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桜の下で(188) 21・03・29 

 花盛り 色の波動が 魂を奮る(たまをふる)  (チビ)
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駒場公園、満開

 桜の下でのお花見。花の色と宴の音の波動が相まって魂を奮い立たせる。春はいいニャ~。元気が出てくる。全ての物質やエネルギーは波動的な性質と粒子的な性質の両方を持っているんニャ~(波動と粒子の二重性、Wave-particle duality)。プラスの振動で良い匂いがするニャ~。ニャ~、ニャ~、心うきうき!

 宴楽(えんらく) の 音の波動が 魂を奮る (チビ)

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浅草寺境内も満開?

 宝蔵門の横にあるこれはクンクン、造花だニャ~。
 
造花でも 思い籠められ 魂を奮る (チビ)


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旧仁王門礎石

 観音前警備派出所の隣に大きな石が3つある。これは徳川家光が寄進した仁王門の礎石で、大きさは1メートル40センチ角(下の方は1メートル20センチ角)、高さ1メートルの本小松石(ほんこまついし)。

 仁王門は平安時代・中期の942年に建立されるも、数度の火災に遭いその都度再建された。第3代将軍・徳川家光が1649年に再建した仁王門は、江戸大地震(1855年)にも関東大震災(1923年)にも耐え抜いたが、昭和20年(1945)3月10日のアメリカ軍による東京大空襲で炎上。本堂も五重塔も焼失してしまった。
 仁王門を宝蔵門と改めて、同じ場所に昭和39年(1964)再建された。そして、平成19年(2007)に屋根はチタン成型瓦に葺き替えられた。

礎石は全部で18個あった。

本小松石は現在でも神奈川県真鶴町岩地区で採掘されている安山岩(火山岩)

本堂の屋根も、来年12月の完成を目指して現在、チタンに葺き替え工事中。チタン成型瓦はとても軽い。コンビニエンスで売っているお弁当の蓋のようにペラペラ。でも強度は凄い。この葺き替えによって重心が下がり、地震に対応できる。

宝蔵門については平成16年12月26日の チビのお出かけ 10 を見てね。

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ニ、三分咲きの墨田公園に建つ東京大空襲戦災犠牲者追悼碑

 アメリカ軍による東京大空襲の際に言問橋で多数の人が亡くなった。橋の袂(たもと)にその追悼碑がある。桜の名所・墨田公園は昭和20年3月10日の東京大空襲で亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。

 アメリカ軍の無差別爆撃で今月21日に訪れた清岸寺も幡ヶ谷不動尊も灰燼に帰した。また昨日訪れた小石川後楽園も被害にあった。先ほど行った浅草寺の本堂も仁王門も五重塔も全て灰に・・・

 昭和20年3月10日の空襲は特に大規模で、鉄筋の言問橋は「昭和の地獄橋」と化した。アメリカ軍は計画的に退路を封じ込めようと焼夷弾を下町区域の外側輪郭に沿って落とした(これは非戦闘員大量虐殺による戦争犯罪)。橋の上は猛火に包まれ火焔地獄。炎に追われて川に入った人々は熱風で水面から出ている部分を焼かれた。
 この3月10日の大空襲の犠牲者は、縁者が引き取った遺体2万体、無縁仏・行方不明者9万体。忘れまじ、東京大空襲。Lest We Forget.


 『 あゝ東京大空襲 朋よ 安らかに 』

 もう一つ忘れてはならないことがある。それは昭和39年、当時の総理大臣・佐藤栄作は、東京大空襲の指揮官、カーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章(くんいっとう きょくじつ だいじゅしょう)を贈っていることである。その10年後の昭和49年には今度は佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞している。何だ、それ!

カーチス・ルメイ(1906~1990) : 東京大空襲などの日本焦土作戦を立案・実行したアメリカ軍人。後にアメリカ空軍参謀総長になった。
源田実(参議院議員)と小泉純也(防衛庁長官)の推薦により、ルメイを国家又は公共に対して功労のあった者として、勲一等旭日大綬章を贈った。
ルメイの行為は多くの民間人を殺戮(非戦闘員大量虐殺)したことに加え、結果的に多くの文化財を破壊した。

横網町の東京空襲犠牲者追悼碑については平成18年12月2日の チビのお出かけ 88 を見てね。

 ・・・ 今年のキーワードは 『 解 』 ・・・
(チビの日記!!チビのお出かけ 188 )
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by chibi-papa | 2009-03-29 19:15 | チビのお出かけ  

(187) 21・03・28 小石川後楽園

 咲く花に 波動見えたり 魂が鳴る (チビ)
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満 開

 小石川後楽園は水戸藩邸の回遊式築山泉水庭園(かいゆうしき つきやま せんすい ていえん)「後楽園」である。後楽園の名は「士はまさに天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という武士の嗜み(たしなみ)である「先憂後楽」(せんゆうこうらく)の思想からきている。
 なぜ「後楽園」の前に「小石川」が付いているかというと、大正11年(1922)岡山城の庭園が史跡名勝に指定され「後楽園」と登録されたため、それに後れて翌年に登録する際には「小石川」を付けるしかなかった。では、なぜ「小石川」にしたかと言うと、当時は小石川区だった(明治11年小石川区発足、昭和22年本郷区と合併して文京区となる)からで、小石川区にある後楽園の意味。


 造園は江戸時代初期に水戸徳川家の江戸屋敷内に水戸藩の初代藩主・徳川頼房(1603~1661、よりふさ、家康の11男)が着手し、2代藩主・徳川光圀(みつくに)がそれを引継ぎ四十年の歳月をかけて完成させた。光圀は我が国に亡命してきた明(みん)の儒学者・朱舜水(しゅ しゅんすい)の意見を採り入れて、和風の中にチャイナ風を織り込んだ。

 ところが、3代藩主・綱條(1656~1718、つなえだ、光圀の甥)は桂昌院(けいしょういん、第5代将軍・徳川綱吉の生母)の来園に際して、高齢の桂昌院が歩きやすいように改修してしまった。

 さらに、幼くして4代藩主になった宗堯(1705~1730、むねたか)の実父・松平頼豊(1680~1735、よりとよ、高松藩主)は自分の好みで「四国の景」を採り入れてしまい、綱條時代の改修と合わせて、光圀が完成させた庭園はその趣(おもむき)を大きく変えられてしまった。

 9代藩主・斉昭(1800~1860、なりあき)は庭園を旧に復すことに努めた。明治2年(1869)、版籍奉還により明治新政府に奉還され陸軍省の所管となったが、庭園部分は陸軍によって保存された。史跡名勝に指定された大正12年(1923)には関東大震災に遭っている。

小石川後楽園は、国の特別史跡と特別名勝の二重指定を受けている。

 その後は東京市に移管され、昭和13年(1938)から一般公開された。しかし、アメリカ軍の空爆により得仁堂(とくじんどう)以外は灰燼(かいじん)と化してしまった。戦後いち早く植えられた枝垂桜(しだれざくら)が都内でいち早く満開に。その波動が魂に共鳴する。
 
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満 面

 京都の嵐山を流れる大堰川(おおいがわ)と渡月橋(とげつきょう)をイメージしている。渡月橋は低い土橋になっている。ここに立っていると春風がそよそよと頬と髭を撫でていくニャ~。春風満面(しゅんぷう まんめん)

 それにしても大堰川の堰を何で 「 い 」 と読むのかニャ~。堰(せき)のことを井堰(いせき)とも言うから、その 「 井 」 の部分だけを持ってきたのかニャ~?
 因みに大堰川は上桂川、保津川(ほづがわ)、桂川と名を変えて淀川に合流し、大阪湾に注いでいる。


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満 員

 築地塀(ついじべい)に囲まれた7万㎡強の園内はけっこう起伏がある。パンフレットには 『 大江戸・東京に残る深山幽谷 』 とあるが、このとおりの満員行列の状態。
 入園するときも60mほどの行列だった。他の桜の名所の多くがまだ蕾ないし咲き始めなのに、ここは24日から満開との情報で皆、週末に押し寄せて来たのだろう。桜は人を引きつける。猫も引きつける。ニャ~!


深山幽谷(しんざんゆうこく) : 人があまり行かない奥深い自然。

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満 月

 朱舜水の設計によるもので、水面(みなも)に映る形が満月のように見えることから円月橋と名づけられた。流れは神田上水跡。
 神田上水は井ノ頭池を水源とし、ここから2、5km西の目白台下の関口大洗堰(大滝橋付近)から取り入れていた。そして小日向台(こびなただい)の麓に沿って水戸藩邸に入りこの後楽園内を横断。水道橋近くで大樋で神田川を越えて、神田、日本橋方面に給水していた。

取り込んだ上水路は現在、巻石通りになっていて地名も水道2丁目、1丁目となっている。道路がくねくね曲がっているのは水路が麓に沿っていたため。麓の上には9ヶ社寺が並んでいる。

巻石通り : 暗渠に石が巻いてあったことから巻石通りと呼ばれるようになった。1、4km。

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満 喫

 右は大泉水。神田上水を引いて造った池。蓬莱島や竹生島が浮かぶ。
 
 魂奮られ 満喫あとは 花疲れ (チビ)

大きな巣箱?の上で一休み。
何言っているの!これから東京天文台
(国立天文台三鷹)に行って、輪っかのない土星を見るんでしょ。
薄日が差しているけど、こんな状態で見えるのかニャ~?
 

不安が的中。夜になっても上層の雲が多く、薄曇りで残念でした。でも、そこで研究している大学生から土星についての講義と50センチ反射望遠鏡の説明を受けた。

 ・・・ 今年のキーワードは 『 解 』 ・・・
(チビの日記!!チビのお出かけ 187 )
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by chibi-papa | 2009-03-28 23:59 | チビのお出かけ  

旗洗池跡(幡ヶ谷)(186) 21・03・28 

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洗旗池の記念碑

 平安時代後期に東北地方を舞台にした後三年ノ役(1083~1087)の帰途、源 義家(みなもとのよしいえ、通称:八幡太郎)がこの池で源氏の旗である白旗を洗ったという。このことが旗→幡、幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった。
 この湧水池は神田川に注いでいたが、昭和38年(1963)に埋められ、今は「洗旗池」(はたあら いけ、東郷平八郎の筆)の記念碑だけが残されている(渋谷区本町1丁目9)

後三年ノ役によって、東北地方に覇を唱えていた清原氏が消滅し、平泉における奥州藤原氏が登場するきっかけとなった。また、源義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。
源義家については平成21年2月22日の チビの愛唱歌 ♪41 八幡太郎 を見てね。

源義家はその白旗を金王八幡宮に奉納して上洛したという。

ここにあった小笠原・子爵邸(元 肥前唐津藩・小笠原邸)を訪れた東郷平八郎が揮毫した。現在は高知新聞社員寮・洗旗荘が建っている。
日本海海戦でバルチック艦隊を撃破した東郷元帥がなぜ揮毫したのか?については、
平成18年9月16日の チビのお出かけ 73 金王八幡宮例大祭と、
平成20年5月18日の チビのお出かけ 154 渋谷・鹿児島おはら祭 を見てね。

高知新聞は平成15年(2003)高知県警の捜査費問題を報道した。警察の裏金作り問題で担当の記者は、書くか書かないかで究極の選択を迫られる。
警察幹部から、書いたら 「おまえは警察の敵になるぞ」 「尾行するぞ」 「携帯電話の履歴を調べるぞ」 と言われ、書かなければ 「一生おまえに新聞ネタを流してやる」 と。
新聞社員として生きるのか、新聞記者なのかを迫られたが、新聞記者魂を捨ててしまったら新聞記者になった意味がないと、同年7月、報道に踏み切った。

しかし、高知新聞は平成18年(2006)の高知白バイ衝突死事故では沈黙した。高知新聞の記者魂はどこへ行ってしまったのだろう。
高知県吾川郡春野町(現高知市)の国道56号で、高知県警白バイ(一般道路を利用しての高速走行訓練中)が、中学3年生22人と教員3人を乗せて国道沿いのレストランの駐車場から出てきて、右折のため停車していたスクールバスに激突し、白バイ隊員が死亡した事故。
高知県警はこのままでは死亡した白バイ隊員の年金とか保険とかが不利になるということなのであろうか、後日になってバスは時速10キロで白バイを跳ね死亡させたとした。動いていた証拠に1メートル超のブレーキ痕が付いていたと言い出した(証拠捏造疑惑)。それに同僚を庇うためなのか白バイ隊員の不自然な証言を採用する一方で、警察・検察のストーリーに都合の悪い目撃者やスクールバスに乗っていた生徒・教員らの証言、それに交通事故鑑定人による鑑定をことごとく無視して、禁錮1年4ヶ月の判決。高松高裁、最高裁と判決は覆らず、現在服役中。
この事件は高知県警と検察、裁判所それに県警の言いなりに取材を続けた高知新聞による、でっち上げて作った事故で罪に陥れるという悪質な犯罪と思われる。

 ・・・ 今年のキーワードは 『 解 』 ・・・
(チビの日記!!チビのお出かけ 186 )
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by chibi-papa | 2009-03-28 23:58 | チビのお出かけ  

京王線沿線Walking7 (185) 20・03・21

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清岸寺・本堂

  早春の都心の片隅に歴史と異国情緒を探しに笹塚駅をスタート、清岸寺→多田神社、宝福寺→氷川神社→酒呑地蔵→幡ヶ谷不動尊→旧玉川上水緑道(初台地区~西原地区)→東京ジャーミィ→古賀政男音楽博物館→駒場公園→駒場東大前駅までの10キロメートルのウォーキング!
 
 清岸寺(渋谷区幡ヶ谷)は小田急線・参宮橋駅近くの東京乗馬倶楽部の所にあったが、明治42年(1909)にそこが陸軍の代々木練兵場に取り込まれることになった。明治維新の廃仏毀釈(はいぶつ きしゃく)でちょうど廃寺になっていたこの地に移転して来た。
 向拝(こうはい、ごはい)右手に大きな数珠が滑車に掛けられている。それを手前に繰るとカチッと音がくる。カチッ、カチッ、カチ、カチ、カチ・・・と数珠を回して参拝する。面白いニャ~!


昭和20年、アメリカ軍の東京大空襲で過去帳を除き全て焼失してしまった。本堂は昭和26年に千葉県岩井町にあった民家を移築したもの。

向拝 : 仏堂の正面に本屋から張り出して庇(ひさし)を設けた部分。参詣人が参拝する場所。

参道から参宮橋駅に下る坂道の途中に「陸軍省所轄地」の石の角柱(高さ50cm、幅20cm)が残っている。

 中野区南台にある宝福寺(中野観音)は多田神社に隣接してある。多田神社の鳥居は明神鳥居(2)と神明鳥居(1)が、さらに転(ころ)びがある神明鳥居(2)が混在している。なぜ統一されていないのだろう?

 また、渋谷区に入って本町(ほんまち)の氷川神社は、幡ヶ谷村の鎮守さま。ところでこの本町というのは、幡ヶ谷村で最初の開墾地ということであって、幡ヶ谷本町という意味(幡ヶ谷村の中心地、本村)

 やはり(幡ヶ谷)本町にある酒呑地蔵(さけのみ じぞう)は、昔むかし、幡ヶ谷村に移住者がやって来て農家で真面目に働いていた。それに感心した村人が正月にご馳走したところ、その者は酔って川に落ち溺死してしまった。そこで、村人たちは酒呑みをなくすため地蔵を建立し供養したとある。
 でも、話を聞いてみると事実はだいぶ違うようだ。働き者どころか厄介者だったので村人はその移住者を殺害。その犯行を隠すために美談に仕立て上げたという。美談の裏の事実。


 不動通り商店街に出る。

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幡ヶ谷不動尊・弘法大師修行像

 幡ヶ谷不動尊(荘厳寺、しょうごんじ)(幡ヶ谷)本町にある。室町時代・後期に創建されたとあるが、太平洋戦争でのアメリカ軍による無差別空爆で全てが灰燼(かいじん)と化してしまった。境内に「大東亜戦争 戦没者慰霊之碑」がある。

 山手通りに出て、水道道路を越える。右にオペラシティ、左にNTT東日本の本社ビル、そして旧玉川上水緑道を行く。

 玉川上水・新水路は淀橋浄水場に引くため(明治29年新水路完成)のものであったが、関東大震災(大正12年)でその一部が破損してしまった。そこで甲州街道の下に導水管を通し(昭和12年)、水路は埋めて道路にした(水道道路といい、水道の名を残している)
 一方、玉川兄弟が掘削した玉川上水・旧水路は緑道になっている。


昭和40年、淀橋浄水場廃止。玉川上水は上水としての使命を終える。玉川上水については、平成19年4月1日の チビのお出かけ 103 を見てね。

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東京ジャーミィ
 
 小田急線・代々木上原駅付近に東京ジャーミィと古賀政男音楽博物館がある。
 東京ジャーミィはトルコ共和国の援助のもとに建立された日本最大のモスクで、「東京モスク」 とも呼ばれていて、尖塔(せんとう、ミナレット)が青空を切り裂くように立っている。
 躯体工事と設備工事は鹿島建設が施工したが、内装と外装はトルコから運んだ材料で、トルコの伝統職人の手で仕上げられたという。モスクの中に入ったのは初めてだニャ~。異文化がここにある。異国情緒を充分味わうことができた。


ジャーミィはトルコ語で寺院のこと、モスクはアラビア語。

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駒場公園・旧前田侯爵邸

 目黒区駒場の駒場公園には、チューダー様式(イギリス後期ゴシック建築様式を簡略化したもの)の洋館が建っている。

ポーチの白っぽく見える縁取りとポーチの上の手摺りには日華石が使われている。日華石は火山灰が堆積してできた凝灰岩(ぎょうかいがん)

駒場公園については、平成18年7月15日の チビのお出かけ 62 をみてね。

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旧前田侯爵邸・婦人室

 この建物は旧加賀百万石・前田家第16代当主の本邸として昭和4年に欧州建築の粋を集めて建築され、当時東洋一の邸宅といわれた。外壁には当時流行ったスクラッチタイル(scratch tile、引っ掻き模様を刻んだタイル)が貼ってあり、玄関ポーチ(車寄せ)の扁平アーチにはアクセントに日華石(にっかせき、観音下石、かながそいし)が用いられている。。

 内部はというと、一変して王朝風の装飾になっていて、各室にはイタリア産大理石のマントルピース(mantelpiece、炉棚)が配されている。2階にある婦人室にはマントルピースの上に鏡がはめ込まれていた。

 ・ 鉄筋コンクリート造り 地上3階、地下1階建て
 ・ マンサード屋根(mansard roof、腰折れ屋根)
 ・ 尖塔3箇所、 屋根銅版葺き
 ・ 建築面積 1,129㎡  延床面積 2,930㎡
 ・ 地下1階 507㎡、1階 997㎡、2階 872㎡、3階555㎡

 ここを出るとゴールまで500メートル。

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駒場野公園の桜

 ゴールした後で駒場公園の向かいの駒場野公園に行ってみた。桜が咲き初めていた。昨日午前中の花起こしの雨にあって咲き出したのだろう。

 雨に濡れ 切っ掛けつくる 花起こし (チビ) 

 今日、開花宣言が出た。来週はお花見だニャ~!!

 いつ花見 待つももどかし 魂奮(たまふ)られ 』 (チビ)

駒場野公園については、平成20年5月5日の チビのお出かけ 153 を見てね。

 ・・・ 今年のキーワードは 『 解 』 ・・・
(チビの日記!!チビのお出かけ 185 )
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by chibi-papa | 2009-03-21 14:39 | チビのお出かけ  

東京天文台(三鷹)(184) 21・03・20

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第一赤道儀室

 今日は春分の日。太陽黄道の黄経がゼロ度となって昼と夜の長さが同じになった。だいぶ昼の時間が伸びたニャ~!春分の初候は雀始巣(すずめ はじめて すくう)、次候は桜始開(さくら はじめて ひらく)、末候は雷乃発声(かみなり すなわち こえを はっす)と言う。
 わが国は長い間、暦として太陰太陽暦(単に太陰暦ともいう)を採用していた。そのため暦と実際の季節のズレを調節する必要性から天体観測が行なわれ、それは明治6年(1873)まで続いた。


 
太陰太陽暦がわが国に伝わったのは6世紀、当初は百済の暦をそのまま使っていたが、第33代・推古天皇(すいこ てんのう、東アジア初の女性君主)の時代にわが国でも天体観測を行なうようになった。
 飛鳥時代の675年に第40代・天武天皇(てんむ てんのう)が占星台を建てると日本書紀にある。このように吉凶の占いにも使われた天体観測は朝廷の陰陽寮(おんみょうりょう)の所轄であった。


 江戸時代には幕府・寺社奉行のもとに天文方(てんもんかた)が設置され、第5代将軍・徳川綱吉が治世の1685年、渋沢春海(初めての国産暦・貞享暦を編纂した)が初代天文方に任ぜられた。牛込藁町には司天台(してんだい)を建て天体観測を行う。その4年後に本所に移転。さらに1701年に神田駿河台、1746年に神田佐久間町、1765年に牛込袋町に移転。そして1782年に浅草天文台が、1842年に九段坂上天文台が建てられた。
 しかし、幕府の消滅により両天文台は明治2年(1869)に廃止された。


国産歴 : (宣明歴)→貞享暦(幕府)→宝歴歴(朝廷)→寛政歴(幕府)→天保歴(幕府)→(グレゴリオ歴) 

伊能忠敬(いのう ただたか)は、浅草の天文方で測量・天文観測を学び、後に日本地図を作成した。そのことについては平成17年7月17日の チビのお出かけ 18 を見てね。
 
 明治新政府は暦を太陰太陽暦から、月の満ち欠けとは全く無関係な太陽暦・グレゴリオ暦に切り替え、ここに、暦と季節のズレの調節としてでない天文学の研究がスタートした。
 明治4年(1871)、虎ノ門に内務省地理局観測課天象部が「天象台」を設置。明治7年(1874)、麻布飯倉に海軍「観象台」を設置。明治11年には東京大学に星学科を設立し、本郷に「天象台」を設けた。明治21年にこの3つが合併して「東京大学付属東京天文台」、略して東京天文台となった。
 そして、大正11年(1922)に東京天文台を麻布飯倉から観測環境の良い三鷹に移した。その後は文部省直轄の国立天文台となり、現在は大学共同利用機関法人「国立天文台」となっている。


 第一赤道儀室の開口部分はアームが付いていることからも分かるように、自動引き戸になっている(大赤道儀室の方は手動観音開き)

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口径20センチ屈折望遠鏡

 わが国の天文学研究の総本山は、「天文台通り」の中間点の台地にある。キャンパス内からは古墳が出土し、この辺りは石器時代から人が住んでいたらしい。
 京王線・調布駅からバスで15分。正門でガイド冊子を受け取り、「Visitor」のワッペンを胸に貼って進むと、まず第一赤道儀室が現れた。


 第一赤道儀室(せきどうぎしつ)は三鷹キャンパス内で現存する最古の建物で、大正10年(1921)に建設された。1階は倉庫で、観測室の外側にはバルコニーが設けられていてお洒落なデザインになっている。この観測室にはドイツ製の口径20センチの屈折望遠鏡が設置されている。
 ドイツ式はその特徴として筒鏡とのバランスを保つ錘(おもり)がある。ところで、赤道儀とは望遠鏡を載せる架台の違いによって、赤道儀式と経緯台式に分かれるが大型望遠鏡はふつう赤道儀式のため、赤道儀室は「大型望遠鏡を設置した観測室」という意味。専門用語は難解だニャ~!

 
この第一赤道儀室では昭和14年(1939)から平成11年(1999)までの60年間、太陽の黒点のスケッチ観測に使われ、太陽活動の監視や研究に大きく貢献したという。
 ところで、その太陽の黒点が今、その数が減少していて、太陽風や太陽磁場が弱まっているそうだ。ということは太陽圏が縮小していることを意味している。近い内に黒点がゼロなんていうこともありうるのであろうか。宇宙は謎だらけだニャ~。


 第一赤道儀室の床は軋(きし)み、北側のバルコニーは苔生(こけむ)している。建設から90年弱の年数が経っていて歴史を感じさせる。

今年は百年ぶりの太陽活動の極小期だという。経済も百年に一度の不況。 

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大赤道儀室

 第一赤道儀室から5年後の大正15年(1926)に完成した大赤道儀室は高さ約20メートル、直径15メートルもある。建設当時、木製の半球ドームを造る技術が建設業者になく、造船技師の支援を受けて造られた。

松板を蒸し曲げ(むしまげ)の技術で湾曲させたのであろうか。因みに第一赤道儀室の半球ドームは板を曲げずに小刻みに張ってある。

 ここからでは分からないが、外壁にはアーチ模様を繰り返す装飾(ロンバルト帯)が施されていている。ロマネスク様式の影響を受けているのだろう。

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口径65センチ屈折望遠鏡

 大赤道儀室には文字通り国内最大の口径65センチの屈折望遠鏡が設置されている。この望遠鏡にもバランスウェイト(筒鏡とのバランスを保つ錘)があるのでドイツ製だニャ。それに観測床がエレベータ式に上下するので、望遠鏡がどんな向きになっていても楽な姿勢で観測できるという優れモノ。

半球ドーム自体を自動回転させることもできるので、開口部分を移動させることができる。

 そして星の位置測定を主に行なってきたが、平成10年(1998)に研究観測から引退し、現在は天文台歴史館としてリニューアルされている。

バケツが見える。大赤道儀室も80数年の歳月が経っているので、多少 雨漏りするようだ。

第一赤道儀室および大赤道儀室は共に平成14年に登録有形文化財に指定された。登録有形文化財については、平成20年5月11日の大学院研修(2)を見てね。

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ゴーチェ子午環 (しごかん)

 半円形のドームに台形の入口をつけたデザインのこの観測室は、大正13年(1924)に建てられた。中には子午線上の天体の位置(子午環)を精密に観測できるように工夫された望遠鏡が大正15年に設置されている。その子午環がフランスのゴーチェ社製なのでその名が付けられている。

十二支を方角にあてはめると、子(北)、丑、寅、卯(東)、辰、巳、午(南)、未、申、酉(西)、戌、亥。子と午は北と南を表しているので、子午線(しごせん)といえば経線のこと。因みに緯線は東西なので卯酉線(ぼうゆうせん)という。

 4日前の3月16日、若田光一さんが乗るスペースシャトル「ディスカバリー号」がNASAケネディー宇宙センターから打ち上げられた。そして18日に国際宇宙ステーション(ISS、InternationalSpaceStastion)に到着した。これから3ヶ月半にわたる長期滞在がいよいよ始まった。若田さんの活躍に注目が集まる!
 ISSの高度は400キロメートル。地球の直径が12,700キロメートルであることを考えると、地球の表面スレスレの所を回っている(地球を直径1mとすると、その上空3cmの所を回っている)。
 宇宙は広大だニャ~!


 キャンパス内に社会教育用(研究用でなく一般市民用)の反射望遠鏡があって、今月は土星を観望するという。土星は30年かけて太陽の周りを回っている。土星の環は地球と土星の位置関係によって見え方が少しずつ変化して、15年の周期で土星の環が見えなくなる(環の厚さが5~30mとあまりにも薄いため)。環が見えなくなる時期が今年2009年。輪っかのない土星を見てみたいニャ~!そうだ、来週の土曜日の観望会に出席しよう!土曜に土星の観望、楽しみだニャ~。どうか当日、晴れますよ~に!

 ・・・ 今年のキーワードは 『 解 』 ・・・

(チビの日記!!チビのお出かけ 184 )




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by chibi-papa | 2009-03-20 18:58 | チビのお出かけ