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猫の日に思う (独り言17)

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2月22日はニャン・ニャン・ニャンで猫の日

 夏目漱石の『我輩は猫である』を読んでいる。
 「我輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。」


明治38年(1905)『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を連載。モデルの猫は3年後の明治41年、「三四郎」の執筆で忙しい中、死亡する。何歳だったのかニャ~。

 チ ビ ; ボクは駐車場でニャーニャー泣いていた事をかすかに覚えているニャ~。
 パ パ ; そうなんだよ。チビは駐車場で泣いていたところを保護されたんだ。そして3組の人手を経て4ヵ月目にパパの所に来たんだよ。

 チ ビ ; 野良だったのにボクの誕生日が7月7日とどうしてわかったのかニャ~。
 パ パ ; 最初にチビを保護した人に聞いたら、生まれたのはたぶん7月初め頃だろう、と言うので覚え易い七夕の日とパパが勝手に決めたのさ。だって、獣医さんの所に連れて行くのに生年月日が必要だろう。

 チ ビ ; ボクはなんで「チビ」なの?
 パ パ ; 最初に保護した人が「チビ」と名付けたんだ。その後の2組の家族も「チビ」と呼んでいたので、パパもそのまま「チビ」の名前を引き継いだんだよ。

 チ ビ ; ボクのルーツは分かったけれど、猫自体のルーツはどうなんだろうかニャ~。
 パ パ ; アフリカに生息するリビアヤマネコが先祖なんだそうだ。そしてエジプト第五王朝時代(紀元前2494年~紀元前2345年)の壁画には首輪をつけた猫が描かれていたんだ。

 チ ビ ; ファラオ(古代エジプト王の称号)は猫を大切にしてくれたんだニャ~。
 パ パ ; その後、紀元前300年頃にインドへ、そして紀元前200年頃にチャイナに達したんだ。

 チ ビ ; 日本にはいつ頃来たのかニャ~。
 パ パ ; 奈良時代に遣唐使が帰国の際に連れ帰ったんだ。
 
 チ ビ ; 可愛いからでちょ?
 パ パ ; 可愛いというより、仏教の伝来と供に大切な経文や経典を鼠から守るためにさ。日本に棲みついた猫は島国の事情もあって独自に進化して日本猫となったというわけさ。

 チ ビ ; そして、ボクがここに居るということなんだニャ~。今日は「猫の日」なんだから何かご馳走してね。ニャン!ニャン!!ニャン!!!
 
 『 でも、良く考えてみるとボクがこうしていられるのも最初にボクを保護した人がいて、次の家族さらにその次の家族、そしてパパに引き継がれたお陰なんだニャ~。それに今まで出会った多くの人達やブログを見てくれている人達に可愛がられてボクは幸せだニャ~。
 そうだ、「猫の日」はボクの方からこれらの人たちに感謝する日と位置づけよう! 皆さんありがとう!』


  猫の鳴き声 : 国が変われば鳴き声の表記まで変わる。日本語の「ニャー」に近いのはギリシャ語の「ニャオ」。因みにチビは「ニャ~」。
・英語、スペイン語、イタリア語、中国語、ヒンズー語・・・「ミャオ」
・フランス語、アラビア語・・・「ミャオン」
・ドイツ語・・・「ミャウ」
・ギリシャ語・・・「ニャオ」

イエネコの祖先はこれまでも体形からリビアヤマネコと考えられてきたが、遺伝子解析で裏付けられた。世界中から集めたイエネコ979匹について、母猫から受け継がれる「ミトコンドリアDNA」の遺伝子を解析した結果、いずれも約13万年前に中東の砂漠に生息していたリビアヤマネコが共通の祖先であることが判明した(アメリカ科学誌サイエンス・2004年6月)。
リビアヤマネコは約1万年前から農作物を狙う鼠を退治する家畜として飼われ始めたと考えられる。

地中海のキプロス島の約9500年前の遺跡から、人と一緒に埋葬された猫の骨が発掘された。「この猫が最初のペットとしての猫だったかもしれない」と分析している(アメリカ科学誌サイエンス・2004年4月)。

我が国にやって来たのは奈良時代のようだが、「古事記」にも「日本書紀」、「万葉集」にも猫に関する記述が見られない。文献に現れるのは平安時代になってからの第59代・宇多天皇(うだ てんのう、867~931)の日記「寛平御記(かんぴょう ぎょき)」である。その寛平元年(889年)2月6日条に、父の第58代・光孝天皇(こうこう てんのう)が即位の祝いでもらった猫を5年前に賜り、大切に育てたことが詳しく記されている。
ところで、宇多天皇は菅原道真を取り立て、藤原氏に対抗させた。そのことは平成18年7月の チビの愛唱歌♪18 を見てね。

(チビの日記!!チビの独り言17)
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by chibi-papa | 2008-02-22 23:46 | チビの独り言  

浜田山と人見街道(142)20・02・11 

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西永福の理性寺(りしょうじ)

 杉並区浜田山4丁目一帯は内藤新宿(新宿追分)の米問屋「浜田屋」の所有地であった。その持ち山の中に浜田屋弥兵衛の墓があって、墓参りの度に一族が供養にと村の子供たちに菓子や小銭を与えていたので「浜田屋の山」は有名であったという。それが地名となり明治18年に浜田山と名付けられ、さらに昭和8年に開業した駅名にもなった。

 その後の浜田屋は明治の中頃に没落し浜田屋の山も人手に渡ってしまった。そこで弥兵衛の墓は四谷大木戸(現:新宿1丁目27辺り)にあった理性寺(1654年開創)に移葬された。
 その理性寺はというと、大正3年の区画整理で浜田山に隣接する現在地の永福3丁目(西永福駅のすぐそば)に移転して来た。これも何かの縁なのだろう。それなのに理性寺の案内板には浜田屋弥兵衛のことは一切触れられていない。


池波正太郎著「鬼平犯科帳」第1巻7「座頭と猿」に理性寺が出てくる。

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井の頭通りから分岐している通称「人見街道」の起点

 東京都通称道路名設定公告によると、人見街道の起点は杉並区浜田山三丁目 浜田山駅入口交差点で、終点は府中市若松町四丁目 人見街道入口交差点の12、2キロメートルとある。でもこれは本来の人見街道ではない。
 本来の人見街道は武蔵国(むさしのくに)の国府があった府中は八幡宿から東方に伸び(三鷹第一小学校、京王線八幡山駅前を経由して)、世田谷区船橋5丁目で滝坂道に合流していた。


 府中市八幡町1丁目八幡宿交差点から若松町4丁目人見街道入口交差点の間に航空自衛隊府中基地があるのでその間は不明。そこから三鷹一小交差点まではいわゆる人見街道だが、通称「人見街道」はそこで左に折れて、久我山駅の脇を通って井の頭通に合流する。

昭和59年に東京都は無知から久我山道を人見街道として三鷹第一小学校以西のいわゆる人見街道に付け足してしまった。

 しかし、本来の人見街道はそのまま真っ直ぐで、下本宿通を過ぎ中央高速道路の下を抜け、宝陽幼稚園の前を通って道なりに行くと環状8号線沿いのコジマ電機前に出る。そこから甲州街道・上北沢4丁目交差点までは不明であるが、そこから京王線・八幡山駅前を通って都立松沢病院を左手に見ながら赤堤通(古府中道)を行く。そしてスーパーマーケットのヨークマート前で滝坂道に合流する。

松沢病院と小泉元首相 : 小泉純一郎は昭和42年(1967)4月から2ヶ月間、精神病院・松沢病院に精神分裂症で入院していた。その人物が34年後の平成13年(2001)4月、こともあろうに総理大臣になってしまった。
そしてまず過去を暴かれないよう個人情報保護法を成立させ(平成15年)、精神病院を精神科病院に(平成14年)、精神分裂症を統合失調症に名称を変更させた(平成18年)。そして最大のマジック・郵政民営化で我が国をメチャクチャに!
郵政民営化法案については平成17年9月17日の チビのお出かけ 23 を見てね。

チ ビ ; 通称道路名を付ける目的は何なのでしょうか?

都建設局道路管理部長A; 親しんだ名称を付けることで道路施設への親近感を醸成していくことが目的です。

チ ビ ; 久我山道を人見街道と勝手に命名して、親近感が醸成されるとお考えでしょうか?

道路管理部長A; 地元で呼び習わされている名称をそのまま通称道路名に取り上げるとは限りません。ハイ。

チ ビ : では、東京都のお役人が決めた通称道路名に従え、ということでしょうか?

道路管理部長A; 浜田山駅入口交差点からの人見街道は昭和59年に公告されていますからもう既に24年経過していますので、根付いているものと考えられます。ハイ。

チ ビ ; 都職員の無知から勝手に名付けて何とも思わないのですか?

道路管理部長A; なにぶんにも通称道路名設定公告で公告されていますので・・・、ハイ。それに、人見街道に通じている、という意味で久我山道を人見街道としても間違いとはあながち言えないのではないでしょうか。ハイ。

チ ビ ; 権力で勝手に歴史を曲げても良いとお考えですか?

道路管理部長A; 正規の手続きどおりに公告していることなので、そう言われましても・・・、それに単なる道路の名称にすぎませんから。ハイ。名称は利便性という要素を持っていますから・・・ハイ。

チ ビ ; そういうことが歴史の冒涜だと思うのですが。そこで、こういうことを繰り返さないためにも、自戒の念も込めて経緯を記した案内板を立てたらいかがでしょうか?そして新規採用の都職員の研修の一環として見せることにしたら?

道路管理部長A; ハイ、ハイ。ご意見はご意見として伺っておきます。貴重なご意見ありがとうございます。ハイ。


人見街道の由来 : 府中市若松5丁目の浅間山(せんげんやま)は別名、人見山といわれていた。その人見山は多摩の台地が古多摩川などの河川で削られここだけ小高く残ったもので、それも標高80メートルで3つの頂を持ち目立ったため、この街道に人見の名が付けられた。 

遠く飛鳥時代の645年「大化の改新」の翌年に「改新の詔(みことのり)」が発せられ全国を国・郡・里に分けられ、武蔵国が成立した(534年の武蔵国造の乱で既に武蔵国の原型ができていた)。このことから人見街道はそれ以前から存在した道と考えれれる。
平安時代の901年に菅原道真が失脚し大宰府に左遷させられた際に、家族はバラバラにされた。逆臣の子として三男・道武(みちたけ)は武蔵国の国府・府中の先の谷保(やぼ)に流罪となったが、まだ少年だった道武はどのような思いで人見街道を歩いて府中に向かったのであろうか。菅原道真、道武が祀られている谷保天満宮については平成18年5月のチビのお出かけ53 を見てね。

散り散りと 逆臣の子 道武が 下る街道 武蔵国へと  (チビ)

滝坂道 : 仙川から上祖師谷6丁目の神明社前、経堂(すずらん通)、淡島(淡島通)を経て渋谷方面への道。
国府・府中の外港が品川湊(山手通りの起点の品川区東品川1丁目付近)だったことから渋谷で、さらに品川方面への道と接続していたのであろう。
滝坂道と人見街道が合流する地点(ヨークマート前)から南へ2、5キロ行くと矢倉沢往還(やぐらざわ おうかん)の旧道に突き当たり、駿河国・沼津宿へと繋がっていた。
徳川家康が四谷~調布の甲州街道を整備するまでは、滝坂道がその役割を果たしていた。

(チビの日記!!チビのお出かけ142)
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by chibi-papa | 2008-02-11 23:59 | チビのお出かけ  

下高井戸の塚山遺跡(141)20・02・11 

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塚山公園内の復元された竪穴住居

 神田川によって侵食された舌状台地に縄文時代・中期(約3500年~4500年前)の集落跡があった。さらに、ローム層から多数の石器が出土した。このことから旧石器時代(約3万年前)からここに人が住んでいたことになる。このように旧石器人の生活と縄文人の生活とが、一つの遺跡で確認できる遺跡のことを複合遺跡という。

 復元された竪穴住居は不燃化材で建てられていて、床上中央部に「石囲い」の炉を掘り込み、住居の四隅がやや円くなっている。ここに3人から4人が生活していたようだ。
 管理事務所内には石器や縄文土器が展示されている(ここにあるのはレプリカで本物は区歴史博物館に所蔵されている)

 縄文時代・中期が終わってから約2800年後の鎌倉時代、台地の東斜面下に鎌倉街道が造られ、さらに7百年後、この台地は朝日新聞社の所有物で、林に囲まれたグランドになっていた。朝日新聞社は昭和48年にこの台地と築地の国有地と交換した。そして交換して得た築地に昭和55年新社屋を建て有楽町から東京本社を移した。
 他方、国有地となったこの台地は、12年後に区へ払い下げられ昭和63年に公園として開園した。


・ 昭和初期から土器が見つかる。
・ 昭和10年(1935)、古代の集落跡であることが考古学者によって紹介される。
・ 昭和13年(1938)、本格的な発掘調査がおこなわれ4軒の竪穴住居跡が発見される。
・ 昭和44年(1969)、台地の東斜面が調査され住居跡1軒が発見される。
・ 昭和48年(1973)、西斜面が調査され住居跡20軒が発見された。一連の調査から塚山遺跡が縄文・中期の環状集落であることが解った。
・ 同年、ここ朝日新聞社の所有地と築地の国有地とを等価交換。大蔵省がここに公務員住宅を建てようとしたが住民の反対運動が起こった。
・ 昭和60年(1985)、国は公務員住宅建設計画を諦め、杉並区へ払い下げる。
・ 昭和63年(1988)、区立塚山公園として開園する。

 鎌倉に一大事あらば 「いざ鎌倉!」 と馳せ参じたのであろう鎌倉街道を南に暫く行くと、庚申堂がある。江戸時代、第5代将軍・徳川綱吉 治世の元禄8年(1695)に庚申塔が建立されたとある。もう少し南に行くと土手のようなのがある。これは第4代将軍・徳川家綱が治世の1653年に造られた玉川上水で東西に延びている。この辺りは掘削するのではなく土盛りして上水を通していた。
 そして甲州街道に突き当たる。標識に鎌倉街道入口とある。日本橋から数えて4里目(16km)で、一里塚があったという。

 一方、鎌倉街道を北に行くと、直ぐに鎌倉橋があり、柏ノ宮公園入口、鎌倉橋坂上、鎌倉通りとバス停が続き井の頭線・浜田山駅に至る。


環状集落 : 住居が円形状に広がった形で構成された集落。

柏ノ宮公園(かしのみや こうえん) : 平成11年(1999)日本興業銀行への公的資金導入に伴い、厚生施設の処分がおこなわれることになり、ここにあった柏ノ宮総合グランドを杉並区に売却し、みずほ銀行に統合(平成14年)。区は3ヵ年の工事で防災機能を備えた公園に整備して平成16年(2004)に開園した。面積は43,000平方メートル。

玉川上水については平成19年4月1日の チビのお出かけ103 を見てね。

(チビの日記!!チビのお出かけ141)
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by chibi-papa | 2008-02-11 15:47 | チビのお出かけ  

川越・中院と東照宮(140)20・02・02 

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中院・『狭山茶発祥之地』碑

 平安時代・初期の830年、円仁(えんにん)によって開かれた無量寿寺(むりょうじゅ じ)は、鎌倉時代・後期に中院を中心に北院と南院が建立された。そして再び天皇の勅願所(勅命によって国家鎮護などを祈願する社寺)となり580の末寺を持つに至った。

 江戸時代・初期、北院(仏蔵院)は院号を喜多院と改め(1612年)、徳川家康が亡くなる(1616年)と中院(仏地院)があった場所に仙波東照宮を造営。そのため中院は現在の場所に移転を余儀なくされた。そして南院(多聞院)にいたっては歴史の流れの中にいつしか埋没していった。

 
中院の境内に『狭山茶発祥之地』碑があり、その横には副碑が建っている。それによると、「遠く平安の昔、最澄(伝教大師)が唐より茶を持ち帰ったことに始まる。そして円仁(慈覚大師)が当寺を建立する際に比叡山より茶の実を携えて来て、境内に薬用として栽培した。これが狭山茶の起源である」(意訳)とある。
 年代順に見てみると、
① 805年、最澄(遣唐使として天台山で修行した)が帰国の際に茶を持ち帰った。
② 815年、「続日本紀」によると近江行幸されていた第52代 嵯峨天皇(786~842、在位期間809~823)に茶が献上された。
③ 830年、円仁が無量寿寺建立の際に持ち込み、これが狭山茶として広まった。

 そして時代はず~っと下った昭和4年(1929)茶室「不染亭」が建てられた。「不染」と号した茶人は加藤みき。文豪・島崎藤村の義母である。


狭山茶は日本三大銘茶の一つとして「色の静岡茶、香りの宇治茶、味の狭山茶」と並び称されている。
その狭山茶を取り寄せて東京・渋谷が一時期であるがお茶の産地となった。このことは平成19年5月のチビのお出かけ113 を見てね。

遣唐使と最澄(767~822) : 遣唐使(けんとうし)は唐の文化を摂取する目的で派遣された公式使節。630年から894年に中止されるまで16回に亘って派遣された。唐の都・長安への旅は命懸けで荒海を渡り、さらに陸路を2ヶ月も歩いた。帰途も荒海を渡らざるをえず文字どおり命懸けだった。
最澄は第15次遣唐使として804年に出発し翌805年に帰国。比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)を開いた。

遣唐使と円仁(794~864) : 円仁は比叡山延暦寺で最澄に師事した後、838年 最後の遣唐船(第16次遣唐使)に乗った。復路は困難を極め9年6ヶ月後の847年に帰国した。その間の日記『入唐求法巡礼行記』 (にっとう ぐほう じゅんれい こうき)全4巻は日本人による最初の本格的旅行記となった。
無量寿寺(円仁が830年に創建)の北院(鎌倉後期に建立)は喜多院(北院と同音)となり、東叡山(とうえいざん、東の比叡山という意味)の山号が与えられ、関東天台宗の総本山となった。

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中院・『不染』碑と不染亭

 「不染亭」は島崎藤村(1872~1943)が静子夫人の母・加藤みきに贈った茶室で、川越市新富町に建てられた。その場所にマンションが建つことになり、平成4年(1992)加藤家の菩提寺である ここ中院に移築された。

 不染世間法 如蓮華在水

(ふぜん せけんぽう にょ れんげ ざいすい、世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し、妙法蓮華経 従地涌出品第15)

 釈迦が説かれた経文にあるように、蓮は泥の中に根を張ろうともその汚れに染まることなく綺麗な花を咲かせる。私たちも世間がどんなに乱れようと、そして諸悪の誘いがあろうと、染まることなく正しく生きていきたいものだ。
 加藤みきの墓石には、島崎藤村の自筆で『蓮月不染之墓』と刻まれている。


島崎藤村が35歳の時に妻・冬子を亡くした。昭和3年(1928)、53歳のときに加藤静子と再婚。

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仙波東照宮(せんば とうしょうぐう)

 徳川家康(1543~1616)没後の1617年 久能山に一旦埋葬された遺骸を遺言により日光へ移葬する途中、川越に立ち寄った。その因縁により1633年に9mの丘陵が築かれ、その上に仙波東照宮が建立された。
 仙波東照宮は日光東照宮や久能山東照宮と比べるとだいぶ見劣りするが、日本三大東照宮の一つに数えられている。石段を上ると三つ葉葵の紋の付いた門があり、奥に社殿があるが生憎、門には鍵が掛けられていて中に入れなかった。


天海(1536?~1643)は実に謎の多い人物である。
1588年 武蔵野国の無量寿寺北院に入寺した。
1599年 北院の住職となる。
1600年 関ヶ原ノ戦いでは参謀として徳川家康に近侍したという。
1612年 徳川家康は、関東の僧侶は天海の指導に従うよう命じた。
1616年 危篤となった徳川家康は神号や葬儀に関する遺言を天海らに託す。家康の死後、天海の主張で家康の神号は「東照大権現」と決定された。
その後も第2代将軍・徳川秀忠、第3代将軍・徳川家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため1624年 寛永寺を創建した(東叡山の山号を喜多院から寛永寺に移し、喜多院の山号は星野山となる)。徳川家康のブレーンとして江戸幕府・成立に活躍した天海は、北院に入寺する迄の足跡は明確でない。天海と明智光秀が同一人物という説がある。

(チビの日記!!チビのお出かけ140)
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by chibi-papa | 2008-02-02 15:41 | チビのお出かけ