<   2010年 11月 ( 3 )   > この月の画像一覧

 

碑文谷公園22・11・23

e0031605_11181640.jpg
碑文谷池(ひもんや いけ)

 碑文谷6丁目にある碑文谷公園はその大半を碑文谷池が占めている。昔は池がもっと大きくて野鴨が飛来していたようだ。将軍も鷹狩に来たかもしれないニャ。江戸時代から明治初期にかけてこの池は碑文谷村の灌漑用貯水池で大切に管理されていたが、現在はボート遊びができる。

 江戸時代この辺りは碑文谷村と衾村(ふすま むら)があって、明治中頃の合併で碑衾村(ひぶすま むら)に、そして昭和2年に碑衾町になった。その内、衾地区は当用漢字にないという理由で地名が変えられ(八雲、緑ヶ丘)、衾の字は消えた。そして残ったのが碑文谷。その碑文谷の由来は、檜の薄板を曲げた容器 “ まげわっぱ ” を売る檜物屋が多かった。その檜物屋(ひものや)が転化して “ ひもんや ” に、それに碑文谷の字を当てはめたようだ。
  
[PR]

by chibi-papa | 2010-11-23 23:59 | チビのお出かけ  

探鳥(多摩川)22・11・07

e0031605_7243599.jpg
多摩川・大栗川合流地点

 日本野鳥の会が主催する探鳥会に参加した。写真に写っている人達はそのメンバーで~す。河川敷(かせんしき)は草原、砂礫地、木立などいろいろな環境を寄せ集めたようになっていているので、鳥の種類は実に豊富。確認できた野鳥は36種にのぼる。

平成22年11月7日(日) 午前10時半~午後1時半 曇のち晴
 カイツブリ(鳰)、カワウ(川鵜)、ダイサギ(大鷺)、コサギ(小鷺)、アオサギ(蒼鷺)、マガモ(真鴨)、カルガモ(軽鴨)、ミサゴ(鶚)、トビ(鳶)、オオタカ(大鷹)、ハイタカ(鷂)、ハヤブサ(隼)、チョウゲンボウ(長元坊)、イカルチドリ(桑鳲千鳥)、イソシギ(磯鷸)、ユリカモメ(百合鴎)、キジバト(雉鳩)、カワセミ(川蝉)、ヒバリ(雲雀)、キセキレイ(黄鶺鴒)、ハクセキレイ(白鶺鴒)、セグロセキレイ(背黒鶺鴒)、タヒバリ(田雲雀)、ヒヨドリ(鵯)、モズ(百舌)、ジョウビタキ(尉鶲)、ノビタキ(野鶲)、ツグミ(鶇)、ウグイス(鶯)、シジュウカラ(四十雀、鳴き声のみ)、ホオジロ(頬白)、カワラヒワ(河原鶸)、スズメ(雀)、コムクドリ(小椋鳥)、ハシボソガラス(嘴細烏)、ハシブトガラス(嘴太烏) 以上36種

 カワセミは宝石のように色鮮やか。目がいいボクは、二羽も見つけちゃったニャ。青や緑に見えるという構造色でまさに青い宝石・翡翠(ヒスイ)と呼ばれる所以だニャ~。雀の仲間のモズやノビタキ、それに鷹の仲間のハヤブサやミサゴ、オオタカも・・・いる、いる、いる。 
 モズを双眼鏡が捉えた。詩人・サトウハチロウが昭和10年に発表した詩『百舌よ泣くな』が一瞬頭をよぎる。ノビタキは渡り鳥でその途中なんでしょうか。11月にはもう南方に行っちゃっていないはずなのにニャ~。はぐれノビタキよ、南へ急げ!

 ハヤブサが鉄塔のてっぺんに止まっている。 ミサゴ(魚を捕る鷹)は英語でオスプレイ(osprey)。米軍が沖縄に配備しようとしている輸送機がオスプレイ。ミサゴは獲物の魚を見つけるとホバリング(hovering、空中での停止飛行)をした後、狙いを定めて急降下して仕留める。オスプレイもホバリングできるが、見た目からしても何ともバランスが悪い。左右のエンジンの推力調整と回転翼の方向変換が難しいので、墜落の危険性がある。そういった安全面の議論と同時に、国防上の議論も必要であろう。

チ ビボクは眼がいいから双眼鏡なしでも見つけちゃう。でも鳥さん、安心してね。襲って食べたりしないから、ウォッチングしているだけだからね。でも、猛禽類のオオタカは怖いな。こっちが食われそうだよ。
パ パ食物連鎖の頂点に位置するオオタカと雖も(いえども)、哺乳類を狙ってもネズミ程度の大きさだから、チビのようにメタボな猫は大丈夫だよ。

構造色 : 光の波長などによる発色現象で、見る角度によって様々な色彩が見られる。

詩 『百舌よ泣くな』 詩:サトウハチロー
百舌が枯れ木に 泣いている
おいらは藁を 敲いてる
綿ひき車は おばアさん
コットン水車も 廻ってる

みんな去年と 同じだよ
けれども足り無え ものがある
(あん)さの薪割る 音が無え
バッサリ薪割る 音が無え

兄さは満州へ 行っただよ
鉄砲が涙に 光っただ
百舌よ寒くも 泣くで無え
兄さはもっと 寒いだぞ

この詩に感動した茨城県の中学校教師・徳富繁がメロディーをつけたのが、

♪ もずが枯れ木で
[原詩] サトウハチロー [作曲] 徳富 繁

百舌が枯木で 鳴いている
おいらは藁を 敲いてる
綿びき車(綿繰り車のこと)は お婆さん
コットン水車も 廻ってる

みんな去年と 同じだよ
けれども足ん無え ものがある
兄さの薪割る 音が無え
バッサリ薪割る 音が無え

兄さは満洲へ 行っただよ
鉄砲が涙で 光っただ
百舌よ寒いと 鳴くがええ
兄さはもっと 寒いだろ

「隼」は昭和16年に正式採用された陸軍の一式戦闘機の愛称で、5,751機も中島飛行機で作られたが駄作機であった。こんな低性能の「隼」に乗って撃墜されたパイロットの霊は浮かばれない(機体が脆弱で空中分解することから殺人機と呼ばれた)。でも、加藤建夫は日中戦争で活躍し、太平洋戦争が始まると不平を言わず「隼」を乗りこなした。昭和17年5月、ベンガル湾上空にて戦死。享年39。
なお、昭和19年封切の映画「加藤隼戦闘隊」の主題歌に使われたことから、映画と同じ名前で馴染むようになった。

♪ 加藤隼戦闘隊(別名: 飛行第六十四戦隊歌)
Kato Hayabusa Fighter Wing (aka: IJA 64th Fighter Wing)
[作詞]加藤部隊・田中林平(りんぺい) 
[作曲]陸軍軍楽隊・原田喜一及び岡部正幸 [唄]灰田勝彦
 エンジンの音 轟々(ごうごう)
With the loud sound of the engine,
 隼は征く(ゆく) 雲の果て
the falcon go, to the end of the clouds.
 翼(よく)に輝く 日の丸と
The Rising Suns shining on our wings
 胸に描きし 赤鷲の
and the Red Eagles drawn on our chests
 印は我らが 戦闘機
are the symbols of our fighters.

この歌が作られたのは昭和15年で、戦闘機は昭和12年に正式採用された九七式戦闘機(歌詞の隼は戦闘機一般のことを鳥のハヤブサになぞらえたもので、戦闘機「隼」のことではない)
加藤建夫は部隊マークの赤鷲の下に、撃墜マーク(赤鷲の片翼)を九七式戦闘機の胴体に自ら描いていたが、太平洋戦争が始まると、個人プレー的な撃墜マークを描くことを禁止した。

ミサゴは捕えた魚を貯蔵し、漁が出来ない時にそれを食べるという言い伝えがある。そして、ミサゴが貯蔵した魚が自然発酵して旨みが増すのを真似たのが、寿司の起源だと伝承されている。「寿司=みさご」 から 「みさご鮨」 の屋号を持つ寿司屋が各地に点在する。

オスプレイ(垂直離着陸機)は回転翼を上に向けた状態ではヘリコプターのように、前に向けた状態ではプロペラ機のように水平飛行できる新しい輸送機。米軍はこれを沖縄・普天間基地に配備しようとしているが、政府は 「アメリカ側から聞いていない」 と木で鼻をくくったような答を繰り返すばかり。なぜアメリカに確かめようとしないのか。このことが政府不信につながり、安全面から沖縄県側の反発が強まっている。

日航機墜落事故とオスプレイ:今から25年前の昭和60年8月12日、日本航空123便はダッチロールの末、御巣鷹山に墜落。死者520名、重傷4名という大事故が起きた。
墜落原因をどうしても隠したい政府は、アメリカ政府の仲介の下、ボーイング社の修理ミスが原因であることにした。そのかわりにボーイング社の巨額なオスプレイ開発費を日本政府が負担した。
パパはこの事故で知人2人を亡くした。大阪の知人は遺品すら見つからなかった。 

e0031605_7235971.jpg
多摩川河川敷・関戸橋付近

 ところで、このコンクリート製のは何だ?
[PR]

by chibi-papa | 2010-11-07 23:00 | チビのお出かけ  

坂本龍馬の菊人形22・11・03

e0031605_7124838.jpg
湯島天神の菊人形
 
 湯島天神で11月1日より菊祭りが開催されていて、境内には2千株の菊が咲き誇っている。恒例の菊人形はNHK大河ドラマ 『龍馬伝』 をモチーフにしたもの。坂本龍馬とお龍こと楢崎龍(ならさき りょう)さん。お龍さんったら手を振っちゃって、まあ仲がいいこと。

 慶応2年(1866)、薩長同盟を成立させた2日後、寺田屋事件が起きた。京都・伏見の寺田屋に宿泊していた龍馬を伏見奉行の捕り方が取り囲んだ。それに逸早く(いちはやく)気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり、龍馬らに危機を知らせた。龍馬は親指を負傷しながらも辛くも脱出。
 身の安全と療養を兼ねて薩摩・霧島の旅に出る。もちろんお龍を連れての(新婚)旅行であった。龍馬30歳、お龍25歳。しかし二人の蜜月は短かった。翌慶応3年、刺客に倒れる。明治維新の1年前のことであった。刺客の黒幕はサムシング・デビルだった。


 お龍はその後、45歳の時に再婚する。再婚しても龍馬の妻だったというプライドを捨てきれないまま明治39年(1906)、66歳の生涯を閉じた。その墓石には 「坂本龍馬之妻龍子」 と刻まれている。それを許した夫も度量が広いニャ。

e0031605_712960.jpg
遣米使節150年

 いやに西日が強く当たるニャ~!

 坂本龍馬が生を受ける9年前、小栗忠順(おぐり ただまさ)は、2500石の旗本(新潟奉行)の子として明治維新の41年前の1827年、神田駿河台で生まれ育った(この辺り一帯に小栗家の屋敷があり、写真の案内板はYMCAビルの一角にある)。知行地が上野国群馬郡権田村だったことから小栗上野介(おぐり こうずけのすけ)と呼ばれる。
 安政6年(1859)目付となり翌年、日米修好通商条約批准のため渡米した。世界一周して帰国後、外国奉行や勘定奉行などの要職につき幕府の財政立て直しを図ったが、失職し知行地の権田村の烏川河原で官軍により斬首された。享年41。

 遣米使節から今年でちょうど150年。地元・群馬県高崎市では来月「遣米使節150周年記念式典」を行い、幕末の変動期に埋もれてしまった小栗上野介を顕彰する。
 
大老・井伊直弼は安政5年(1858)に日米修好通商条約を締結した。その条約批准のため翌年、小栗上野介は渡米したが、渡米の2ヶ月後の安政7年3月3日、井伊直弼は桜田門外で暗殺された。

小栗上野介は9カ月間かけて世界一周してきた。それはまさに観光で、光を観てきた。物見遊山でなかった。帰国後4年、軍艦奉行として以前から構想していた製鉄所兼造船所を横須賀建設に着手する。これは遣米使節として、ワシントン海軍工廠を見学したことに触発された。

遣米使節の功により、200石加増され2700石となる。

横須賀造船所については、平成18年(2006)7月6日のチビの日記「旗艦三笠」を見てね。 




[PR]

by chibi-papa | 2010-11-03 23:00 | チビのお出かけ