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舎人ライナー開業(146)20・03・30

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[祝] 陸の孤島に新線開通!

 荒川区・日暮里(にっぽり)駅と足立区・見沼代親水公園駅間10キロメートルを20分で結ぶ新交通システム路線「日暮里・舎人ライナー」が本日 開業した。
 平成9年12月から工事を始め、当初の計画では平成14年度の開業だったが、5年遅れ十年越しでの開業となった。舎人(とねり)地区と山手線を結ぶ新線は地域住民にとって長年の悲願だった。これで都内で最後の「陸の孤島」(鉄道空白域)は解消された。しかし、黒字化に15年近くかかると、都では予測している。


ライナー : line(鉄道線)-er(名詞語尾)=liner で快速列車を意味する日本語の独自用法。

見沼代親水公園の代は代用水の代。代用水は代替用水路のこと。見沼溜井の替用水路を親水公園にしたもの。
 
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日暮里駅を発車!

 5両編成で1編成257人の定員(座席数95)のところ今日は超満員。自動列車運転装置による自動運転なので運転手も車掌もいない。また、中央指令所のモニターでリアルタイムに遠隔監視しているので通常は駅員もいない。

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毛長川沿いの桜並木

  東京23区内 最北端の見沼代親水公園駅で下車。
 毛長川(けなが がわ)は埼玉県・川口市の安行(あんぎょう)あたりから発して足立区との境目を流れ、さらに足立区と草加市との境を流れ綾瀬川に合流する10キロメートルの流路である。その足立区と川口市との境目の1、5キロメートルにわたって川沿いに桜並木がある。折りしも開通を祝うが如く満開であった。


毛長川にまつわる民話 : 江戸時代のことでございます。新里村(にっさと むら、草加市新里町)の長者には美しい娘がいました。やがて年頃になり川のこちら側に住む舎人(足立区舎人)の長者の息子の所へお嫁入りしました。ところが赤ちゃんが出来ず次第にお姑さんとの仲が悪くなってしまった。実家に帰ることになりその途中、沼(今はない)に身を投げてしまった。それからというものこの沼は大暴れ。遺体は見つからないまま・・・数年後のある日、長い黒髪が流れているのを見つけ、その髪を沼の守り神としてお祀り(毛長神社)しました。それからというもの、この沼は荒れなくなり、人々はこの沼をいつしか毛長沼、そして川を毛長川と呼ぶようになったという。
この話は都住舎人自治会が桜の下で催していた「日暮里舎人ライナー開業祝」で古老から伺った。そう思って毛長川の土手沿いの桜を見ると、新里村の娘さんの魂が宿っているように見えた。それとも化身か。

 『 新里の 娘の魂 甦り 毛長の土手に 咲く桜かな 』 (チビ)

 さ~て、ここから舎人公園までちょっと距離があるぞ!

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舎人公園・この下は車両基地

 舎人公園の北側は丘のようになっている。実はこの下はライナーの車両基地になっていて、車両基地は長さ530メートル、幅85メートル。車両留置スペースだけでなく保守点検スペースや自動運転システムの管理スペースもあるという。
 車両基地に覆土(ふくど)してまだ間もないようで、芝生を養生中だ。写真の左に舎人公園駅が見える。チビの耳は後ろを走るライナーの音を追っている。1年半前に来たときには工事用鉄板で覆われていたけれど、今その上に立っている。素晴らしい公園になったニャ~
(平成18年9月18日の チビのお出かけ 74 「舎人線は来年度開業」 を見てね)

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舎人公園の菜の花

  ♪ 一、菜の花畠に 入日薄れ
     In the rape fields the setting sun grows thin

   見渡す山の端 霞深し 
     A deep mist frames the distant mountains

  春風そよ吹く 空を見れば・・・
     A spring breeze blows and you gaze up to the sky
 
 アッ、雨が降ってきた。帰るニャ~。 
    ・・・夕月懸かりて 匂い淡し
   Where the evening moon glows pale and red

    二、里回(さとわ)の火影(ほかげ)も 森の色も
     田中の小路を 辿る人も
     蛙の鳴く音(ね)も 鐘の音(おと)
     宛(さなが)ら霞める 朧月夜
 (♪ 朧月夜 作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一)

・歌詞のリズムは4・4・6調。
・二番は「~も」が5回出てきて、全てのものが霞んでやがて朧になっていく春の情景。
・「入日薄れ」=夕日の光が薄くなって(入日=いりひ=西日)。
・「山の端」=山が空に接する部分(輪郭)のこと。
・「夕月かゝりて匂い淡し」=夕方の月が空に出ていて、ほんのりと明るい。
・「匂い」=「にほひ」=古典では視覚に関する語。
・「里回の火影」=里の辺りの明かり。里回は本来「さとみ」だが、「さとわ」と誤読。
・薄ぼんやりと棚引く「霞」と深くたちこめる「霧」の違い=春には霞(夜は朧という)といい、秋には霧と呼び分ける。
・一番では「霞深し」とあり、まだ日が暮れていない。二番では「さながら霞める朧月夜」になる。
・一番から二番にかけて、日の沈む頃から宵(日が暮れてまだ間もない頃)へとゆっくりと時が流れている様が、表現されている。

(チビの日記!!チビのお出かけ146)
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by chibi-papa | 2008-03-30 17:11 | チビのお出かけ  

羅漢寺川跡(145)20・03・23

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松雲羅漢像

 羅漢寺川は目黒川の支流で現在は暗渠(あんきょ)になっている。五百羅漢寺や目黒不動の南側を流れ、さらに林試ノ森公園や小山台公園の北側を流れていて、目黒通りに突き当たる。
 目黒通りを越えたその先にある清水池公園は立会川の源流になっているから羅漢川の源流ではない。少し戻ると六畝川(ろくせがわ)を暗渠にしたプロムナードが北に延びている。ポケットオアシス・清水があってその先に清水稲荷神社がある。

 目黒駅は品川区内にある。権之助坂(ごんのすけ ざか)を60mほど下るとそこから先は目黒区になる。山手通り沿いに松雲羅漢像が立っている。 

 松雲禅師は第5代将軍・徳川綱吉の治世の時、536体の羅漢像を彫刻して本所五ッ目(江東区大島3丁目)に五百羅漢寺を築いた。
 明治42年(1909)にここ下目黒に移転してきた後、寺は荒廃の一途を辿っていたが昭和56年(1981)に再建することができた。この再興を記念して松雲禅師像を建立し、これを松雲羅漢と名付けたとある。


羅漢(らかん) : 悟りを得て人々の尊敬と供養を受ける資格を備えた人のこと。

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目黒不動・水掛不動明王

 今まで涸れることなく湧き出ている「独鈷の滝」。
 『 清らけき 目黒の杜の 独鈷の滝 災厄難を 除ける不動尊 』(目黒不動尊御詠歌)ということで、お不動さまと所願成就の縁を結び大願が円成(えんじょう、円満に仏の心を成就)するように身代わりとなって、水を浴びて下さる。 「 チビの祈りよ叶え!」
 耳を澄ますと湧き水の音があちこちから聞こえる。さすが目黒不動は瀧泉寺(りゅうせんじ)といわれる所以(ゆえん)だ。


独鈷(どっこ) : 中央に握りの部分があって両端が尖っている杵形の仏具。

御詠歌(ごえいか) : 仏や霊場を讃える歌。

境内にある歌碑 ♪ 十五夜お月さん は平成17年2月26日のチビの愛唱歌 ♪ 6 を見てね。

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目黒不動・高台に建つ大本堂

 昨日、全国に先駆けて東京で桜が開花したと発表があった。全国に先駆けて大本堂の両脇にある桜はもう満開。

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林試ノ森公園・「林業研究発祥の地」の石碑

 林試ノ森公園の林試(りんし)は林業試験場を略したもの。明治11年(1878)に東京府下北豊島郡瀧ノ川村西ヶ原(北区西ヶ原)で開始された樹木試験場の事業を受けて、明治33年(1900)にこの地に林業試験場が設けられ、昭和53年(1978)に筑波研究学園都市に移転するまでの約80年間ここに国内外の樹木を植えて森林、林業の研究がおこなわていた。

 石碑の手前には大きな楠(くすのき)がある。タッチウッド(touch-wood)して巨木の精を受ける。そういえば目黒不動にも仁王門の近くにプラタナス(鈴懸の木)の巨木があった。


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林試ノ森公園・犬桜

 犬桜(いぬざくら)の芽を覗(のぞ)き込んでいるチビ。桜といっても犬桜は桜のイメージとはだいぶかけ離れいる。犬槐(いぬえんじゅ)の花に似ている。犬桜も犬槐もなんで犬が付くのだろう? 花が白い犬の尻尾のようだからだろうか?

 犬桜がある辺りは品川区。林試ノ森公園は東西に長いがそのほぼ中央のせせらぎ橋の東が目黒区で西が品川区となっている。目黒区の西に品川区が何であるんだ~。


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小山台公園・風の塔

 この公園も品川区。品川区というと、品川駅を連想してそこを中心とした地域が品川区と思い勝ちだが、品川駅は港区内にある。頭が混乱しそうだ。
 この彫刻は須藤 博志(すどう ひろし)作 「風の塔」。


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清水稲荷神社

 六畝川プロムナード(promenage)は清水稲荷神社まで延びている。さらにその先50mほど進むと東急バス目黒営業所の塀に突き当たる。清水稲荷神社は元々この東急バスの営業所あたりにあったという。そして真夏の旱天(かんてん)でも清水が湧き出していたと言うからこのあたりが六畝川(ろくせがわ)の源流であり羅漢寺川の源流だったのであろう。

 清水稲荷神社の所在地は目黒本町1-1。目黒本町(めぐろ ほんちょう)ということはここが目黒の中心だったということなのか。東横線・祐天寺駅まで歩く。左側が中央町(ちゅうおうちょう)ここが目黒の中央? 右側が中町(なかちょう)、こっちが目黒の真ん中? 中心地だらけ!
 江戸時代には三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村、碑文谷村(ひもんや むら)、衾村(ふすま むら)村があって、明治中頃に三田村と上目黒村と中目黒村と下目黒村の4村が目黒村に、そして碑文谷村と衾村が碑衾村(ひぶすま むら)になった。昭和に入って目黒町と碑衾町となり、昭和7年には区となるにあたって目黒町の方が繁栄していたので目黒区となった。

 目黒本町と中央町は碑文谷から分離し、中町は中目黒から分離したわけで、江戸時代は村はずれだった所。こうした所にこのような名称を付けるのは、自信がない現われと見た。
 ついでに言うと目黒区目黒は中目黒から分離し、中目黒と下目黒の間に挟まれている。中でも下でもないということで単に目黒とした。屁理屈だ。これも誤認させる。

 目黒駅は品川区、駅に近い目黒区目黒は目黒の中心地でない。中心地は東横線・中目黒駅周辺だが中目黒駅は上目黒にある。目黒区目黒も目黒本町も中央町も中町も地名からすると中心地のようだがこれら全て江戸時代は村はずれ。


 
碑衾町の衾(ふすま)は当用漢字にないという理由で、旧・衾村は八雲や緑ヶ丘という地名になり衾の字は消えた。しかし東横線・都立大学駅のすぐ近くに城南信用金庫・碑衾支店がある。辛うじてここらあたりが昔、衾村→碑衾村→碑衾町だったことが見てとれる。

中目黒村と下目黒村は目黒不動の門前町であったことから、江戸府外であるが、(公事方)勘定奉行でなく町奉行の管轄地だった。

(チビの日記!!チビのお出かけ145)
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by chibi-papa | 2008-03-23 17:21 | チビのお出かけ  

京王沿線Walking 5 (144)20・03・15

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和田掘池

 今年度最後の京王沿線ウォーキングは 『 杉並に流れる川沿いで早春の息吹を楽しもう 』 ということで、井の頭線・久我山駅をスタートして玉川上水緑道→吉祥院(きっしょういん)→柏の宮(かしのみや)公園→尾崎熊野神社→善福寺川緑地公園→松ノ木遺跡→和田掘公園→杉並区立郷土博物館→大圓寺、そしてゴールの井の頭線・永福町までの9キロメートルだ。

 杉並区久我山(くがやま)に久我山という山はない。久我の地名の謂れはよくわからない。久我は使っていない土地という意味の空閑なのか。とすると、利用していない森林があったのであろうか。久我山駅の傍を神田川が流れている。
 神田川といえば徳川家康が江戸に幕府を開くにあたって、最初にやったのが飲料水の確保だった。そこで井ノ頭池を水源とする神田上水を引いた。その神田上水を保全するために自然林を未利用地として空閑にしたのであろう(井ノ頭公園の木々は保水のため江戸幕府が植林したもの)

 善福寺川緑地公園の相生橋から大成橋まで善福寺川に沿って歩く。気持ちがいい。途中、梅が満開だった。台地には松ノ木遺跡がある。
 和田堀公園あたりはもともと低地で善福寺川の遊水池だった。そこで、河川の改修の時に人工の池(和田堀池)を造り、周りを整備して公園にしたという。
 ここには都内では珍しくカワセミが生息しているので、中島に向かってカメラを構え待機している人たちがいた。


和田掘というと和田堀公園から2キロほど離れているが築地本願寺の和田掘廟所(びょうしょ)がある。隣接する明治大学和泉キャンパスとともに江戸時代には幕府の弾薬を格納する焔硝蔵(えんしょうぐら、弾薬貯蔵庫)があった所で、明治新政府はこれを接収し、その弾薬を上野戦争(1日で彰義隊を撃破)や会津戦争(白虎隊の悲劇)などに使用した。
秩父の横瀬(よこぜ)は硝石、火薬の生産地だった。それを八王子千人同心が守る八王子を経て、甲州街道沿いの和田掘に貯蔵していた。

 
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大圓寺

 大円寺(和泉3丁目)は薩摩藩主・島津家の江戸における菩提寺だという。石造の仁王像に乗って、ゴールの永福町駅まであと600メートルだと告げるチビ。
 駅名も地名も永福寺(永福1丁目)から来ている。井の頭線の踏切を越えて3~400m先左手に永福稲荷神社があり、その奥隣りに永福寺がある。


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ウォーキング スタンプカード

 2007年度の京王沿線ウォーキングを全8回中、6回参加した。毎回参加賞がもらえるうえにスタンプカードの押印が6個になると完歩賞がもらえる。猫が完歩賞に輝いたのは「京王沿線ウォーキング」始まって以来の出来事だろう。とは言ってもほとんどパパの肩に乗っての参加だった。でも肩の上でバランスをとっているのは結構疲れるんだよ。歩く以上に!
 それにしてもちょっと変だニャ~。6回参加したはずなのに今回の表題が『京王沿線Walking5』になっているよ。そうだ思い出した。1月19日の時、パパはデジカメのメモリーを忘れたんだ~。パパ、沈黙。

・平成19年4月21日(土)は春風に乗って多摩川土手の可憐な野草を楽しんだ。チビのお出かけ107 を見てね。

・平成19年5月19日(土)、蛇崩川緑道と烏山川緑道の散策を楽しんだ。チビのお出かけ114 を見てね。

・平成19年6月16日(土)は多摩に点在する公園の散策で風景や季節の花を楽しんだ。チビのお出かけ118 を見てね。

・平成19年10月20日(土)、実篤文学や蘆花文学にふれ世田谷の公園で楽しんだ。チビのお出かけ130 を見てね。
 
・平成20年1月19日(土)は八王子に点在する名刹巡りで市の歴史を楽しんだ。しかしこの時のブログ(webのb+記録のlog=blog)はない。

・そして今回、杉並に流れる川沿いで早春の息吹を充分楽しんだ。京王電鉄のスタッフの皆さんありがとう!
 来年度は4月19日(土)から始まるスケジュール表をいただいたけれど、パパは専門職大学院に通うことになったので、1、2回しか参加できそうにもない。


(チビの日記!!チビのお出かけ144) 
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by chibi-papa | 2008-03-15 16:23 | チビのお出かけ  

吉田松陰と井伊直孝(143)20・03・01  

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松陰神社・吉田松陰像

 三軒茶屋で国道246から枝分かれしている世田谷通り(矢倉沢往還・旧道)を行く。1、5キロほど行くと松陰神社入口との標識がある。 

 境内参道左手に明治維新の精神的指導者・吉田松陰(1830~1859 享年29)が読書している(それとも講義している姿かな)銅像がある。


 チ  ビ ; あっ!松陰先生だ!
 パ パ ; 読書の邪魔をしてはいけません!
 チ  ビ ; ニャ~!

 松陰先生の言葉
 『 読書尚友(しょうゆう)は君子の事なり 』
 書物を読みその中に出てくる昔の優れた人を人生の友として生きていくということは徳の備わった立派な人(君子)のなすべきことである。

 これは長州・萩の野山獄(のやまごく、上士用の牢獄、下士用は岩倉獄)に投獄されていたときの言葉。安政元年(1854)にペリーが再来した際、黒船で密出国を企てたが失敗、捕らえられ萩に戻された。そして1年2ヶ月間の獄中で600冊もの本を読んだ。というのも、自分が投獄されていることよりも、我が国を海外列強からどのようにして守るかを本を読み模索していた。

 許されたとはいえ自宅軟禁状態だったが、講義を聴きたいという若者がしだいに集まりはじめた。そこで松下村塾を開き塾主を務め、塾では身分の上下や職業に関係なく、畑仕事などをしながらそれぞれの長所を見つけ伸ばすという教育をおこなった。
 塾は通算しても僅か2年半だったが、歴史の転換期に多くの人材を輩出した。


 パ パ ; チビも徳の備わった立派な猫になるんだよ。
 チ  ビ ; ニャ~!

矢倉沢往還(やぐらざわ おうかん、大山街道ともいう)の新道に沿って国道246が通っている。往還とは行き来する道のこと、街道。

平成18年5月4日の チビのお出かけ51 (松陰神社と豪徳寺)も見てね。
平成18年5月20日の チビのお出かけ52 (吉田松陰終焉の地)も見てね。

 さらに世田谷通りを300メートルほど行く。

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世田谷代官屋敷・表門

 徳川家康のご落胤(ごらくいん、おとしだね)との噂のある彦根藩2代藩主・井伊直孝(いい なおたか 1590~1659)は1633年(第3代将軍・徳川家光の治世)にさらに加増され30万石(譜代大名の中でも最高)になった。その中に世田谷20ヶ村が含まれていた。そしてこの土地の名主の大場家が世襲で明治4年(1871)の廃藩置県まで代官職を務めた。その代官所は大場家の屋敷と兼用であったため武家屋敷風でなく豪農の屋敷のようだ。

 表門の正面右手が番所になっていて面格子窓があることからかろうじて代官屋敷らしくはなっている。母屋も寄棟造の茅葺で名主詰め所、代官居間、役所の間などからなっている。また白洲門と白洲跡があるところから治安維持や裁きの権限も任されていたことが分かる。時代劇で見るようなお白洲でなく石がごろごろ敷かれていた。これでは座っていられない。実は、白い砂だと風で飛んでしまうので、代わりに石を敷いているとのこと。
 大場家文書の内、1578年(小田原北条氏が支配していた頃)の「楽市掟書(らくいち おきてがき)」にボロ市の起源が記されている。現在でもに盛況なボロ市は代官屋敷前のボロ市通りで続けられている。


『 吾君子 ボロは着てでも 読書する 心は錦 徳を備える 』 (チビ)
 
彦根藩 : 要衝の地に構える彦根城。初代藩主は徳川四天王のひとり井伊直政(いい なおまさ)。「井伊の赤備え」は戦国屈指の精鋭部隊として有名。
井伊直孝が2代藩主になると1615年、1617年、1633年の3度にわたって各5万石が加増され30万石の大大名となった。更に城付米(しろつけまい、後に御用米と改称)を加えると35万石の格式を持つに至った。
譜代大名筆頭であるにもかかわらず、「井伊の赤備え」は官軍の装備に全く太刀打ちできず、新政府側に転向し官軍に加わった。明治17年、井伊家、伯爵となる。

ひこにゃん : 「彦根城築城400年祭」のイメージキャラクター。“ひこ”は彦根、“にゃん”は猫。赤い兜をかぶった猫。赤い兜は赤備えを意味し、猫は井伊家菩提寺・豪徳寺での招き猫を意味している。

 井伊直孝から2百年後の彦根藩13代藩主・井伊直弼(いい なおすけ)は幕末に大老となり吉田松陰先生の処刑を断行した。この事実を重く受け止めて欲しい。そうでないとチビの怒りが治まらない。

 パ パ ; 怒りをコントロールすることも、君子となる心得だよ。
 チ ビ ; ニャ~!

(チビの日記!!チビのお出かけ143)
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by chibi-papa | 2008-03-01 14:37 | チビのお出かけ