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(130)19・10・20 京王沿線Walking 4

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希望丘中公園でオブジェ「そよ風」の子らとマスゲーム

 今回の京王沿線ウォーキングは「実篤文学のふるさとから世田谷の公園で楽しもう」ということで、
 仙川駅をスタート→実篤公園→実篤記念館→明照院(みょうしょういん)→糠嶺神社(かすみね じんじゃ)→野川沿い→入間公園(ここまでは調布市)(ここから世田谷区)祖師谷公園(そしがや こうえん)→仙川沿い→観世音堂→つりがね池公園→希望丘中公園→芦花公園(蘆花恒春園、ろかこうしゅんえん)→そしてゴールは八幡山駅(はちまんやまえき)までの8kmだった。


武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ、明治18年・1885~昭和51年・1976) : 武者小路実篤というと野菜の絵に添えて「仲良きことは美しきかな」と書かれた色紙を思い浮かべる。
志賀直哉、有島武郎らと明治43年(1910)に文芸雑誌「白樺」を創刊。ユートピアの実現を目指して大正7年(1918)に「新しき村」の建設に乗り出した。
晩年の20年間を過ごした邸宅の敷地を「実篤公園」として昭和53年から一般公開されている。1,500坪(5,000㎡)の園内は木立の中に湧水と大小の池があり、武蔵野の面影を残している。
生誕100年にあたる昭和60年(1985)、公園に隣接して実篤記念館が設置された。 

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7万㎡の芦花公園

 ゴールまであと1km。切り株で一休み。ゆったりとした自然。
 公園の一画には徳富蘆花(とくとみ ろか、本名:健次郎、小説家)が20年間住んだという母屋とか徳富夫婦の墓碑などがある。墓碑の前には蘆花の兄の蘇峰(そほう、歴史家、評論家)による墓誌がある。隣にはその20年後に書かれた徳富愛子墓誌があるので紹介する。


 (ここに葬られているのは、芦花徳富健次郎の夫人愛子である)
 女史は原田氏の出で、名は藍子、後に愛子と改めた。明治7年に熊本県菊池市隈府に生れ、長じて東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)に学んだ。ある日、私のところに兄原田良八が同行して来た。一見して弟の妻に好ましいと思い、弟の意向を聞き、老父母にも相談し、卒業後婚姻が成立した。
 女史は才色ともに恵まれ、態度は慎み深く、精神はしっかりして動揺することがない。夫婦生活34年間、心は一つとなり相愛し相助けた。芦花が大を成し得たのは女史の内助によるところが大きい。
 芦花死去後、20余年を一人で生きて、自身の病弱をおして芦花の遺書を整理刊行し、また後々の計画を定めた。すなわち十回忌に恒春園の土地と邸宅一切を東京都に寄贈し、芦花記念公園としたのである。
 女史は昭和22年2月20日、熱海の仮の住居で永眠した。数え年74歳。遺骨は芦花の左隣りに葬られた。
 義兄 徳富蘇峰85歳 記す。


 芦花の死後10年を経た昭和12年(1937)に武蔵野の景観とともに保存し公園にすることを条件に東京市に寄贈された。
 墓碑に一礼。ここには芦花夫妻の心がこもったゆったりとした自然がある。


東京市 : 戦時体制構築による首都行政一本化のため昭和18年7月1日、東京都制の施行により東京府と合併する形で東京市は廃止され東京都が設置された。
徳富愛子墓誌は昭和22年に記されたので「東京都に寄贈」となっているが、寄贈したのは昭和12年なので当時は東京府東京市だった。

徳富蘆花の墓誌については平成19年8月11日の チビのお出かけ122 を見てね。

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芦花公園のコスモス

 コスモス(秋桜)は日本の風景の中に自然に溶け込んでいるけれど原産地はメキシコ。明治初期に渡来。秋に咲き、花弁の形が桜に似ているところから秋桜。秋の風に揺れる姿には風情がある。

♪ 淡紅(うすべに)の秋桜が秋の日の
何気ない陽溜り(ひだまり)に揺れている
   ・・・
こんな小春日和の穏やかな日は
あなたの優しさが身に沁みてくる・・・


 どこからか山口百恵の「秋桜」(昭和52年、作詞・作曲:さだまさし)が聞こえてきそう・・・冬の小春日和に秋のコスモスが揺れている、というのは違和感がある。爽やかさを含んだ寂しい秋の風と小春日和の暖かさのどちらを主としているのか分からない。別々の情景を歌っていると思えばいいのかニャ。

♪ ・・・あれこれと思い出を辿ったら
いつの日も一人ではなかったと
今更ながら我がままな私に
唇噛んでいます
   ・・・
こんな小春日和の穏やかな日は
もう少しあなたの子供でいさせて下さい


 でも、「こんな小春日和の~」と「こんな」という言葉が入っているので、やはり歌詞全体に違和感がある。小春日和と秋桜はマッチングしない。


(チビの日記!!チビのお出かけ130)
・・・今年のキーワードは 『 ロハス(Lifestyles of Health and Sustainability)とグレイトコラボレーション(Great Collaboration) 』・・・
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by chibi-papa | 2007-10-20 23:14 | チビのお出かけ  

市川、船橋戦争(129)19・10・14 

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市立市川歴史博物館

 市川と船橋との間で戦争があったわけではない。
 今から140年前の戊辰戦争でその局地戦として市川、船橋地区も戦場になり961軒の家屋が焼失した。歴史博物館(市川市堀之内)ではこの市川船橋戦争の全容を明らかにする展示及びギャラリー・トークが特別企画された。
 テーマ:「市川船橋戦争と市民」
 解 説 : 斉藤喜一(市川博物館友の会副会長)

 北総線で京成高砂駅から3つ目の北国分駅下車。国分の地名はかつて下総国分寺があったことに由来する。駅前ロータリーでは縄文土器を掲げた女性のブロンズ像「縄文ノ賦」(じょうもんノうた、作:久保田俶通、くぼた よしみち)、が出迎えてくれる。歴史博物館はここから徒歩8分、堀之内貝塚公園内にある。


戊辰戦争(ぼしん せんそう) : 王政復古で成立した明治新政府が徳川幕府勢力を一掃した内戦(慶応4年=明治元年~明治2年)。慶応4年(1868)の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。近年では昭和63年(1988)、次は平成60年(2048)の干支が戊辰。西暦年を60で割って8が余る年が戊辰の年となる。
・ 慶応2年12月(1866年):徳川慶喜、第15代将軍に就任
・ 慶応3年10月(1867年):徳川慶喜、大政を奉還
・ 慶応4年1月(1868年):鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)
・ 慶応4年3月:甲州勝沼の戦い(近藤勇率いる甲陽鎮撫隊敗れる)
・ 同年4月:江戸城明け渡し。徳川慶喜は水戸へ
・ 同年閏4月:市川船橋戦争(撒兵隊敗れる)
・ 同年5月:上野戦争(彰義隊敗れる)
・ 同年7月:江戸を東京と改称
・ 同年8月:会津白虎隊自刃
・ 同年9月:明治と改元(1月1日に遡って明治元年とすることとした)
・ 明治元年同月:会津戦争終結
・ 明治2年5月(1869年):箱館五稜郭陥落(ここに戊辰戦争終わる)

閏月(うるうづき) : 明治6年(1873)に太陰太陽暦から太陽暦(地球が太陽の周りを回る周期を基に作られた暦)に移行した。太陰太陽暦では太陰暦(月の満ち欠けを基準として作られた暦)を基にしながらも約3年に1度、閏月を挿入して実際とのずれを補正しなければならない。
太陽暦に移行する前の太陰太陽暦は天保暦(てんぽうれき)と言われるもので、それまでの寛政暦と違って西洋天文学を取り入れかなり精密な暦になっていたが、それでも閏月による補正が必要であった。
太陽暦への移行で、明治5年12月3日を一足飛びに明治6年1月1日にしたので、明治5年の12月は1日と2日の2日間しかない。それによって師走の行事などに混乱が生じたようだ。

 幕末の慶応4年(1868)閏4月、江戸城の明け渡しに不満を抱く旧幕府軍(撒兵隊、さっぺいたい)と官軍(岡山藩、佐土原藩、福岡藩、薩摩藩ら)が市川、船橋地区で戦い、ここ市川宿だけでも焼失家屋127軒、罹災者669人に及んだ。
 閏4月3日早朝5時、中山法華経寺に拠点を置く撒兵隊(江原第1大隊)が八幡の岡山藩陣地を急襲し、一時は撒兵隊側が有利に展開した。しかし、その日の午後には松戸方面や江戸川西岸から岡山藩、薩摩藩の援軍が駆けつけ、撒兵隊は敗走し一日で官軍の勝利に終わった。
 この戦い以後、房総地域では新政府に対する集団的な抵抗はなくなり、戦線は会津、箱館へと移っていった。


旧幕府軍の敗因 : 榎本武揚は旧幕府軍・海軍を率いて館山に入り、大鳥圭介は旧幕府軍・陸軍・伝習隊を率いて市川に入った。榎本武揚は箱館へ、伝習隊は会津藩と連携して官軍に対抗するため北へ向かってしまい、撒兵隊(総数2000人、木更津に布陣)は第1大隊300人を中山法華経寺へ、第2・第3大隊600人を船橋大神宮に派遣したが、もうその時すでに伝習隊はいなかった。そこで撒兵隊は単独での江戸奪還は困難と考えて一旦は武装解除を受け入れたが、秒読み段階で突然それを拒絶し攻撃に転じた。撒兵隊の敗因は、
① 新撰組の局長・近藤勇が流山で官軍に捕らえられたことを知り大鳥圭介が動揺し市川から移動してしまった。これが一番大きな敗因。
② 伝習隊と撒兵隊との連絡、撒兵隊同士の連絡がなっていなかったこと。
③ 第1大隊が市川で官軍を打ち破っているとの報を受けているのに昼ごろ船橋大神宮の本営に突然、佐土原藩(さどわらはん、薩摩藩の支藩、廃藩置県のあと宮崎県に編入)軍が現れ大混乱に陥ってしまったこと。
④ 船橋へ敗走中の第1大隊は福岡藩軍によって中山・船橋間を遮断され挟み撃ち遭ってしまったこと。
⑤ 武装解除か否かで隊内で意見が割れたことなどに起因する。

 戦闘が終わった翌日には新政府の特使が住民の被害状況を確認し、市川宿に500両、船橋宿には3000両を下賜して住民が新政府に敵意を抱かないように配慮した。また明治7年(1874)には千葉県令(けんれい、県知事)は、地元民が旧幕府軍も含めた全ての戦死者の供養をおこなう事を許可している(墓標が両市内に点在している)
 第1大隊長の江原素六(えばら そろく、1842~1922)は負傷して戦線を離脱、その後、静岡藩に下向した。明治23年(1890)第一回衆議院議員総選挙に当選、明治28年(1895)には麻布学園を創立するなど、政治家・教育家として名を残した(沼津の江原公園に銅像が建っている)


江原素六と同時代を生きた高木兼寛(1849~1920)は戊辰戦争の際に薩摩藩兵の軍医として従軍。その後、海軍軍医総監となり、慈恵医大を創設した。チビのお出かけ128 を見てね。

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県道沿いに牧場?

 堀之内貝塚公園内には考古博物館もある。興味深く見学した。貝塚公園を散策しているといたる所に貝殻が表層にあらわれている。3千年の時を越えて出会った貝殻・・・ハマグリ、イボ・キサゴが主体で稀にヤマトシジミもあるとか。

 帰り、道に迷って市川松戸道路に出てしまった。そこで牛の親子のオブジェに出会った。
 やっと北国分駅にたどり着いた。来た時には気が付かなかったが駅構内には発掘された縄文土器が展示されていた。


イボ・キサゴ : 扁平なベーゴマのような形をした巻貝。

市川歴史博物館 : 鎌倉時代からの市川の歴史や文化を今に伝えている。特に海辺と台地、水路と陸路など地形を生かした市川の生活や塩作り、海苔の養殖、米作り、梨作りなどが常設展示されている。

市川考古博物館 : 市川市には原始・古代の遺跡が多く、土器・石器・埴輪・瓦など多数出土している。これらを先土器時代から平安時代までを時代を追って展示されている。

(チビの日記!!チビのお出かけ129)
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by chibi-papa | 2007-10-14 23:59 | チビのお出かけ  

青戸と青砥(128)19・10・14 

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東京慈恵会医科大学附属青戸病院

 パパはここ青戸病院(当時は青砥病院)で生まれた。
 青戸病院の前身は昭和13年に建てられた大島病院・中川診療所(結核療養所)で、それを昭和18年に東京慈恵会医科大学が買い取り、大学附属中川療養所と改称したのに始まる。
 戦後の昭和21年、総合病院に改組し大学附属東京病院分院青砥病院となる。初代院長には古閑義之教授(こが よしゆき、森田療法で有名な森田正馬 もりた まさたけ教授の直弟子)が就任した。昭和38年には鉄筋4階建の本館が完成したのを機に大学附属病院青戸分院と改称。昭和49年に別館、昭和60年に第二別館が建てられ現在に至っている(昭和61年、青戸分院から青戸病院に変更)

 チ ビ; 青砥病院を青戸病院に なんで変えたんだろうね。

 パ パ; 地名に合わせて地域に根ざした病院をイメージしたんじゃないかな。

 チ ビ; でも、駅名は京成青砥駅、青砥だよ。

 パ パ; 青砥は鎌倉武士の青砥左衛門尉藤綱(あおと さえもんノじょう ふじつな)からきているのさ。

 チ ビ; 地名の青戸は?

 パ パ; 戸は津と同じ意味も持っていて、水上交通の要所に付く地名なんだ。例えば青戸の下流の奥戸(おくど、中川)、松戸(江戸川)、登戸(多摩川)・・・。
青戸の船着場は葛西城(葛西御殿)の近くにあって、大戸(おおと)と呼ばれていたのだろう。それがおおと→あおと→青戸になったと思うんだ。つまり青戸と青砥は全く別の由来からきているんだよ。でも、その青砥藤綱は伝説上の人物で実在しなかったんだ。

 チ ビ; へぇ~そうなんだ。


青砥駅 : 京成電鉄は大正元年(1912)に開業するも、青砥駅ができたのはそれから16年後の昭和3年(1928)であった。それまでは立石・高砂間に駅は設置されていなかった。

東京慈恵会医科大学 : 大学令に基づく旧制大学の中で最も古い医科大学で、高木兼寛が明治14年(1881)に中央区銀座4丁目で開設した 「成医会講習所」 が起源。当時の医学教育はドイツ語が主流であったがここでは英語でおこなっていた。当時の新聞には「日本橋の南にドイツの風は吹かない」と掲載されたりした。
 さらに高木兼寛は翌年の明治15年に有志共立東京病院を開院、明治18年に看護婦教育所を付設。明治20年、皇后陛下より「慈恵」の名を賜り東京慈恵病院と改称する。明治37年には産婆(助産婦)の養成を始める。

高木兼寛(たかき かねひろ、1849年~大正9年・1920年) : 宮崎市の生まれ。薩摩藩蘭方医(オランダ医学)を学び、戊辰戦争の際に薩摩藩兵の軍医として従軍した。明治2年(1869)に開成所洋学局に入学し英語と西洋医学を学ぶ。鹿児島医学校が創設されると21歳でいきなり教授となった。
その後、海軍に入り明治18年(1885)には海軍軍医総監(海軍軍医の最高階級)に登りつめた。当時の軍隊内部で流行していた脚気(かっけ)の解決に取り組み、脚気は細菌が引き起こす感染症であると主張する陸軍軍医の森鷗外(陸軍軍医総監に登りつめる)と対立した(脚気論争)
高木兼寛が主張した白米の中に大麦を混ぜた麦飯食で脚気の撲滅に成功した(明治43年・1910年に鈴木梅太郎によって米の糠から抗脚気因子が発見されオリザニンと名付けられた、オリザリンは世界で最初に発見されたビタミン)

脚気論争と日露戦争 : 陸軍軍医の森鷗外(除隊後は小説家)は自説に固執し麦飯食を禁止する通達を出した。これによって陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名の兵士を失う事態になり「森鴎外はロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した」と批判された。
一方、海軍軍医の高木兼寛は兵員に麦入りご飯を食べさせたため、脚気患者は軽症者がわずかに発生したのみで死者は出なかった。このことは日露戦争での日本海海戦(明治38年・1905年)の間接的な勝因となった。

海軍カレーの登場:陸軍が白米にこだわったのは、軍隊に入ったら白米が腹いっぱい食えるという期待に応えるためもあったのだろう。
一方、海軍は麦飯食にした(当時の麦は臭かったようだ)。そのかわり、カレーなどを用意した。後に海軍のカレーが人気となり、除隊した兵士が国に帰ってカレーライスを作った。それが全国に広がっていった。カレーライスは旨い。

 ところで、8月29日の深夜に奈良県で30代の妊婦(妊娠7ヶ月)を救急車で搬送中に胎児が死産した問題で、感情的に叫んでいる報道が見受けられた。
 でも、妊婦は交通事故などによる負傷者とか急病人とは違う。この妊婦は産科の受診を受けていない「飛び込み出産」で母子手帳を持っていなかった。胎児の大きさとか、逆子か否かとか、感染症はどうだとかが分からなければ、24時間体制による妊婦の受け入れは困難となろう。

 我が国の乳児死亡率は3、0を切っている。つまり出生千人に対して1歳未満で亡くなるのが3人(千三つ)以下ということ。だから不幸にして死産となったら医師、病院は責任を追及されるというご時世、とてもじゃないが怖くて「飛び込み出産」は受け入れたくないというのが産婦人科医の本音だろう。

 9月25日にNHK「その時、歴史が動いた」の第299回「赤ちゃんを死なせない~乳児死亡率ゼロ・ある村の記録~」の再放送があった。昭和31年の岩手県沢内村の乳児死亡率は69、6。つまり出生千人に対しておよそ70人が1歳未満で亡くなっていたことになる。それが昭和38年1月1日午前0時に死亡率ゼロを実現した。
 それは行政と妊婦と医師の連携(今で言う周産期医療システムのことであろう)から生まれた。肝心の妊婦が産科の受診をしていないという無知では救いようがない。


産経新聞の論説に「妊婦たらい回し、また義務忘れた医師たち」と題し、「それにしても、痛みをこらえる患者をたらい回しにする行為は許されない。患者を救うのが医師や病院の義務である。それを忘れてはならない。」とある。マスコミがこのように感情的になっても物事は好転しないどころか、かえって産婦人科医のなり手がいなくなり周産期医療システムを破壊することになってしまう。
妊婦の方にも果たす責任があることを訴えていくのがマスコミの本来の姿であろう。

「日本病院団体協議会調べ」によると、2006年以降に休止した診療科数の一番多いのが産婦人科で71、次の小児科は67、精神科は34。

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葛西城址公園

 国道6号と環七通りが交わる手前右側に葛西城址公園がある。
 葛西城は室町時代初期に関東管領の上杉氏が築いたが、戦国大名の小田原北条氏に攻め落とされた。そして小田原北条氏は里見氏との国府台合戦の時にここを本陣としたことがある。その後、小田原北条氏の滅亡により荒廃してしまった。

 徳川家康によって修復され、鷹狩りの際の休憩所・宿舎(葛西御殿)として使用されたという。ところが、第4代将軍・徳川家綱が治世の1657年、明暦の大火(振袖火事)によって天守閣を含む江戸城が焼失したため、その仮屋として移築された。
 環七通りの向かい側が御殿山公園。今は環七通りで分断されているが、往時はここら一帯が葛西城であり葛西御殿であった。


葛西城 : 葛西城復元図によると中川によって運ばれた土砂が堆積した微高地に築かれた平城で、東側は中川、西側は湿地帯という自然の地の利を生かした場所にあった。そして城郭(じょうかく)は中川から運河のように引いた堀と土塁によって防御されていた。

関東管領(かんとう かんれい) : 室町幕府が設置した鎌倉府(関東十カ国を統治するための出先機関)の長(鎌倉公方、かまくら くぼう)を補佐する役職。代々上杉氏が世襲していた。

小田原北条氏 : 単に北条氏というと鎌倉執権の北条氏と混同するので、こう呼ぶ。後北条氏(ご ほうじょうし)ともいう。
1590年、豊臣秀吉により小田原北条氏が滅んだ後は徳川家康の支配下に入る。

明暦の大火(振袖火事)についてはチビのお出かけ95を見てね。

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青砥史蹟復興之碑

『 秋本番 広く香るや 金木犀 夏は梔子 春沈丁花 』 (チビ)
『 金木犀 香り漂い 石蕗(つわぶき)の 黄色目につく 神無月かな 』 (チビ)

 チ ビ; 青砥史蹟復興之碑、何々・・・「鎌倉幕府の名臣(めいしん)評定頭(ひょうじょう がしら)青砥藤綱はこの地を愛好し・・・」
パパ~。パパは藤綱は伝説上の人物だと言ったけど、実在していたんじゃないの?さらに「・・・名判官(めいはんがん)としての善断(ぜんだん、うまく処置すること)滑川(なめりがわ)に於ける逸事(いつじ)等・・・」。ほら~、藤綱はいたんだ!実在していたんだ~!
ねえ、滑川における逸事ってなあに?

 パ パ; 青砥藤綱がある夜、滑川を馬で渡っている時、十文銭を落としてしまったんだ。すぐ家来に命じて松明(たいまつ)を五十文で買ってこさせ、その灯りでようやく銭を探し当てることができた、という逸話ばなしなんだ。

 チ ビ; 十文を見つけるのに五十文使ったら四十文の損じゃない。

 パ パ; それに対して青砥藤綱は、「たとえ十文の銭であっても、探さなくては天下の貨幣は永久に失われてしまう。拾い上げた十文銭は手元にあるし、松明を買った五十文も商人の手から次々に流通して世の中で役立っている。合わせて六十文の銭はなんの損失もない。これが天下の利益というものだ」と説いたんだ。

 チ ビ; 藤綱は経済の本質が良くわかっているみたいだね。

 パ パ; 公正で剛直(ごうちょく、信念を曲げないこと))な青砥藤綱という架空のキャラクターを通して善政とされる執権政治を目標とし、鎌倉幕府を維持しようとしたんだ。


金木犀(きんもくせい) : 春の沈丁花(じんちょうげ)、夏の梔子(くになし)とならび強い香りを漂わせる。金木犀は菓子などに芳香を添える素材として栽培されている。金木犀といわれる所以は、花が黄赤色(いわゆる金色)で、灰褐色の幹や紋が動物の犀(サイ)の皮膚に似ているため。 

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青砥藤綱城跡

 チ ビ; パパ~!決定的な証拠を見つけたよ!「青砥藤綱城跡」の石碑!関東管領の上杉氏がここに城を築く前に藤綱が築城したんだ~!室町時代の前の鎌倉時代にだよ~!パパ~!

 パ パ; そんな大声を出さなくても聞こえるよ!藤綱は伊豆大場氏の後裔(こうえい、子孫のこと)で、承久ノ乱の功により上総国青砥の地を賜り青砥を名字としたというけれど、「角川地名大辞典・千葉県」によると上総には青砥という地名は無い!それに生年月日も亡くなった日もわからないんだよ!評定頭だったのにそんな事ありえないだろう。

 チ ビ; う~ん。

 パ パ; 奥州平泉の中尊寺に伝わる鎌倉時代の古文書には、この地を本拠地としていた青戸二郎重茂(あおと じろう しげもち)なる武士の名が記されている。その青戸は地名が先なのか、青戸重茂の名が先なのかは不明だけど、青戸重茂と青砥藤綱が混同しちゃったんじゃないかな。

 チ ビ; でもボクは藤綱が実在の人物だと思うんだ。今度、鎌倉に行ったときに滑川で青砥藤綱実在の痕跡を探すんだ!


承久ノ乱(じょうきゅうノらん) : 鎌倉時代の承久3年(1221)に後鳥羽上皇(ごとば じょうこう)が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げて敗れた兵乱。この乱の結果、幕府の力が優勢となり朝廷の権力は制限されることになる。

 = チビとパパの青砥藤綱実在論争はまだまだ続きそう =

(チビの日記!!チビのおでかけ128)
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by chibi-papa | 2007-10-14 17:45 | チビのお出かけ