<   2009年 04月 ( 5 )   > この月の画像一覧

 

(191) 21・04・26 孔子祭

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大成殿(孔子廟)

 第5代将軍・徳川綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍ヶ岡の林羅山邸にあった孔子廟をここに移した。その百年後の寛政9年(1797)には幕府直轄の学校として、ここに昌平坂学問所(昌平校)を開設した。
 大正11年に国の史跡に指定されたが、翌12年(1923)の関東大震災で入徳門と水屋を残し全てを焼失してしまった。そして、昭和10年(1935)鉄筋コンクリート造りで再建した。


林羅山(はやし らざん、1583~1657) : 江戸時代初期の儒学者(朱子学派)。第2代将軍・徳川秀忠に講書(書物の内容を講義すること)をおこなった。第3代将軍・徳川家光の侍講(じこう、君主に仕えて学問を講義する役)となり、寛永12年(1635)には武家諸法度の起草にあたった。

入徳門は漆塗工事がおこなわれたばかりで、被(かぶ)れるといけないということで潜(くぐ)れなかった。

平成18年6月24日の チビのお出かけ 58 「二つの聖堂」も見てね。

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孔子祭

 湯島聖堂では毎年4月の第4日曜日に孔子祭をおこなっている。孔子祭にはお酒、生鯉、野菜などをお供えして孔子とその学問を顕彰している。
 神田神社神官による清めの儀礼のあと、奏楽と共に開扉がおこなわれる。そしてお供え物をしてから、田部井文雄元千葉大学教授による経典講義がおこなわれた。


湯島聖堂での孔子祭は途中、明治維新で途絶えたものの、元禄4年(1691)からおこなわれている。
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by chibi-papa | 2009-04-26 21:11 | チビのお出かけ  

(190) 21・04・19 根津谷

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4月、本郷台に咲くツツジ

 本郷台と上野台(上野の山)の間を根津谷といった。昔むかし、江戸湾の入海(いりうみ)が入り込んでいて、本郷台に上がる船着場あたりが根津だったのだろう(不忍池は入海だった名残り)。
 日本武尊(やまとたけるのみこと)が創建した社(やしろ)に太田道灌が社殿を奉建。いつしか門前には遊郭ができ賑わったとある。明治維新の戊辰戦争の時は、本郷台(加賀藩上屋敷)に大砲を据えて、上野山に立て籠もる彰義隊に照準を合わせた。


 徳川綱重(第5代将軍綱吉の兄)の子・家宣(いえのぶ、綱吉の甥)が第6代将軍となるにあたり、その産土神(うぶすながみ)として綱重(つなしげ)の屋敷地(ツツジの名庭)を献納し、権現社が五百メートル北の千駄木からここに遷座(せんざ)された。三百年前の1706年のことであった。それが現在の本郷台の斜面に咲く根津神社のツツジ苑というわけ。

根津神社の本殿も楼門も漆塗工事のためシートで覆われていた。去年の7月から少しずつ漆塗工事を進めているが、今年9月までには終えるという。

根津谷は幅約500mで、その真中を不忍通りと地下鉄千代田線が走っている。かつては王子駅付近で石神井川と分岐した谷田川(藍染川)が不忍池に流れ込んでいた。

門前の遊郭は、本郷台の加賀藩上屋敷に東京大学ができた為、明治21年に洲崎に移転した。吉原と共に繁盛したが、昭和18年、海軍の要請で石川島造船所の工員宿舎にそっくり買収された。昭和20年、米軍の空襲で灰燼と化した。

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5月、上野台に散る彰義隊

 徳川慶喜は1868年2月に新政府に恭順(きょうじゅん)の意を表し、寛永寺に蟄居(ちっきょ)した。同月、彰義隊(しょうぎたい)結成。旧幕府は彰義隊の存在が新政府に対する軍隊組織と受け取られることを恐れ、そうかといって放っておくわけにもいかず江戸市中取締に任じた。4月に江戸城は無血開城となり、徳川慶喜は水戸へと退却したが、彰義隊は寛永寺に留め置かれた。

渋沢成一郎は、天野八郎率いる彰義隊を離脱して田無に移り、振武軍を結成。

 西郷隆盛が組織した御用盗は、江戸各地で放火や強盗を起こし、それを彰義隊になすり付けた。そのことから彰義隊と新政府軍兵は小競り合いとなった。5月、新政府は彰義隊に武装解除を通告するも、かえってそのことで彰義隊との衝突が頻発した。そこで新政府は武力で鎮圧することを決定。 

 1868年7月4日(慶応4年5月15日)、大村益次郎 指揮する新政府軍は接収した幕府の弾薬貯蔵庫から大量の弾薬を運び込み、寛永寺一帯に立て籠もる彰義隊を包囲。
 向かいの本郷台には佐賀藩の反射炉で製造した2門のアームストロング砲(後装施条砲)を設置。距離 『 5町半!(600m)』 ドド~ン、ドド~ン。砲弾は根津谷を飛び越えて彰義隊を粉砕。西郷隆盛は上野広小路から突撃。彰義隊は瓦解、1日で散ったのであった。


彰義隊(しょうぎたい)は 「大義を彰(あきら)かにする」 という意味で付けられた。
「彰義隊の墓」は西郷隆盛の銅像のすぐ近くにある。ここで上野戦争で亡くなった彰義隊の隊員の火葬がおこなわれた。

幕府への不信感を江戸市民に植え付けるため、薩摩藩は密かに御用盗を組織して市中を横行させ、放火、強盗など汚い手をつかった。
さらに汚い手として、大村益次郎の秘密作戦がある。会津藩からの援兵だと偽って「會」の旗印を掲げ上野山に入ると、突然「會」の旗を下して長州の旗を掲げ、黒門口の守備隊を背後から銃撃した。このことは、漏れたたった1枚の瓦版から発覚した。

大村益次郎(1824~1869) : 長州藩の医師、兵学者で事実上の日本陸軍の創始者。戊辰戦争の功績により新政府の幹部となり軍制改革を進めた。戊辰戦争での新政府軍の戦死者を慰霊するため東京招魂社(靖国神社)を建立した。明治2年、急進開化主義に反対する刺客に暗殺される。享年45。靖国神社の中央に銅像が聳え立っている。

新政府軍は和田掘(杉並区永福1丁目)の幕府・弾薬貯蔵庫(焔硝蔵)を接収し、その大量の弾薬を上野戦争や会津戦争に使った。かつての焔硝蔵(えんしょうぐら)は明治大学の和泉キャンパスと築地本願寺の和田掘廟所(びょうしょ)になっている。近くに京王線・明大前駅(大正6年、火薬庫前駅から改称)がある。

イギリスは1863年の薩英戦争でアームストロング砲に欠陥があることが分かり廃棄した。廃棄したアームストロング砲は南北戦争(1861~1865)中のアメリカに輸出され、南北戦争が終わると今度は幕末の日本に売却された。
幕末、肥前藩(佐賀藩)はアームストロング砲をほぼ自力で完成させ、初めて上野戦争で使用した。

戊辰戦争(ぼしんせんそう、1868~1869) : 明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した1年半にわたる我が国最大の内戦。鳥羽伏見の戦いに始まり上野戦争、会津戦争、箱館戦争にいたる内戦を総称して戊辰戦争という。1868年の干支(えと)が戊辰であることから名付けられた。

・・・ 今年のキーワードは 『 解 』 ・・・
(チビの日記!!チビのお出かけ 190 )
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by chibi-papa | 2009-04-19 23:00 | チビのお出かけ  

京王沿線Walking8 (189) 21・04・18

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  京王堀之内駅前

 今年度の京王沿線ウォーキングが始まり、新しいスタンプカードをもらう。完歩賞を目指して頑張るニャ。
 今回は多摩横山ノ道で木漏れ日(こもれび)の揺れる林の中を歩こうと、京王堀之内駅を午前9時半にスタート→別所公園→多摩横山ノ道→一本杉公園→多摩横山ノ道→若葉台駅までの11km。
 毎回約2,500人が参加するこのウォーキング、ニャンコはボクだけだニャ~!

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  多摩横山ノ道

 武蔵国衙(こくが)が現在の府中市にあった時代、府中から見て多摩市付近で東西(横)に連なる山を「多摩の横山」と呼んだ。古代東海道や鎌倉街道がこの丘陵を貫いている。防人の通り道となっていて万葉集 第20巻には、

 『 赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ

が収録されている。 「防人(さきもり)に出かける夫に、せめて馬を持たせたい。しかし、赤駒は放し飼い中だし、あまりにも急な召集だから捕えている間もない。もう二度と会えないかも知れないのに、あの多摩の横山を越えて、難波までの遠い路を歩いて行かせてしまった。」と、武蔵国豊島郡の防人を送り出した妻が嘆いている。せめて馬を持たせてやりたい。だが、明日からの農作業のことを考えると・・・でも、これからの暮らしにどんなに差支えがあろうとも夫に馬を持たせよう。そう心に決めたが肝心の馬を捕えている間がない・・・そんな荒い息遣いが聞こえてくるようだ。


e0031605_16222995.jpg 防人の召集令状を出すと、逃亡を警戒してか早々に武蔵国衙(府中)に集合させられた。

万葉集 : 4千5百余首から成る歌集で、大伴家持(おおともノやかもち)が編纂し奈良時代末期に成立した。万葉集には防人のために徴用された兵や、その家族が詠んだ歌(防人歌)が百首以上収録されている。
  防人見返りの峠

 九州北部や壱岐・対馬の防衛のため召集された防人は、弓や太刀などの武具から草鞋(ぞうり)に至るまでの経費は全て自弁で国衙の府中に集合させられ、軍団を編成して難波まで徒歩あるいは馬で、瀬戸内海は船で九州へ赴任した(難波までの旅費も自弁)
 防人の任期は往復の日数を除いて3年間。屯田兵(とんでんへい)のように農業で自給自足しながら、防衛任務と厳しい訓練に明け暮れた。
 この歌を詠んだ宇遅部黒女(うぢべノくろめ)の夫は果たして無事に帰還できたのであろうか。


防人(さきもり) : 大化改新(たいかノかいしん)の後、663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江ノ戦い(はくすきのえノたたかい)で唐・新羅の連合軍に敗れ、百済は滅亡した。そのことで今度は唐・新羅が我が国に攻めて来るのではないかとの憂慮から、北九州沿岸の防備のために設置された辺境防備の兵。太宰府がその指揮にあたった。

防人の交替の時期は3月。1か月ほどかかるので、出発は1月の中旬から2月初旬。寒風の中を一路西へ西へと・・・

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  多摩横山ノ道

♪ 明日はお立ちか (昭和17年)
[作詞] 佐伯孝夫 [作曲] 佐々木俊一 [歌] 小唄勝太郎
一、
明日はお発ちか お名残り惜しや
日本男児(やまとおのこ)の 晴れの旅
朝日を浴びて 出発つ(いでたつ)君よ
拝む心で 送りたや
二、
駒の手綱を しみじみ取れば
胸にすがしい 今朝の風
お山も晴れて 湧き立つ雲よ
君を見送る 峠道
三、
時計みつめて 今頃あたり
汽車を降りてか 船の中
船酔いせぬか 暴風(あらし)は来ぬか
アレサ夜空に 夫婦星(みょうとぼし) 

 多摩丘陵の大半は開発されて多摩ニュータウンとなり、昔日を偲ぶものはこの多摩横山ノ道ぐらいになってしまった。
 宇遅部黒女(700年代前半)と小唄勝太郎(1942年)、三沢あけみ(1964年) の歌を比較しながら歩く。


♪ 明日はお立ちか の元歌
一、
明日はお発ちか お名残り惜しや
なまじ逢わねば 泣くまいに
心と心 繋いだ糸は
何で切れましょ 切れやせぬ
二、
思うばかりで 口には言えず
握るこの手を 忘れずに
お山も今朝は 泪で曇る
君を見送る 峠道
三、
時計みつめて 今頃あたり
汽車を降りてか 船の中
船酔いせぬか 暴風は来ぬか
アレサ夜空に 夫婦星

 この元歌を昭和39年に三沢あけみ によってリバイバルヒットさせたという珍しいケース(三善英史も歌っている)。  
 元歌のままでは検閲に通らないということで、手直しした歌詞で昭和17年に発表されたのが、勝太郎バージョンの ♪ 明日はお立ちか である。

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  若葉台駅前

 また会ったニャ~!あの時(平成19年6月16日のチビのお出かけ 118)は君の頭の上に乗って御免よ~!

小唄 勝太郎(明治37年~昭和49年) : 鶯歌手(うぐいすかしゅ、芸者出身の歌手)。端唄風にアレンジした新民謡の普及などの功績により、紫綬褒章(しじゅほうしょう)、勲四等宝冠章(ほうかんしょう)を受章。享年69。
平成17年には故郷の新潟市中央区に「小唄勝太郎顕彰碑」が建てられた。 
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by chibi-papa | 2009-04-18 15:16 | チビのお出かけ  

♪ 43 チューリップ 21・04・11

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日比谷公園のチューリップ

 日比谷は江戸湾の入り江だった。徳川家康の号令で江戸城の修築工事が始まり、東伊豆から切り出された十数万個の石が運び込まれた。その後、入り江は埋め立てられ大名屋敷となった。明治になって陸軍近衛師団の練兵場に、そして明治36年(1903)にわが国初の西洋式庭園(ドイツ式)として開園した。

 ♪ チューリップ
 一、〔作詞〕 近藤宮子 〔作曲〕 井上武士
 咲いた 咲いた
 チューリップの 花が
 並んだ 並んだ
 赤 白 黄色
 どの花 見ても 綺麗だな


 作詞をした近藤宮子(明治40年~平成11年)は10年前の今月亡くなった。
 満州事変が勃発した昭和6年(1931)、専業主婦だった宮子に子供のための作詞の依頼があり、『チューリップ』 などを作詞した。翌年、宮子の作品は無名著作物として 『絵本唱歌』 に公表された。井上武士は作詞者が誰だか分からないままそれに曲をつけた。それから40年近く経ってから井上武士と宮子は対面することになる。


 昭和49年に井上武士が亡くなると、昭和57年に日本教育音楽協会の元会長の小出浩平が著作者だということになってしまった。それに異を唱え昭和58年に裁判を起こし、平成5年に宮子の勝訴が確定した。
 「歌い継がれていくならそれで良い」と思っていたが嘘はいけないと、76歳で裁判を起こした近藤宮子。赤、白、黄色のチューリップが咲き揃った4月、老衰のためこの世を去った。享年92。


近藤宮子の父は国文学者の藤村 作(つくる)。宮子が 『チューリップ』 などを作詞した当時は幼稚園唱歌研究部にかかわっていた。のちに東洋大学の学長となる。母は高等女学校の音楽教師。
宮子の夫は父の教え子の国文学者で、当時、東京音楽学校講師。

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重要文化財の法務省旧本館

 日比谷公園・祝田門を出て皇居・桜田門へ向かうと左手に法務省旧本館がある。この 国家の権威を露骨に出したようなドイツ・ネオバロック様式の建物は、明治28年(1895)司法省庁舎として建てられた。大正12年(1923)の関東大震災の時は大丈夫だったが、昭和20年(1945)のアメリカ軍の空襲で壁面と床を除いて焼け落ちてしまった。昭和25年に法務省本館として再利用され、そして平成6年(1994)に創建時の外観に戻された。

 二、〔作詞・作曲〕 井上武士
 揺れる 揺れる
 チューリップの 花が
 風に 揺れて
 ニコニコ 笑う
 どの花 見ても 可愛いな


 裁判員制度は来月21日に施行され、7月下旬以降に実際に裁判員が加わる裁判が開始される予定だニャ。近藤宮子が提訴したような民事裁判は裁判員制度の対象事件とはならない。裁判員制度の対象となるのは刑事裁判で、死刑や無期懲役を含む重罪事件という特殊な世界に市民を参加させようとするものなんだ。
 現代版 『魔女裁判』 となって冤罪(えんざい)が多発するなど問題が多すぎる。いったん凍結した上で、この法律を冷静に読み返してみたらいい。
 裁判員制度が揺れている。司法が揺れている。


国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図ることが目的だというが、それがなんで裁判員制度につながるのか理解に苦しむ。

来月スタートの改正・検察審議会法を含め、権力が独走するのを防ごうとするこれらの制度は、実質的に逆効果(権力強化の隠れ蓑)を狙っているのではないだろうか。

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二重橋の手前の石橋

 桜田門をくぐって二重橋方面へ。“ しりとり ” しながら・・・
 チューリップ→プリン
 それじゃ~尻取りにならないよ
 プだから、フでもブでもいいんだよね
 もう一度いくよ
 チューリップ→フラワー→ワカバ→バブル

 チューリップ・バブルと言えば、オランダで1637年に起こった世界最初のバブルなんだ。オスマン・トルコから輸入したチューリップの球根に人気が集中、民衆の狂気と貪欲さから球根に飛ぶような値が付いたんだ。飛んだ後の価格は真っ逆さま、100分の1以下まで下がって経済は大混乱に陥ってしまった。
  

1637年というと、わが国では江戸時代・初期(第3代将軍・徳川家光の治世)で、島原ノ乱が起こった年。

 三、〔作詞・作曲〕 井上武士
 風に揺れる
 チューリップの花に
 飛ぶよ 飛ぶよ
 蝶蝶が 飛ぶよ
 蝶蝶と 花と 遊んでる


 それから四百年後の今日も射幸心(しゃこうしん)を煽(あお)ったデリバティブ(世界の残高7京円)が崩壊し、世界中を経済恐慌が襲っている真っ最中。その結果、貨幣価値は100分の1以下まで下落するかも知れない。飛ぶのはチューリップの花に舞う蝶蝶(ちょうちょ)がいい。

超インフレを経験したのは、明治維新の時と太平洋戦争敗戦の時。ハイパーインフレを乗り切るため歴史を学び、お年寄りに当時の状況を聞こう。お年寄りは知恵の宝庫。

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皇居外苑の桜並木

 あれっ!桜!ソメイヨシノより咲き始めが2週間ほど遅い八重桜はこれからが盛りなんだニャ~。鈴なりの花をいっぱいつけて、良~く見ると牡丹の花のよう(ソメイヨシノの花びらは5枚だが、八重桜は30枚前後)。だから牡丹桜ともいうんだニャ。

 向こうに見えるのはパレスホテル。老朽化したので建て替えて3年後の平成24年に営業を再開するそうだ。現在、取り壊し準備中。
 大手門を越え、気象庁前に大きな銅像が・・・


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4メートル20センチの和気清麻呂像

 猪になったつもりのチビと和気清麻呂(わけのきよまろ)のツーショット。菅原道真には牛。和気清麻呂には猪が付きものなのに、ここには猪がいない。そこでボクが猪になって和気清麻呂を弓削道鏡(ゆげのどうきょう)からこうして守っているというわけ。
 奈良時代の769年に宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐう しんたくじけん)が起こる。弓削道鏡が天皇の位を狙っていたが、和気清麻呂が遮(さえぎ)った。野望を絶たれ怒った道鏡は清麻呂を大隈国(鹿児島県大隈半島)へ流刑に処した。
 清麻呂は大隈半島に下向する途中、再度 宇佐八幡宮に立ち寄ろうとして八面山(はちめんざん)の麓の加来村(宇佐神宮の手前15キロ)まで来た所で足を悪くしてしまった。清麻呂の命を狙う道鏡の刺客が迫る。と、そこに山から猪が降りてきて、清麻呂を乗せて宇佐神宮まで案内したという。


 第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう、女帝)に取り入って天皇になろうとした弓削道鏡。それを和気清麻呂が 「天皇家の血筋でない者が天皇になることができない」 として、国体最大の危機から皇統を守った。そういうことで、楠木正成(くすのきまさしげ)と共に忠君愛国のシンボルとして祭り上げられた。
 明治32年発行の拾円札の表は清麻呂、その裏には猪が大きく描かれている。また、清麻呂を祀る京都の護王神社(ごおうじんじゃ)の狛犬は雌雄の猪になっている。このように和気清麻呂と猪はセットになっているんだニャ~。ボクとパパはワンセットでなく 「ニャンセット」 ニャンちゃって!

弓削道鏡(?~772) : 奈良時代の僧侶。病気治癒の功績によって称徳天皇の信任を得て太政大臣禅師となる。のちに称徳天皇が道鏡のために法王という官職を作り与えた。天皇の位を狙ったが和気清麻呂に阻止された。称徳天皇没後、下野国(しもつけのくに、栃木県)に流され、そこで没した。

宇佐八幡宮 : 大分県宇佐市にある神社で、八幡宮の総本社。天皇の代替わりなどがあると宇佐使(うさづかい)という使節が朝廷から派遣された。宇佐八幡宮神託事件に因み宇佐使は和気清麻呂の子孫が務めていた。
現在は10年おきに勅使が派遣されている。

八面山 : 大分県中津市にある標高659mの山。四方八方どの位置から見ても同じような形に見えるため、八面山の名が付いたといわれる。

皇国史観による三大悪人
・足利尊氏・・・後醍醐天皇に逆らった極悪人
・平将門・・・東国で新皇を名乗った極悪人
・弓削道鏡・・・称徳天皇を呪術で拐(かどわ)かした極悪人

 弓削道鏡が極悪人だというのは、婚姻関係を結ぶことで政(まつりごと)を牛耳(ぎゅうじ)っていた藤原一族によるもので、それを明治新政府から戦前、戦中まで都合よく利用してきた。今、弓削道鏡を見直す時期に来ているのでは。

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大手壕で鉄棒をするチビ

 和気清麻呂の銅像は昭和15年(1920)、紀元二千六百年記念事業の一つとして建てられた。この記念事業は初代・神武天皇が即位されて2600年目を祝うもので、「神国日本」の国体観念を徹底させようと大々的におこなわれた。

 同年、日比谷公園では朝日新聞社の主催で 「軍馬 勝山号に感謝する」 催しがおこなわれた。軍馬勝山号については平成18年8月13日の チビの愛唱歌 ♪ 19 を見てね。  

 ♪ 紀元二千六百年
 [作詞] 増田 好生 [作曲] 森 義八郎 (行進曲風の様式歌)

 金鵄(きんし)輝く 日本の
 栄(は)えある光 身に受けて
 今こそ祝え この朝(あした)
 紀元は二千六百年
 あゝ一億の 胸は鳴る

 歓喜あふるゝ この土を
 確(しっか)と我等 踏み締めて
 遥かに仰ぐ 大御言(おおみこと)
 紀元は二千六百年
 あゝ 肇国(ちょうこく)の 雲青し

 荒(すさ)ぶ世界に ただ一つ
 揺がぬ御代(みよ)に 生い立ちし
 感謝は清き 火と燃えて
 紀元は二千六百年
 あゝ 報国の 血は勇む

 潮(うしお)(ゆた)けき 海原に
 桜と富士の 影織(かげお)りて
 世紀の文化 また新(あらた)
 紀元は二千六百年
 あゝ 燦爛(さんらん)の この国威

 正義 凛たる 旗の下(もと)
 明朗 亜細亜(アジア) うち建てん
 力と意気を 示せ今
 紀元は二千六百年
 あゝ 弥栄(いやさか)の 日は昇る


・ 金鵄 : 建国説話に出てくる金色の鳶(とび、とんび)
・ 弥栄 : 繁栄を祈っていう言葉。

日向国の高千穂ノ宮から東遷して国を平定した神武天皇(じんむてんのう)は、辛酉元旦に大和国の橿原ノ宮(かしはらのみや)で即位する。これが天皇制の始まりとなる。そこで、明治政府は神武天皇が即位した辛酉元旦の年を皇紀元年とした。そして西暦1940年が皇紀2600年にあたる。
辛酉元旦は西暦紀元前660年2月11日に当たることから、2月11日が建国記念日となっている。

皇紀元年の干支は辛酉(しんゆう)。皇紀観念は西暦紀元前660年。西暦紀元前660年は数字上では-661(紀元0年はないため)。
・十干 -661÷10=-66・・・1 余りが1なので辛
・干支 -661÷12=ー55・・・1 余りが1なので酉

 行事終了後に一斉に貼られたポスターには 「祝い終わった。さあ働こう!」 の標語が。再び引き締めに転じていった。そして翌年の昭和16年、太平洋戦争に突入。

 ・・・ 今年のキーワードは 『 解 』 ・・・
( チビの日記!! チビの愛唱歌 ♪ 43 )
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by chibi-papa | 2009-04-11 20:01 | チビの愛唱歌  

♪ 42 さくら さくら 21・04・05

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爛漫の 香の波動を 魂で聞く  (チビ)

 ♪ さくら さくら (昭和16年編詞)
  
 さくら さくら
 野山も里も 見渡す限り
 霞か雲か 朝日に匂う
 さくら さくら 花盛り


 関口芭蕉庵の東門が見える。流れは井ノ頭池を水源とする神田川。2~300mほど下流に関口大洗堰があり、そこで二分され一方は神田川外濠となり、もう一方は神田上水として取水されていた。
 
さまざまの 事おもい出す 桜哉
(芭蕉が藤堂家に武家奉公した頃のことなどを思って詠んだ句)

昭和16年編詞の「さくらさくら」は、
敷島の大和心を 人問わば 朝日に匂う山桜花(本居宣長)
が基になっているが、昭和16年編詞のさくらは山桜でなく ソメイヨシノ をイメージしている。本居宣長(もとおり のりなが)は江戸時代の国学者。
昭和19年、大和心を詠んだこの和歌に因んで、神風特別特攻隊 「敷島隊」 「大和隊」 「朝日隊」 「山桜隊」が編成され、多くの若者が散華していった。

関口芭蕉庵 : 文京区関口にある史跡。松尾芭蕉が神田川の改修に携わった際に住んでいた居住跡が元になっている。敷地内は芭蕉堂や庭園、池などからなっている。その右奥は椿山荘(ちんざんそう)

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箱根山 花の波動が 木霊する (チビ)

♪ さくら さくら (日本古謡)
 
 さくら さくら
 弥生の空は 見渡す限り
 霞か雲か 匂いぞ出ずる
 いざや いざや 見に行かん


 新宿区にある戸山公園の箱根山にて、
  善し悪しも 思い出す花 さくら哉  (チビ)
 ・ ここでいう“さくら”は昭和16年編詞の♪さくらさくらを指す。

箱根山については平成17年4月19日の チビの愛唱歌 ♪7 を見てね。

本日午前11時半ごろ、北朝鮮から飛翔体(ロケット、テポドン2)が発射され、日本上空を飛び越えた。防衛省は万が一の落下に備えて、日本海にSM3搭載のイージス艦2隻を展開、東北と首都圏にPAC3を配備していたが、午後、迎撃態勢を解いた。
一連の政府とマスコミの報道は国民にあたかも「ミサイル防衛システムで防衛できる」という幻想を抱かせた。それどころか、日本のレーダーの周波数帯が把握された危険性がある。
・テポドン(大浦洞)2 : 長さ30、3m 直径2、2m 射程6,700km 光明星2号衛星搭載
・SM3 (Standard Missile 3):海上配備型迎撃ミサイル
・イージス艦 : Aegis destroyer、高性能防空艦
・PAC3 (Patriot Advanced Capability 3):地対空誘導弾パトリオットミサイル。

パトリオットミサイル(PAC3) : 北朝鮮のミサイル脅威に対してアメリカから5,000億円を出して購入したが、命中率は10%以下で、もしかするとゼロかもしてないという代物。どの程度迎撃できるかという問題ではなく、迎撃システムを持っていることで国民が安心できることが重要だという考えで導入したらしい。
アメリカ側も日本は徹頭徹尾アメリカ従属だから、巨額だが無力なシステムを売りつけても文句は出ないだろうと見下している。こんなパトリオットミサイルを各地に配備している映像を見せられ馬鹿らしくなる。

 ・・・ 今年のキーワードは 『 解 』 ・・・
( チビの日記!!チビの愛唱歌 ♪ 42 )
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by chibi-papa | 2009-04-05 21:40 | チビの愛唱歌