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元 鶴岡八幡宮23・08・20

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旗立ノ松

 源頼朝の先祖、源義家(八幡太郎義家)は父・頼義と共に奥州の豪族・安倍氏を討伐(前九年ノ役、1051~1062年)するため、源氏の氏神である京は「石清水八幡宮」に戦勝祈願をして奥州に向かった。進軍の途中、ここ由比郷鶴岡で松の木に源氏の白旗を立てかけ野営したのであろう。その松が旗立ノ松として保存されている。

□ 覗いたら中空になっているから、大きなゴミ箱だと思っただニャ。
■ 馬鹿猫ですみません。
(飼い主より)
 
旗立の松 : 武門の旗を生命力が強い松の木に立てた。

源義家は石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎義家と呼ばれるようになった、。平成21年2月22日のチビの愛唱歌 ♪ 41 「八幡太郎」 も見てニャ~。

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元鶴岡八幡宮(元八幡)

 前九年ノ役を平定した翌年(1063年)、戦勝のお礼にと この地に石清水八幡(本宮)を勧請(かんじょう)し祀ったのが、「由比若宮」である。

八幡太郎義家は後三年ノ役(1083~1087年)の2年前にも由比若宮を修復している。

義家が武門の祖として英雄視されているのは、鎌倉幕府を開いた源頼朝のみならず、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞、室町幕府を開いた足利尊氏も、その子孫であるから。遡ると、第56代・清和天皇の血を引き継いでいる。
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由比若宮

 狭い境内に小さな神社だけど、どこか威厳を感じるニャ~。

鎌倉に 八幡宮の御社 元をただせば 由比の若宮(チビ)

 源義家の奥州征伐から約120年後の1180年、源氏再興の旗上げをした源頼朝は、まず最初に由比若宮に詣でた。そして現在の地にお遷(うつ)しになられた。
 1191年には鎌倉幕府の宗社(そうしゃ)に相応しく鶴岡八幡宮を整え、そこを鎌倉の町づくりの基点としたのであった。


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ペコちゃんにご挨拶

 ペコちゃんに鎌倉宮の例祭にも行って来たことを報告していると、周りを見ると黒山の人だかり。ベンチで話をしていだけなのニ~。カメラ・カメラ・カメラ・・・、落ち落ち話もしていられず、ペコちゃんと早々に別れたのであった。

□ ボクって有名人(猫)なのかニャ~。
■ 違うって。ペコちゃんが有名なんだよ。
□ そうだよね。ペコちゃんって いくつになっても可愛いニャ~。
■ ペコちゃんは昭和25年生まれだから、本当は今年で61歳だけど、永遠の6歳なんだよ。
□ そう言えば、4年前にみのもんたにずいぶん虐められたけど、立ち直ったみたいだニャ。ペコちゃん、頑張れ!

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by chibi-papa | 2011-08-20 20:18 | チビのお出かけ  

♪53嗚呼神風特別攻撃隊 23・08・15

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世田谷観音(特攻観音)

 世田谷観音は東横線の祐天寺駅、学芸大学駅、田園都市線の三軒茶屋駅、駒沢大学駅の真ん中に位置している。
 学芸大学駅で下車。歩くこと15分、東京学芸大学附属高校の正門に着く。ここには昭和39年(1964)まで東京学芸大学があったが、小金井市貫井(最寄駅は国分寺駅)に移転したため、高校の敷地としては広大だ。
 港区北青山3丁目(当時は赤坂区青山北町5丁目)にあった東京府青山師範学校を東急の五島慶太が誘致してきたもので、戦後は4つの師範学校を母体とした東京学芸大学が設立された。学芸大学駅という駅名はその由縁である。その広大な校庭に隣接して世田谷観音(正式には世田谷山観音寺)がある。


東京府青山師範学校の跡地の北青山は、戦後初の都営住宅となった。現在は住民の退去が進められていて一帯の再開発が噂されている。

駅名変遷の歴史
昭和02年:碑文谷駅として開業(碑衾村大字碑文谷だった為)
昭和11年:青山師範駅に改称(青山師範学校を誘致してきた為)
昭和18年:第一師範駅に改称(改正師範教育令で東京第一師範学校となった為)
昭和27年:学芸大学駅に改称(学制改革で学芸大学となった為)
昭和34年に小金井市に移転したが、付属高校が残っているので、駅名はそのままになっている。今のところ碑文谷駅に戻す気運にないようだ。
碑文谷駅 → 青山師範駅 → 第一師範駅 → 学芸大学駅

 「七難即滅、七福即生」と書いてある杭に乗ると、太陽の異変、星の異変、風害、水害、火災、旱害、盗難といった七難がたちどころに消えて、七福神がやって来るというのかニャ~。「七難即滅、七福即生 、七難即滅、七福即生」。
 正面に見えるのが仁王門で、その奥に観音堂(本堂)がある。本堂の龍の彫刻が素晴らしい。その左隣に特攻観音堂がある。そのことからここは特攻観音ともいわれている。

  
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特攻観音堂

 立て札には、特攻平和観音:国のために生還を期することのない特攻作戦に志願して若き命を捧げた特攻隊員英名(英霊の名?)6,418柱が奉蔵されている、とある。
 特攻隊員の7割が学徒出身であった。彼らに死を強要(表向きは志願)した懺悔に来ました。戦争を他の手段をもってする政治の延長と位置付けることを忘れまいと誓った。


陸軍2,244柱(航空1,355柱、空挺及び降下615柱、海上挺進265柱、戦車9柱)
  海軍4,174柱(航空2,548柱、特殊潜航艇437柱、回天104柱、震洋1,085柱)

特攻観音堂の前にある石碑
 特別攻撃隊の頌(しょう、誉めるの意)
 わが国が存亡をかけた大東亜戦争において若干17、8歳から30歳代までの勇士が、肉親への愛着を断ち切り洋々たるべき人生を捨てて、空に、海に、陸に、決然として肉弾攻撃を敢行し、偉大なる戦果を挙げ、ことごとく散華された。その数およそ6千柱。壮烈無比なこの攻撃は敵の心胆を寒からしめ、国民はひとしくその純忠に感泣した。
 特別攻撃隊の戦闘は、真に至高至純の愛国心の発露として国民の胸奥に生き続け、また世界の人人に強い感銘を与え、わが国永遠の平和と発展の礎となっている。
 ここに心から愛惜の情をこめて特別攻撃隊の諸史料をこの遊就館に納め、その精神と偉業とを後世に伝える。 昭和60年12月8日 特別攻撃隊慰霊顕彰会

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神州不滅特別攻撃隊之碑

 碑文にはこう刻まれている。「第二次世界大戦も昭和20年8月15日祖国の敗戦という結末で終末を遂げたのであるが、8月19日午後2時、当時満州派遣第675部隊に所属した今田均少尉以下10名の青年将校が、国破れて山河なし生きてかひなき生命なら死して護国の鬼たらむ、と又大切な武器である飛行機をソ連軍に引き渡すのを潔しとせず、谷藤少尉の如きは結婚間もない新妻を後に乗せて、前日に二宮准尉の偵察した赤峰付近に進駐し来るソ連戦車群に向けて、大虎山飛行場を発進前記戦車群に体当り全員自爆を遂げたもので、その自己犠牲の精神こそ崇高にして永遠なるものなり此処に此の壮挙を顕彰する為記念碑を建立し、英霊の御霊よ永久に安かれと祈るものなり」とある。

 事の是非はともかく、安らかにお眠り下さい。

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あゝ特攻

 特攻一色に凝り固まっていた最中(さなか)でも、艦上爆撃機・彗星一二型を中心とする夜間爆撃隊 『芙蓉部隊』 (指揮官:美濃部正少佐)は特攻しなかった。

彗星一二型は水冷式エンジンで扱い難く敬遠されていた。そのため空冷式の彗星三三型が量産されると、彗星一二型は運用から外されていった。そこに美濃部は目をつけ彗星一二型をかき集めるとともに、整備士を製造元の愛知航空機に派遣して習熟させたうえで、芙蓉部隊で運用していった。

レーダーの発達したアメリカ軍に対しては、夜襲戦法で敵空母甲板、敵飛行場滑走路を爆撃するのが有効であると、美濃部少佐は考えた。

 昭和20年2月、海軍木更津航空隊基地で行われた艦隊司令部・沖縄戦作戦会議の席上、美濃部少佐は練習機を含めた全機特攻に敢然と反対した。

 「ここに居合わす皆さんは、指揮官や幕僚で自ら突入する人はいない。必死尽忠と言うが敵の弾幕をどれだけ潜ったというのです。失礼ながら私は回数において皆さんの誰よりも多く突入してきました。今の戦局に指揮官が自ら死を賭しているのか。搭乗員の練習不足を特攻の理由に掲げているが、指導訓練の創意工夫が足りないのではないか。」
 「私の所では飛行時間200時間のパイロットでも夜間洋上進撃が可能です。劣速の練習機が何千機進撃しようとも昼間ではバッタのごとく落とされます。」
 「艦隊司令部は芙蓉部隊の若者たちの必死の訓練を見ていただきたい。トロくさい赤とんぼ(練習機)をいくら特攻に出したところで、艦船の遥か手前で打ち落とされるのがオチです。嘘だと思うなら、ここにいる皆さんが実際に乗ってごらんなさい。私が一機で全て撃墜してみせます」。

 美濃部少佐は、その場の最下級者で、しかも当時29才の若手仕官です。それが司令部の方針を批判したのですから、抗命罪(上官の命令に反抗し、又は服従しない罪)で軍法会議にかけられても仕方がない。
 
 でも、そうならなかった。美濃部少佐の正論を認めざるを得なかった。そして、美濃部は、自身の言葉どおり夜間爆撃を粘り強く続け、芙蓉部隊は特攻以上の戦果を上げて見せたのだった
(延べ630機を出撃させ、損害は47機、未帰還隊員は76名)。
 
 十死零生の 「特攻」 とは、いったい何だったのでしょうか?特攻第1号として、関行男大尉は、「通常攻撃でも爆弾を命中させる自信がある。そんな俺に体当たりを命じるなんて、我が日本は終りだ」と、慨嘆(がいたん、憤り嘆くこと)し出撃して行った。死んで2階級特進し軍神となった。

最大速度
彗星一二型:580km/h
中間練習機:219km/h、作業練習機「白菊」:229km/h、米機P51:700km/h

搭乗員の訓練は効率第一とし、実用的なことのみを徹底して教えたため、訓練時間を3分の1にまで短縮することに成功した。
武装面では、対地・対空用のロケット弾、空中で爆発して爆風と破片で周囲に被害を与える光電管爆弾など特殊爆弾を積極的に採用。敵使用の飛行場に光電管爆弾を投下し使用不能にさせた。

芙蓉部隊の基地
・前線基地:岩川基地(鹿児島県大隅町)・・鹿屋基地の北30km
・後方基地:藤枝基地(静岡県)・・芙蓉峰(富士山)から芙蓉部隊
前線で疲れた隊員を後方基地に移すという、当時の日本ではまずあり得ないシステムであった。半独立集団といわれる所以である。

硫黄島ノ戦い : 昭和20年2月19日~3月26日
沖縄戦 : 昭和20年3月26日~6月20日

 美濃部少佐はヒューマニズムから特攻を否定したのではなかった。適切な通常攻撃法を採用できれば、高い士気を維持しつつ、搭乗員を生還させることにより実戦での練度を向上させての反復攻撃によって特攻より大きな戦果が可能であるために、合理的見地から特攻を否定したのであった。
 しかし、7月に入ってアメリカ軍の九州上陸が噂されるようになった。もうこれ以上の通常攻撃は意味がないとして、特攻計画を立てるも、8月15日 終戦。


戦後、美濃部正は航空自衛隊創設期より勤務し、奈良幹部候補生学校長を経て、昭和45年、空将で退官。平成9年他界、享年82。

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世田谷公園

 チビはさかんに顔をキレイ、綺麗している。

 世田谷公園は特攻観音から北に800m。かつてここら一帯は陸軍の練兵場などの軍用地だった。
 戦後、特攻には反対であったという指揮官が多くいた。戦局が悪化の一途を辿る中とはいえ、特攻出撃した若者たちにとっては、その時に 「特攻には反対」 と言ってくれる指揮官の方がどんなに嬉しかったであろう。
 「平和の灯」(向井良吉 作)を見上げながら、散華された英霊に鎮魂歌 『あゝ神風特別攻撃隊』 を捧げる。


♪ 嗚呼神風特別攻撃隊
[作詞]野村俊夫 [作曲]古関裕而 
一、
無念の歯噛み(はがみ)堪え(こらえ)つつ
待ちに待ちたる決戦ぞ
今こそ敵を屠(ほふ)らんと
奮い起ちたる若桜

二、
この一戦に勝たざれば
祖国の行く手 いかならん
撃滅せよの命(めい)受けし
神風特別攻撃隊

三、
送るも征くも今生の
別れと知れど頬笑みて
爆音高く基地を蹴る
あゝ神鷲(みわし)の肉弾行(にくだんこう)

四、
大義の血潮 雲染めて
必死必中 体当り
敵艦などて逃す(のがす)べき
見よや不滅の大戦果

五、
凱歌は高く轟けど
今は帰らぬ丈夫(ますらお)
千尋の海に沈みつゝ
尚も皇国(みくに)の守り神

六、
熱涙伝う顔上げて
(いさお)を忍ぶ 国の民
永遠に忘れじ その名こそ
神風特別攻撃隊
神風特別攻撃隊


昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊が初の突入を敢行。その成果が10月28日に海軍省から発表された。この歌はその日の夜にNHKから急遽放送された。なお、レコードは昭和20年3月に録音されたが、音盤は発見されていない。

多くの隊員の技量はA、B、C、DのDで技量不足、しかも特攻機の装備と攻撃法では全く歯がたたず、正規空母、戦艦、巡洋艦の撃沈はゼロ。
「大日本帝国万歳」と言う者は殆どなく、愛する人の名とか、「お母さ~ん」、「海軍のバカヤロー」と叫びながら散華していった。隊員の苦悶が分かれば、美化することなどできない。特攻を美化してはいけない。

平成19年7月15日のチビのお出かけ120 「世田谷公園のSL」 を見てね!
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by chibi-papa | 2011-08-15 13:38 | チビの愛唱歌  

平成23年 暑中見舞

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渋谷公園通り、パルコ前

暑中お見舞い申し上げます

・・・・
今年の夏は 戸惑い多い
不思議な 不思議な夏です
暑中お見舞い申し上げます

・・・・
今年の夏は 途方に暮れる
不思議な 不思議な夏です
暑中お見舞い申し上げます


                平成23年盛夏 チビ
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by chibi-papa | 2011-08-06 23:59 | チビの時候のご挨拶  

広島平和記念日23・08・06

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東海寺・原爆犠牲者慰霊碑に手向ける涙、ただ熱い

 広島は今日、66年目の原爆の日を迎えた。原爆も原発も Nuke。原発に依存しない社会を目指さなくてはならない。
  東京に住んでいる被爆者が昭和33年(1958)に東友会(とうゆうかい)を結成。昭和42年(1967)、ここ東海寺に慰霊碑を建立した。慰霊碑の向って右には爆心地から2、3kmの地点の広島原爆石が添えられている。この石は京橋川(太田川の支流)に架かっていた御幸橋(平成2年に架け替えられた)の歩道の縁石で、燃えさかる市内から宇品方面に逃げる被災者で石造橋(道路・軌道併用橋で幅22m、長さ162m)の上は大混乱、凄惨を極めた。


広島に落とされた原爆は砲身型原爆(長崎には爆縮型原爆)で、臨界に必要なウラン235を2つの半球に分けておいて、起爆薬の爆発で半球同士を衝突させて臨界を起こす方式。

♪ ひろしまの母
広島音楽祭参加作品。島倉千代子にとって最後の古賀メロディー
[作詞] 石本 美由起 [作曲] 古賀 政男  (昭和52年)
一、
この世の命 終わるとも
わが子を想う 母の愛
哀しみ深い 広島の
定めを泣くか 太田川

<セリフ>
あれから、もう三十三年・・・
もしも、お前が生きていてくれたら幸せな日々が過せだろうに・・・
街ですれ違う人の後姿にも、ふと お前を偲ぶ母の淋しさは、
誰に、誰に打ち明けたら、誰に・・・
二、
訪ねて来ても この母に
(こた)えてくれる 声はない
御霊の眠る 慰霊碑に
手向ける涙 ただ熱い

三、
たとえ百まで 生きたとて
涙の乾く 時はない
平和を祈る 鐘の音(ね)
両手を合わす 夏の朝


 
 広島市上空600mで炸裂した原子爆弾(TNT火薬に換算して16,000トンの爆発力)は、一瞬にして14万人の命を奪い、焦土と化した。この歌は国民義勇隊(本土決戦に備えるために創設された国民総動員組織)の娘を失った母の深い慟哭を描いている。その後、原爆症で死亡した人を含めると犠牲者は25万人に達する。両手を合わす 熱い夏。

原子爆弾に八木アンテナの技術を用いた受信機能がセットされ、威力を発揮する上空600mで炸裂させた。
八木アンテナは八木秀次と宇田新太郎によって開発された指向性に優れたアンテナで、大正15年(1926)に特許権(第69115号)を得たものの、日本では全く注目されなかった。それどころか昭和16年には、重要な発明とは認め難いとの理由で特許は無効とされた。しかし欧米では八木アンテナは高い評価を受け、それを応用してレーダーの性能を飛躍的に向上させた。

原爆症 : 原爆による健康障害の総称
 ・ 熱線、爆風による創傷、熱傷
 ・ 放射線被曝による急性障害(発熱、下痢、脱毛など)
 ・ 放射線被曝による晩発性障害(癌、白血病、心疾患、白内障など)
枝野幸男官房長官は福島第一原発事故における晩発性放射能障害を指して、「直ちに健康に悪影響が出ることはない」と言ったのだろう。裏を返せば、4年後から放射能障害が目立ち始め、しだいに地獄絵図と化すだろう。そんなこと(広島・長崎の原爆、チェルノブイリ事故からして)常識なのにそれでも避難しようとしないのはあくまでも自己責任であって、今後、政府としては晩発性の障害が出ても責任を持てませんよ、と言っているようなものだ。だから情報を知った官房長官は国民のことは放っておいて、直ぐ5歳の双子と奥さんをシンガポールに避難させたらしい。
自己責任というからには、正確に情報を伝えることが大前提となる。枝野さん、言葉遊びをしている場合ではない。国を導く者の責任は重い。非人道的な罪として最終的に何らかの裁きにかけられることになるだろう。
枝野幸男に限らず高木義明文部科学大臣や山下俊一長崎大学教授などの御用学者も同罪であろう。

晩発性障害は癌に限らず、で実に様々な障害が出てくる。それは放射線被曝により免疫系が破壊されるからである。しかし、国連科学委員会(UNSCEAR、United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiation )では、被災者の被曝線量データが明確でないことを理由に、放射線と病気の因果関係は科学的に証明されていないという立場をとっている。
原発事故が起きたら移住させるので、被曝線量データの入手は極めて困難どころか、事実上不可能にちかい。そこで我が国がとった非人道的行動とは・・・。

福島第一原発事故では強制避難を一部地域だけ限定したのは、因果関係を解明するための疫学調査には被災者の被曝線量データが欠かせないことから、心配ないと強弁し続け、住民が逃げ出さないよう囲い込んだ。これで疫学調査が可能となる。しかしそれは人間の実験用モルモットを多数獲得したということである。功名心に駆られた学者、許すまじ。

チェルノブイリ原発事故の場合、事故後4、5年から甲状腺癌の発症が増え、次に乳癌、そして骨癌が増えていった。福島原発の場合はチェルノブイリの時よりもスピードが早く、被害も大きくなるかも知れない。
 
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これニャ~に?

 東海寺に隣接する「子供の森公園」。これは一体何なんだろう?
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恐竜だ~!

 君の尻尾(しっぽ)だったのね。
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意外に大人しいニャ~!

 ハイド、ハイドウ。忽ち(たちまち)恐竜を飼い馴らしてしまうチビであった。

 本日、夜9時からNHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報」があった。それによると、わが国はアメリカが原爆攻撃の準備をしていることを知らないまま、「想定外」の奇襲を受けたとしてきたが、実際は原爆投下に向けた米軍の動きを事前に察知していたことが、新たな証言と資料から明らかになってきた。
 日本軍の諜報部隊が追跡していたのは、テニアン島を拠点に活動するある部隊。軍は、不審なコールサインで交信するこの部隊を、「ある任務を負った特殊部隊」とみて警戒していたのだ。8月6日、コールサインを傍受した軍は、特殊部隊が広島に迫っていることを察知。しかし、空襲警報さえ出されないまま、原爆は人々の頭上で炸裂した。
 そして9日未明、軍は再び同じコールサインを傍受、「第2の原爆」と確信した。情報は軍上層部にも伝えられたが、長崎の悲劇も防ぐことはできなかった。


 番組では、広島・長崎への原爆投下を巡る日本側の動きを克明に追う。情報を掴みながら、なぜ多くの人々が無防備のまま亡くならなければならなかったのか…。原爆投下から66年、その問いに初めて迫る調査報道だった。

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たッ、高かッ!

 こいつは首が長いからエレベータだニャ~!

 8月6日に向けて西部方面の第二総軍の将兵が、そして学徒動員も市中心部に集められた。このことはNHKスペシャルで触れられてないのには腑に落ちない。そして畑俊六(はた しゅんろく)元帥ら最上級幹部クラスは生き残ったのはなぜなのだろう。特に畑元帥は原爆投下時の所在はいろいろ云われていて定かでない。
 

昭和50年10月31日、両陛下は日本記者クラブ主催の公式記者会見に初めて臨まれ、昭和天皇は「原爆投下は遺憾には思うが、止むを得ないことと、私は思ってます」と述べられた。これには深い意味があるような気がする。
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by chibi-papa | 2011-08-06 13:30 | チビのお出かけ