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善養寺の松と菊(211) 21・10・18 

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横綱山から見た影向ノ松(ようごうのまつ)

 JR総武線(下国と蔵国を結んでいる)・小岩駅に降り立つと3本の商店街。南へフラワーロード商店街、東にサンロード商店街、その間の昭和通り商店街を行く。柴又街道(金町~柴又~南篠崎)、千葉街道(東小松川交差点~市川橋~千葉広小路)を跨(また)いだ東小岩2丁目に善養寺(ぜんようじ)がある。江戸川に接している。

 そこの松が凄いのなんのって凄い。高さ8メートル、枝ぶりが何と東西30メートル、南北28メートル。これ1本の松、凄いニャ~!樹齢600年(室町中期から)のこの巨大にして美しい松、松の横綱(元横綱・栃錦が日本名松番付の横綱を推挙)を「影向ノ松」(都指定天然記念物)という。影向(ようごう)とは仏教用語で、仏や菩薩が衆生済度(しゅじょうさいど、衆生を迷いの中から救済して悟りを得させること)のためこの世に現われる姿のことで、松が枝を広げる様が、母親が両手を広げて子供を迎えるように慈悲に溢れる姿に見えるところから名づけられたという。

 そうか、仏菩薩さまが松の姿になって眼の前に現れたんだニャ~!それにしても、ここ横綱山の山上からの眺めは一段と素晴らしい。この横綱山は地元出身の横綱・栃錦関(第44代横綱、栃・若時代を築いた、故春日野理事長)を記念して造られた。そういえばJR小岩駅内に栃錦関の銅像があったニャ。

 ボクにとっては、パパが影向の松なのかニャ~?
 菊笑い 飼い主の恩 松で知る (チビ)

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菊祭りは明日から

 明日から始まる影向菊花大会(10月19日~11月23日)の準備におおわらわ。作業を耳を裏返して聞いている。猫の手も借りたけりゃ声をかけてニャ。
 見ごろは10日後ぐらいからであろうか。ちょっと来るのが早かったニャ。


 山門の右手前に浅間噴火犠牲者供養碑がある。今から2百年以上むかしの1783年(第10代将軍・徳川家治が治世のころ)に浅間山が噴火し(天明3年の大噴火)、関東一帯に火山灰が降った。
 噴火で大規模な土石流(どせきりゅう)が発生、それが吾妻川(あがつまがわ)に流れ込み川を堰き止めた。こうしてできた天然のダムは忽ち(たちまち)決壊し、泥流(でいりゅう)となって吾妻川沿いの村々を飲み込んだ。多くの遺体が本流の利根川や支流の江戸川の中州に打ち上げられた。
 下小岩村の村人は手厚く埋葬した。そして12年後の1795年、十三回忌を営み供養塔を建てその霊を弔った。


4ヶ月前にも千島列島の松輪島の芙蓉山で噴火があり、付近の航空路が閉鎖された。

最近の噴火
・雲仙岳の普賢岳(1990~1995年)火砕流が発生、43名が犠牲。
・北海道の有珠山( 2000年 )噴火を事前に予知し、住民を避難させることに成功。
・三宅島の雄山(2000~2002年)全島民が島外へ避難。
噴火警戒レベルが1~5まである。火山に登る場合は、レベル1(火山活動は静穏)であることを確認したい。

活火山、休火山、死火山
死火山と考えられていた北海道の雌阿寒岳が1955年(昭和30年)以降、噴火を繰り返したことから、火山噴火予知連絡会は2003年(平成15年)、活火山を『概ね1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山』と新しく定義し、それによる活火山の数を108とした。休火山・死火山の用語は廃止となった。

噴火を繰り返す可能性が高いカルデラは、九州の阿蘇、姶良、阿多、鬼界、 北海道の支笏、屈斜路、洞爺など。巨大カルデラ噴火は1万年に1回の頻度で起きてきた。

 改めて知る、火山帯の上の日本。
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by chibi-papa | 2009-10-18 23:00 | チビのお出かけ  

京王沿線 Walking12 (210) 21・10・17

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玉川上水緑道

 「玉川上水緑道と武蔵野に秋を探しに」とのテーマで、久我山駅→兵庫橋公園→玉川上水→禅林寺→諏訪神社→深大寺→武蔵野の路→調布駅の11キロメートルを歩いた。

 事故のないように一人ひとりに声をかけるチビであった。
 
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禅林寺・森 林太郎(森 鷗外)の墓

 森林太郎が認(したた)めた 「余は石見人 森林太郎トシテ 死セント欲ス」 で始まる7月6日付けの遺言には、栄誉や称号の一切を排して 「森林太郎墓」 と するよう言い残して、その3日後の7月9日に亡くなった。享年60。

脚気論争で海軍軍医総監の高木兼寛に負けたので、肩書を刻むことはできなかったのかも知れない。

 森林太郎(1862年~大正11年)は石見国(いわみノくに、島根県)津和野出身なので、自らを石見人と称している。明治維新の6年前、津和野藩主の侍医である森家に誕生。医学博士(29歳)、45歳で陸軍軍医総監(中将相当)、従二位、勲一等。文学博士(47歳)。除隊後は小説家に転身。代表作に 「舞姫」 「山椒大夫」 「高瀬舟」 など。夏目漱石と並ぶ文豪と評される。
 ペンネームの鷗外は杜甫(とほ、712~770)の漢詩からとったと云われているが、諸説あってはっきりしない。

 
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禅林寺・太宰 治の墓

♪ 武蔵野エレジー (玉川上水情死行)
[作詞] 佐伯 孝夫  [作曲] 佐々木 俊一
一、 (竹山逸郎)
月に一声(ひとこえ) 「グッド・バイ」と
告げて残して 武蔵野原の
青葉の蔭の 川霧夜霧
消えて逝く身は 夢の夢

二、 (藤原亮子)
君を命の 春の灯と
慕い奉りし
(したいまつりし) 切ない恋よ
世間も親も 許して給え
死んでいきます この恋に
 
三、 (藤原亮子)
別れらりょか 離さりょか
泣いて笑うて 女の願い
この一筋に 悲しく結ぶ
体二つの 愛しさよ

四、 (竹山逸郎、藤原亮子)
哀れ浮き世の 色染めて
濁り模様の 玉川水路
砂金と成りて 水底
(みなそこ)清く
眠る二人と 人の云う
 

 昭和23年(1948)6月、新聞連載予定の「グッド・バイ」の校正原稿と遺書を残したまま、太宰治が愛人と五月雨を集めし玉川上水に身を投じた。このショッキングな事件は瞬く間に広まり、その2ヶ月後にはレコードが発売された。
 井伏鱒二は、その愛人(山崎富栄)を「太宰を殺した悪女」と罵ったが・・・。歌は、生前の山崎富栄を知る梶原悌子が云う 「太宰治の死に付き添った女」 の立場からの歌詞になっている。二番はの 「死んでいきます」 は 「死んで行きます」 なんでしょうか、それとも 「 死んで生きます この恋に」 なのでしょうか。


6日後、遺体は太宰の誕生日である6月19日に1,300m下流で発見された。死の直前に書いた短編「桜桃」に因んで、この日は桜桃忌(おうとうき)と名付けられた。

近くに住んでいた井伏鱒二(いぶせ ますじ、明治31年~平成5年)は師匠にあたり、仲人でもある。弟子の太宰は 「井伏鱒二選集」 の編纂にも携わり、「『井伏鱒二選集』後記」 を著した。
「『井伏鱒二選集』後記」 に 「・・・私がほとんど二十五年間かわらずに敬愛しつづけて来た井伏鱒二と言う作家の作品全部を、あらためて読み直してみる事も、太宰という愚かな弟子の身の上にとって、ただごとに非ざる良薬になるかも知れぬ・・・」 とある。

太宰治(明治42年~昭和23年、享年38) : 青森県五所川原市(当時は北津軽郡金木村)出身。小説家。今年は太宰治生誕100年である。本名は島津修治。太宰治の墓石の隣りは「島津家之墓」。

太宰の墓は鷗外の墓の斜め向かいにある。青森の実家の墓に入ることを拒否されたことから、森鷗外の眠る禅林寺に建てられた。
と言うのも、太宰治の作品 「花吹雪」 に 「・・・近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鷗外の墓がある。どういうわけで、鷗外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鷗外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかった・・・」 という箇所がある。このことから、森鷗外の墓の近くに建てられた。
太宰は鷗外の墓が三鷹にあるわけを知らないと書いているが、鷗外の墓は当初、向島の弘福寺にあった。津和野藩下屋敷があった向島には11歳から18歳まで住んでいた。その弘福寺は津和野藩主の菩提寺であったが、関東大震災で全焼してしまった。そこで同じ宗派である黄檗宗(おおばく しゅう)の禅林寺に移されたというわけ。
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by chibi-papa | 2009-10-17 23:00 | チビのお出かけ