先で隅田川に合流する。
 
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伊佐沼

 自然沼としては埼玉県最大で、関東では印旛沼に次ぐ大きさである。南北朝時代の1355年頃、伊佐氏が沼を浄化して溜池にしたとされ、それ以来、伊佐沼と呼ばれるようになった。
 戦後、食料増産のため干拓がおこなわれる以前は、現在の倍の広さがあったという。それでも、南北が1300m、東西が300mほどある。


 湖面にコサギが写っているのが分かりますか?

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伊佐沼

 春先には桜並木、6月下旬から7月初旬には古代蓮の見頃となるという。それにしても沼の中に設けられたこの囲いは一体なんなのだろう。囲いの中は乾涸(ひから)びている。

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中ノ門掘

 川越城は江戸の北の守りとして重要視されていた。中ノ門掘は、西大手門側から本丸方向への敵の進入を阻むための堀のひとつ。掘と堀の間に中ノ門(門の上に櫓を設けた櫓門)がかつて存在していたことから中ノ門掘と呼ばれる。

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川越祭の山車

 蔵造りの町並みを山車が行く。山車の天辺(てっぺん)に天降った(あまくだった)太田道灌。
 ほら、あそこ、あそこだよ。チビは人の多さに気を取られてか、あらぬ方を見ている。


太田道灌(おおた どうかん) : 室町時代中期の兵法に長じ、学問や和歌にも優れた武将。扇谷上杉氏の執事となり、江戸城、河越城(川越城)を築城。川越市役所の前には太田道灌の銅像が立っている。
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by chibi-papa | 2011-10-16 19:59 | チビのお出かけ  

塙保己一資料館23・10・09

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塙 保己一にそっと手を添えるチビ

 塙 保己一(はなわ ほきいち、1746~1821)は現在の埼玉県本庄市児玉の生まれ。7歳の時、病気で失明。15歳で江戸に出て鍼・按摩、琴・三味線を習うが身に付かず、学問の道を目指す。
 古文献を一度読んでもらうと、完璧に記憶し、数万冊の本に厳密な校正を加え、40年かけて 『群書類従』(ぐんしょ るいじゅう、国文学・国史を主とする一大叢書) を編纂刊行した。その17,244枚の版木(20字×20行の400字詰に統一されていて、今日の原稿用紙の基本様式となっている)は、江戸の大火や明治の動乱、関東大震災、東京大空襲にも耐え、社団法人 温故学会(渋谷区東2-9-1)に保管されている。


群書類従(ぐんしょ るいじゅう) : 群書とは多くの書物。類従とは種類ごとに集めたもの。編者・塙 保己一が古書の散逸を危惧し、収集・編纂したものを木版で刊行した。データベース。

11月13日(日)午後1時半から塙保己一先生没後190年記念講演会がある。テーマは 『叢書(そうしょ)の話・・水戸黄門から塙保己一まで』 と 『在此一戦・・東郷平八郎と明治時代』。聴講料無料。
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by chibi-papa | 2011-10-09 20:30 | チビのお出かけ  

23・10・2 藤田東湖 『正気の歌』

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藤田東湖の記念碑 (小石川後楽園内)

 156年前の今日午後10時、マグニチュード6.9の直下型地震が江戸を襲った(震源地は荒川の河口付近)。安政2年の安政江戸地震である。一旦は庭に避難した藤田東湖であったが・・・。
 記念碑には 「藤田東湖先生護母致命之処」 とある。記念碑の前で東湖の 『正気の歌』 を朗読した。


 天地正大の気、粋然として神州に鍾(あつ)まる
 秀でては不二の嶽となり、巍々(ぎぎ)として千秋に聳ゆ
 注いでは大贏(たいえい)の水となり、洋々として八洲を環る
 発しては万朶の桜となり、衆芳 与(とも)に儔(ちゅう)し難し、
 凝っては百練の鉄となり、鋭利 鍪(かぶと、兜)を断つ可し


 藤田東湖は水戸藩の水戸学の学者で、1840年、34歳で側用人として藩政改革にあたるなど、藩主・徳川斉昭(なりあき)の絶大な信用を得るに至った。1853年にペリーが浦賀に来航すると、幕府・海岸防禦御用掛(かいがん ぼうぎょ ごようがかり、海防掛)として、海防参与として幕政に参画した斉昭を補佐した。

 大地震発生。一旦は庭に避難するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追う。落下してきた梁(はり)を肩で受け止め母親を脱出させるも、東湖は力尽き梁の下敷きとなった。護母致命(命を差し出してでも母を護る)、享年49。

 水戸学の尊皇攘夷の思想は幕府のための尊皇(佐幕のための勤皇)であったが、皮肉にもこの尊皇攘夷がやがて倒幕と結びついてしまうのであった(勤皇=佐幕 → 勤皇≠佐幕)


藤田東湖(ふじた とうこ)の「東湖」は、生家の東に千波湖があったことからきている。

安政三大地震(第13代将軍 徳川家定の治世時に発生)
安政元年(1854)11月4日:安政東海地震 M8.4 犠牲者3千人
安政元年(1854)11月5日:安政南海地震 M8.4~8.5 犠牲者 数千人
安政 2年(1855)10月2日:安政江戸地震 M6.9 犠牲者4千人
安政東海地震では房総半島から四国まで最高10mの津波が発生。なお、嘉永7年=安政元年。
現在、関東・東海・東南海・南海で連動型の巨大地震となる危険性が取り沙汰されている。

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白壁の塀

 『正気の歌』 はまだまだ続く、

 ・・・
 ・・・
 屈伸天地に付す、生死またなんぞ疑わん
 生きてはまさに君冤を雪ぐべく、復 綱維を張るを見ん
 死しては忠義の鬼となり、極天 皇基を護らん


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商和稲荷神社の彼岸花

 小石川後楽園では彼岸花がいっぱい咲いていた。ここにも彼岸花(曼珠沙華)。渋谷区東2丁目のお稲荷さんに咲く曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
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by chibi-papa | 2011-10-02 22:00 | チビのお出かけ