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♪ 41 八幡太郎 21・02・22

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練馬白山神社の大ケヤキ

 平安時代後期、源義家(よしいえ、1039~1106)が奥州征伐(おうしゅう せいばつ)に向かう途中、戦勝を祈願して欅を奉納したと伝えられ、国の天然記念物に指定されている。幹の太さは8メートル(もう1本あって、石段上のは7、2メートル)

ブルーシートで覆われているのは、改修工事中の練馬区立厚生文化会館。

義家は7歳のとき石清水八幡宮(京都府八幡市)で元服して以後、八幡太郎と呼ばれるようになった。

 第56代・清和天皇(850~881)の血を引く源義家は前九年ノ役(奥州征伐、1051~1062)で父・頼義(よりよし、988~1075)と共に奥州の豪族・安倍氏を討伐した。

東北地方には陸奥国(むつノくに、奥州、青森県+岩手県+宮城県+福島県)に豪族・安倍氏、出羽国(でわノくに、羽州、秋田県+山形県)には豪族・清原氏が勢力を誇っていた。安倍氏は陸奥国司と対立したため、源義家は父と共に奥州征伐に赴くが苦戦。しかし、前九年ノ役の最終局面で羽州(うしゅう)の清原氏が参戦したことにより奥州を平定できた。
その後、奥州にも勢力を伸ばすこととなった清原氏だが、内紛が起こり前九年ノ役(12年戦争)から20年後に後三年ノ役(5年戦争)が勃発した。 

 源義家は、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、そして鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞、さらに室町幕府を開いた足利尊氏の祖先にあたることから、武門の祖として英雄視され多くの逸話が残っている。 

♪ 八幡太郎
(文部省唱歌 大正元年)
一、
駒の蹄(ひづめ)も 匂うまで
「道もせに散る 山桜かな」
暫し眺めて
「吹く風を 勿来ノ関と 思えども」
(かい)なき名やと 微笑みて
緩く(ゆるく)打たせし 優しさよ

二、
落ちゆく敵を 呼び止めて
「衣のたては 綻びにけり」
敵は見返り
「年を経し 糸の乱れの 苦しさに」
付けたる言(こと)の めでたきに
(め)でて許せし 優しさよ


道もせに・・・道面せに、道一面に
効なき・・・効き目がない、効果がない

吹く風を 勿来の関と 思えども 道もせに散る 山桜かな (源義家)
「千載和歌集」に収録されている。
勿来ノ関(なこそノせき)は常陸国(茨城県)と陸奥国・磐州磐城(福島県東部)との国境にあった関。夷人(いじん、蝦夷、未開人)はここからこっちに入って来る勿れ(くるなかれ)と、千五百年前の大和時代に設置された。
来る勿れという名の勿来ノ関なのだから、吹く風も来る勿れ。でも、来るな!というのは名だけのことであって、風が吹いて一面に山桜の花が散っている。その中を奥州へ、奥州へと駒を進めて行く。

勿来ノ関 : 今のところ所在地は分かっていないが、福島県いわき市勿来町に「勿来ノ関」を見立てていて、観光名所にしている。
山形県温海町の念珠ヶ関(ねずがせき)、福島県白河市の白河ノ関(しらかわノせき)と合わせて奥羽三関という。

年を経し 糸の乱れの 苦しさに (源義家と
   衣のたては 綻びにけり   安倍貞任との連歌)
1062年の衣川ノ戦いでのこと。敵とは安倍貞任(あべノさだとう、1019~1062)。衣川の館(やかた)を捨てて敗走する安倍貞任を追う源義家が、矢を番え(つがえ)ながら下ノ句を問いかけると貞任は振り返り、即座に上ノ句を返してきた。義家は感じ入って「武士の情け」と、矢を放つのを止めた。とあるが実は、義家は次の下ノ句を返せなく連歌で貞任に負け、矢を放てなかった。いずれにしても安倍一族の文化レベルは高かった。
・下ノ句の意 : 経糸(たていと)が綻びて衣がバラバラになったぞ!衣と衣川それに経と館を掛けて、衣川の館(たて)は敗れたり!
・上ノ句の意 : 衣の糸(鎧の経糸)がほつれたのは戦闘によってではない、古くなっただけだ。糸を意図に掛けて、長い年月の間に奥州と朝廷の意図が相違して起きたこの戦い。戦況不利で(衣川の館をひとまず撤退する)。

陸奥国・陸中(岩手県)は平泉付近の衣川(ころもがわ)での戦い
・ 789年 : アテルイ、第一次征東軍を撃破する。
・ 792年 : アテルイ、坂上田村麻呂が率いる第二次征東軍も跳ね除ける。
・1056年 : 安倍貞任、討伐軍を破る。 
・1062年 : 源義家との戦いで安倍貞任、敗走する。 
・1189年 : 源義経と弁慶が藤原泰衡の夜襲に敗れる。
 
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豊島園の入園口
 
 子供の乗り物1日券は身長110センチを境に1200円の料金差がある。安全を考慮して遊具に身長制限を設定しているためで、基準値以上が2900円、未満が1700円。
 高さ110センチの目盛りと男の子の絵が描かれた物差しの上に乗っかって、


チ ビ ; この高さならジェットコースターに乗れるニャ~?

パ パ ; 残念でした。豊島園には入らないの。石神井川に沿って城北中央公園に行くんだよ。第一、ズルをしてはいけないよ。

 豊島園は西武池袋線の練馬駅から西武豊島線がでている。豊島園といっても豊島区でなく練馬区にある。
 豊島園は平安時代末期から練馬城があったところで、豊島氏の居城であった。豊島と練馬でややこし。豊島区も練馬区も当時は武蔵国の豊島郡だった。

 室町時代後期にここから南東3キロメートルの江古田・沼袋原での戦いで、豊島氏は太田道灌に敗れた。
 この江古田は 「えごた」 と読むが、西武池袋線・江古田駅は 「えこだ」、大江戸線・新江古田駅は 「えごた」。「えこだ」 と 「えごた」 でややこし。


豊島氏と太田道灌の戦いは平成21年1月10日の チビのお出かけ 179 を見てね。 

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高稲荷公園の林昭三 作 『道』

 石神井川を下る。石神井川は石神井村を流れていたのでその名がある。では、石神井村の起こりはと言うと、その昔、井戸を掘ったところ霊石と思しき石の棒が出てきた。それを石神として崇め、いつしかそれが地名となった。

 川の延長は25キロメートル。小平市御幸町を源に途中、富士見池(武蔵関公園)や三宝池(石神井公園)からの水を集め隅田川に注いでいる。
 160センチの像は川上を向いている。ボクたちは川下へ。挨拶をして別れる。


高稲荷神社(たかいなり じんじゃ)は急階段を上った舌状台地にある。石神井川が大きくカーブしている。

神社の下が高稲荷公園で、昔は大きな沼があって紅葉が美しく、遠方から人々がもみじ狩りに来るほどだったという。今は花見の名所。だから町名は桜台というのかニャ?

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荒れ放題の栗原遺跡

 城北中央公園は石神井川と田柄川に挟まれた台地にある。関東ローム層からは先土器時代(1万年以上前)の黒耀石(こくようせき)の石器が出土している。また縄文土器や奈良時代の土師器(はじき、素焼き土器で文様がない)が出土すると共に、弥生時代から平安時代の竪穴住居跡が発見されているので、長い間ここで人々が暮らしていたことが偲ばれる。

田柄川は1970年代までには全て暗渠にされた。

 昭和32年(1957)に復元された住居跡は、今から千二百五拾年ぐらい前の奈良時代初期のもので、地表から50センチの深さに掘られていて、北側には粘土の竈(かまど)が造られていた。奈良時代に入っても竪穴式住居に住んでいたとは驚きだ!縄文時代か!
 奈良の都・平城京の華やかさに比べ、武蔵国の農民の暮らしぶりがどんなものであったかを語りかけてくる。


竪穴式住居は地表から50センチ~1メートルも掘り下げて床を作るので、水はけのよい台地は適地だった。

近畿地方では飛鳥時代には掘立柱住居に移行していたが、関東・中部地方以北では平安時代まで竪穴式住居が残った。
縄文時代→弥生時代→古墳時代→飛鳥時代→奈良時代→平安時代→鎌倉時代と続く

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城北中央公園の遊具で遊ぶ

 復元した竪穴式住居の天辺(てっぺん)が破損している。地元の人が言うには、修理もせず暫くそのままだという。雨が入って崩れかかっているように見える。
 次世代に豊かな文化を残していかねばならない。わが国が “文化小国”であっては、 断じてならないなのニャ~!


 ・・・ 今年のキーワードは 『 解 』 ・・・
(チビの日記!!チビの愛唱歌 ♪ 41 )
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by chibi-papa | 2009-02-22 16:55 | チビの愛唱歌  

平将門の首塚(183) 21・02・14

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大手町にある「将門の首塚」

 まだ2月だというのに今日は初夏のようなポカポカ陽気。今から千七拾年前(940年、平安中期)の今日2月14日、平将門ノ乱が鎮圧された。そして将門の首は平安京へ運ばれ三条河原に晒された。
 晒された首は「我が胴体はどこにある~」と叫び続けた。と、ある晩その首は空高く舞い上がったかとおもうと胴体を求めて東の空に飛んでいった。そしてその首が落ちた神田橋付近に葬られた。
 それから数百年経った鎌倉時代末期に、疫病が流行した。これは将門の祟りに違いないと、1307年にある僧が将門の霊を供養してそこに石塔を建てた。将門塚(しょうもんづか)は大手町のオフィス街の一角(左:三井物産ビル、奥:三井物産別館、左:大手町ランディックビル)にある。


神田のカンダは将門の胴体、つまり「カラダ」が変化したものと謂れている。

将門塚のあるこの場所は江戸時代、酒井雅楽頭(さかいうたノかみ、大老・酒井忠清)の上屋敷の中庭であった。また歌舞伎の「伽蘿先代萩(めいぼく せんだいはぎ)では、この酒井雅楽頭邸で伊達騒動(仙台伊達家の3代藩主の時に起きたお家乗っ取り騒動)の審理が行われた。

 第50代・桓武天皇(かんむてんのう、在位781~806)の血筋を引く平将門(たいらノまさかど)は、下総国佐倉に生まれる(903~940)。そして、平安京へ上り右大臣・藤原忠平(ただひら、880~949、後に左大臣、太政大臣)と主従関係を結ぶが、父が急死したため領国に戻った。そこで、同族同士の抗争に巻き込まれ、それに端を発して常陸国衙(こくが、国府のこと)、下野国衙、上野国衙を次々と攻略、印と鑰(かぎ、蔵門の鍵)を奪っていった。将門が敵としていたのは、その地を治める横暴な国司や受領であって、決して朝廷ではなかった。藤原忠平の恩義を忘れていなかったのである。

 
やがて東国一帯に勢力が広がると、将門は新皇(しんのう)を名乗って、国守や役人を任命し始めるようになる。時を同じくして西国・瀬戸内海では藤原純友(すみとも)が反乱を起こしていて、東の将門西の純友が通じ合って上洛して来たら一大事と、朝廷はまず「将門討伐」の命令を下した。
 それに応じて兵を挙げたのが平貞盛・俵藤太の連合軍。戦の真っ最中、一本の矢が放たれた。その流れ矢が将門のこめかみを射貫いた。


平貞盛(たいらノさだもり)が在京中に父が従兄弟の将門に討たれた(935年)ため帰国し将門と対立。その5年後に俵藤太と連合軍を組み、将門を討伐する。平貞盛はのちに平将軍と称せられ、西国は平家に、東国は鎌倉幕府の執権・北条氏に繋がるも、系図がはっきりしない。

俵藤太(田原藤太とも、たわらノとうた) : 百足(むかで)退治の伝説で有名。将門討伐の功により下野、武蔵の2ヶ国の国司となる。源氏、平家と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を排出した。

940年、平将門ノ乱を鎮圧した将門討伐軍が翌年帰京すると、同年、朝廷は討伐軍を西に向け藤原純友ノ乱を鎮圧した。

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平将門の霊を祀る神田明神

 伝説では晒された首は胴体を求めて飛んでいったということになっている。それは兎も角、三条河原から持ち去られた将門の首は神田橋付近に葬られていたが、鎌倉時代末期には石塔を建てて鎮魂しただけでなく、その2年後の1309年に、大黒様と恵比寿様を祀っている神田明神に平将門を祀ったのでした。

奈良時代の730年に創建された神田明神は当初、大手町の将門塚付近にあったが、江戸時代初期の1616年に現在地の外神田2丁目に遷座(せんざ、神仏の座を他へ移すこと)した。

 明治7年、明治天皇が神田明神に行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆賊である平将門が祀られているのはまずいということになった。そこで祭神から外され摂社に遷(うつ)された。時代は移り昭和51年(1976)、将門を主人公にしたNHK大河ドラマ 『風と雲と虹と』 で祭神復帰の機運が高まり、昭和59年に本社祭神に復帰した。

『風と雲と虹と』 : NHK大河ドラマ第14作。原作:海音寺潮五郎。将門役に加藤剛、貞盛役に山口崇、藤太役に露口茂、忠平役に仲谷昇、純友役に緒形拳。

 ところで、神田明神の崇敬者は成田山を参詣してはならないとされている。それは、将門討伐にあたって朝廷は成田山新勝寺に調伏(ちょうぶく)の祈祷をさせたということで、成田山を参拝することは将門を苦しめることに繋がるからだという。 

 
平成17年11月3日(チビのお出かけ 29に成田山新勝寺を参詣しているチビはどっちの味方なの?
 どっちの味方なのか以前に、将門の評価自体が古代の朝敵から中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、そして現在は英雄視と揺れ動いている。時の権力者が変わっても塚は残った。そこには関東に生きる者の心に根ざした何かがある。


・・・折しも結婚式がおこなわれている。「弱きを助け、強きを挫く」将門様に愛を誓ったのか。それとも大黒様、恵比寿様なのか、全てになのか。いずれにしても、新郎・新婦おめでとう!

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湯島天神の梅祭りで一人舞台

 大手町の将門塚と神田明神、それと菅原道真を祀る湯島天神は位置も道路も一直線でつながっている。
 903年に亡くなった菅原道真の怨霊はとても恐れられた。その四拾年後の940年、志半ばで命を絶たれた将門の怨霊はその道真の怨霊を取り継ぐことによって、怨霊に凄みを持たせようとした怨霊伝説で繋がっている。


菅原道真が大宰府で没した年に平将門が生まれていることから、将門は道真の生まれ変わりなのか。

「将門記」によると、将門に皇位を授けるお告げという場面で道真の霊が登場する。

菅原道真については平成18年7月1日 チビの愛唱歌♪18 を見てね。

 湯島天神の梅は今が見ごろ!! 

・・・ 今年のキーワードは 『 解 』 ・・・
(チビの日記!!チビのお出かけ 183 )
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by chibi-papa | 2009-02-14 19:24 | チビのお出かけ  

藤沢白旗神社と源義経(182) 21・02・07

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白旗神社 社殿

 源氏の旗である白旗に因む白旗神社(しらはたじんじゃ)は、鎌倉幕府があった神奈川県を中心に関東・東北・中部地方に約70社ある。鶴岡八幡宮の境内にある白旗神社は源頼朝と源実朝を、源頼朝墓所の石段下にある白旗神社は源頼朝を、そして藤沢市にあるこの白旗神社は源義経を祀っている。

源頼家(第2代将軍)を祀っている白旗神社はない。
三浦市の白旗神社は源頼朝の挙兵に参加した和田義盛(よしもり、初代侍所別当)が祀られている。

 社殿の幕に紋が入っている。この紋は竜胆の花に葉をあしらった 「笹竜胆」。竜胆の葉が笹に似ていることから 「ささ りんどう」 といわれていて(笹と竜胆の合成模様ではない)、これは清和源氏と呼ばれる源氏一族の家紋。

 竜胆で 「りんどう」 と読む。これは 「りんどう」 の根が胆汁のように苦く、その苦味が中途半端でないので、強調の意味で「竜」の字を冠している。竜胆は濃紫(こむらさき)の花を咲かす、と言えば島倉千代子の 『 りんどう峠 』 が口をついで出てくる。

♪ りんどう峠
〔作 詞〕 西條 八十 〔作 曲〕 古賀 政男 (昭和30年)
一、
リンリン竜胆の 花咲くころサ
姉サは馬コで お嫁に行った
リンリン竜胆は 濃紫
姉サの小袖も 濃紫
濃紫 ハイの ハイの ハイ

二、
リンリン竜胆の 花咲く峠
姉サは馬コで あと振り返る
姉サに行かれて なんとしょう
一緒に柴刈る 人も無い
人も無い ハイの ハイの ハイ

三、
リンリン竜胆は 小雨に濡れる
わたしゃ別れの 涙で濡れる
リンリン鳴るのは 馬の鈴
姉さは峠に 消えて行く
消えて行く ハイの ハイの ハイ


 源義経は馬コで奇想天外な 『 鵯越ノ逆落し 』 (ひよどりごえノさかおとし)をやってのけた・・・   

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齋源義経公鎮霊碑

 古い鳥居を組み合わせて義経の兜をイメージして作られた鎮霊碑が社殿のすぐ下にある。V字形のは明神鳥居(みょうじん とりい)の一番上の部分の笠木(長)と島木(短)からなっている。

鳥居の種類
・明神鳥居 ・・・ 一般的な鳥居。
・神明鳥居 ・・・ 笠木に反りがない。島木がない。靖国神社など。
・両部鳥居 ・・・ 明神鳥居の一種で稚児柱がある。厳島神社など。

 「齋」の字を冠して 「 いつく みなもとノよしつねこう みたましずめノいしぶみ 」 と読む。

齋く(いつく) : 〔形容詞の接頭辞〕 清浄な、神聖な、忌み清めた、の意を表す。〔他動詞〕 神に仕えるような気持ちで大事に世話をする。 〔自動詞〕 心身の汚れ(けがれ)を去り神に仕える。「齋く」の示は、神を祀るときのテーブル。
似ている字で「齎す(もたらす)」は、神聖なテーブルの下に宝物(貝)を持ってくる(もたらす)という意味。

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義経公首洗い井戸

 白旗神社から徒歩5分、本町白旗交番の脇を入ったところにある。
 兄・頼朝に追われた義経は、奥州・平泉で藤原泰衡(やすひら)に攻められ自刃し果てた(1189年6月)。享年30。義経の首は酒に漬けて43日間かけて鎌倉・腰越浦(こしごえうら、現在の腰越漁港あたり)に送られてきて、首実検の後 浜に打ち捨てられた。 それが潮に乗って境川を遡り(さかのぼり)この辺りに漂流したのを里人が掬い(すくい)上げ、この井戸で洗い清めたという。


 いくら酒漬けにしたとはいえ、折からの暑気で腐敗して誰の首かわからなかったという。このことが義経不死伝説(義経=ジンギスカン伝説、義経北行伝説)を生む一因となっている。

首実検後、埋めずに投げ捨てることは通常ありえない。また、鎌倉と平泉は当時2週間の道程(みちのり)であった。それなのに43日かかった(かけた)ことも義経不死伝説の一因となっている。

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伊勢山公園

 相模野台地の南端にある標高50メートルの伊勢山からは江ノ島が見える。展望灯台が見える。
 その昔ここには伊勢神宮が祀られていたので伊勢山といわれている。そして山上には忠魂碑や戦没者慰霊碑が集められている。
 源平合戦で軍功いちじるしかったのは源義経であった。そのハイライトは何と言っても一ノ谷での鵯越ノ逆落し。それは825年前(1184年)の今日、2月7日のことであった。

 倶利伽羅峠ノ戦い(くりからとうげノたたかい)で木曽義仲(源義仲)に敗れた平家軍は、まだ4歳の第81代・安徳天皇を伴って筑前国・大宰府まで逃れた。
 京を制圧した木曽義仲はやがて後白河法皇と対立するようになり、後白河法皇を幽閉してしまう。そこで、源頼朝が派遣した源範頼(のりより)と源義経が宇治川ノ戦いで木曽義仲を滅ぼすのであった。
 こうした源氏同士が抗争している間に勢力を立て直してきた平家は、讃岐国・屋島さらに摂津国・福原まで進出し、京の都へ突入のチャンスを窺(うかが)っていた。これに対し後白河法皇は平家が都落ちした際に持ち去った三種ノ神器(さんしゅノじんぎ、鏡・剣・玉)の奪還を源頼朝に命じた。

 源氏は攻撃開始を2月7日と定め、範頼軍は正面の生田口から攻め、義経軍は丹波篠山(たんばささやま)を越えて背後から突くことになり2月4日京を発った。そしていよいよ2月7日、その時を迎えた。
 平家の一ノ谷陣営の裏手は断崖絶壁なので全く警戒していなかったところへ、義経ら70騎が不意を突いて駆け下りてきた。平家は大混乱、我先にと屋島へ敗走して行った。


♪ 鵯 越
[作詞・作曲] 不詳 明治45年 文部省唱歌
一、
鹿も四足 馬も四足
鹿の越え行く この坂道
馬の越せない 道理はないぞ
大将義経 真っ先に

二、
続く勇士も 一騎当千
鵯越に 着いてい見れば
平家の陣屋は 真下に見えて
戦い今や 真っ最中

三、
油断大敵 裏の山より
三千余騎の 逆落としに
平家の一門 驚き慌て
屋島を指して 落ちて行く


木曽義仲を討ち取った後、源頼朝は人質に取っておいた義仲の子・義高の斬殺を指示。これについては、平成21年1月31日の チビのお出かけ 181 を見てね。

壇ノ浦で安徳天皇(7歳)らが入水(じゅすい、身投げ)したことにより三種ノ神器の草薙剣(くさなぎノつるぎ)は関門海峡に没してしまった。三種ノ神器が揃っていないにも拘らず、後白河法皇の院宣(いんぜん)を根拠として第82代・後鳥羽天皇は即位した。

『平家物語』 や 『吾妻鏡』 では鵯越が一ノ谷の裏手と書かれているが、直線距離で7キロメートルも離れている。そこで、解釈についてはいろいろある。
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石名坂公園

 国道1号線を越えたところに石名坂公園がある。静かな公園に佇みながら考えた。義経が兄・頼朝に滅ぼされたのを人々が同情したことから、弱者や薄幸の者に同情し味方することを何故 「判官贔屓」 (ほうがんびいき)と言うのだろうか?

 一ノ谷の合戦後、臨時の除目(じもく、朝廷が大臣以外の官を任ずる儀式)が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司(こくし、地方官)に任ぜられた。が、そこには義経の名がなかった。そこで、後白河法皇によって検非違使(けびいし、京中の非違非法を検察する役)という判官(ほうがん)に任官し、昇殿も許された。「判官贔屓」の判官は義経を指し、義経贔屓のこと。
 頼朝の推挙を得ずに任官したことは、まだ官位を与えることができる地位にない頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。頼朝は激怒し、両者に亀裂が生じた。


 それでもその後の屋島、壇ノ浦の合戦で義経の力を借りざるを得なかった。義経は西国武士を率いて多大の戦功を挙げたが、そのことが頼朝に従っている東国武士の戦功を奪う結果となり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人の不満が噴出した。また、義経の性急な壇ノ浦での攻撃で安徳天皇と平時子(平清盛の正室で二位尼と称される)を入水に追い込んだ。そのため、朝廷との取引材料となりえた三種ノ神器の内の宝剣を奪還できなかったことは、頼朝の戦後構想に狂いが生じてしまった。
 それなのに義経は平家の捕虜・平時忠(たいらノときただ、権大納言)の娘を娶り(めとり)、平家の伝統的地位を承継しようとした。貴族社会から武家政権の確立を目指す頼朝にとって、もはや容認できるものではなかったのである。
 鵯越ノ逆落としから1年後の5月、凱旋気分の義経に不信を抱いた頼朝は、義経の鎌倉入りを許さず腰越に留め置いたのであった。


合戦に 義経一人 目立ち過ぎ 源氏の旗は 調和乱るゝ (チビ)

3人を国司に推挙した2ヵ月後に頼朝は義経を伊予守に推挙した。頼朝としては同時に推挙しなかった何らかの考えがあったに違いない。

屋島ノ合戦では、「扇の的」を射落としたまでは良かった、その後がいけない。

♪ 那須与一
(明治44年 文部省唱歌)
一、
源平勝負の 晴れの場所
武運はこの矢に 定まると
那須与一は 一心不乱
狙い定めて ヒョーと射る

二、
扇は夕日に 煌(きらめ)きて
ヒラヒラ落ちゆく 波の上
那須与一の 誉れは今も
屋島の浦に 鳴り響く


 その那須与一に さらなる義経の命令が・・・船上でお祝いの舞を舞い始めた者も射よ!と。那須与一は心を鬼にして矢を放った。
壇ノ浦の合戦で義経は、舟の舵取りを狙い撃ちするという禁じ手を使って形勢逆転し平家水軍を破った。
つまり、義経は「勝ちさえすればよい」という考えであったようだ。

失脚させられた義経は西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたが、恩賞を与えることができない義経の下には集まらず、敗走。そして奥州・平泉の藤原秀衡(ひでひら)を頼ったが秀衡の死後、当主・藤原泰衡に攻められ自刃し果てた。

義経に代わって京都守護の任に就いたのは、頼朝の岳父・北条時政(北条政子の父)であった。このことが北条氏の勢力拡大の端緒を切り開くことになった。

さあ、そろそろ帰るとしよう!

  ♪白樺ゆれる高原に
  竜胆 咲いて恋を知る
  男の胸の切なさを
  啼け啼け 山鳩幾声も

竜胆は咲いていないかなぁ~
パパ、今は冬だにょ。竜胆は秋、秋、秋。
そうか、恋を知るのは まだまだ先か・・・
竜胆咲いて恋を知る~

  ♪幾春秋(いくはるあき)を彷徨(さまよ)えど
  真(まこと)の縁(えにし)結ぶ日は
  月よりの使者想い出の
  竜胆 抱いて来るという


  月よりの使者(作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一)

 ・・・今年のキーワードは 『 解 』 ・・・
(チビの日記!!チビのお出かけ182) 





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by chibi-papa | 2009-02-07 18:44 | チビのお出かけ