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夢ノ島公園(109)19・04・30 

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初代・夢ノ島

 昭和40年(1965)、江東区に蝿の大群が押し寄せて来た。特に南砂町はハエ、はえ、蝿だらけ。原因は塵の島 「14号埋立地」 (通称:夢ノ島)。そこで 「夢ノ島焦土作戦」 (しょうど さくせん)と称して塵(ごみ)に重油を撒(ま)いて蝿を焼き尽くそうとしたら、悪臭を伴う煙が広い範囲に漂ってしまったりでテンヤワンヤの大騒ぎ。

14号埋立地が塵処分場としてすっかり有名になってしまったので、その後の塵埋立地も夢ノ島と呼んでいる(新夢ノ島、三代目夢ノ島、四代目夢ノ島、五代目夢ノ島と続き、夢ノ島が塵埋立地の代名詞となった)

 戦前の昭和14年、ここに飛行場を建設すべく埋め立てを開始したものの2年で頓挫(とんざ)。戦後はここを塵の埋立地として昭和42年まで続けた。現在ではこのような緑の島に生まれ変わった。

平成2年(1990)、JR京葉線(けいようせん、東京駅~蘇我駅)が全通した。
新木場駅に地下鉄・有楽町線(新木場駅~和光市駅)と臨海線(新木場駅~大崎駅)が接続して、交通の便が飛躍的に良くなった。

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第五福竜丸のエンジン

 第五福竜丸(だいご ふくりゅうまる)のエンジンが第五福竜丸展示館(写真右奥)の脇に展示されている。第五福竜丸は昭和42年(1967)に廃船になり、エンジンは貨物船に移された。しかし、その船が昭和43年、熊野灘沖にて沈没。平成8年(1996)にエンジンが海中から引き上げられた。28年間も海に沈んでいたのでボロボロ。数奇な運命を辿った第五福竜丸の心臓部と接することができた。

 すぐ近くに「マグロ塚」がある。昭和29年(1954)、アメリカによる水爆実験で被爆した第五福竜丸から放射能に汚染された鮪(マグロ)が水揚げされ、消費者にわたる前に中央卸売市場・築地市場の一角に埋められ、市場の外壁にプレートが掲げられている。


平成7年(1995)、都営地下鉄大江戸線・築地市場駅工事に伴い、市場地下を調査したが骸(むくろ)は発掘されなかった。60年の歳月で鮪は土に還ったのであろう。

 さらに第五福竜丸展示館の敷地の一角に第五福竜丸(乗組員23人)の無線長で「局長」と慕われていた最年長だった久保山愛吉(くぼやま あいきち)さんの記念碑がある。そこには死の灰を浴び半年後に亡くなった久保山さんの言葉 『原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい』 が刻まれている。死因は急性放射能症による肝臓障害、享年40。合掌。

 いよいよ第五福竜丸展示館に入る。第五福竜丸が展示されている。昭和22年(1947)鰹漁船・第7事代丸(だいなな ことしろまる)として建造され、後に鮪漁船・第五福竜丸に改造されて遠洋漁業に出ていた。昭和29年3月、南太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁で、アメリカの水爆実験による死の灰を浴びてしまった。
 その後、練習船・はやぶさ丸に改造されて東京水産大学で使われていたが昭和42年(1967)廃船、エンジンを取り外した後、解体業者によって夢ノ島の隣の第15号埋立地(新夢ノ島)に放置されていた。船体の保存運動が起こり、ここに永久保存となった。

 総トン数141t、長さ29m、幅6m、高さ15m、深さ3m、スクリューも錨(いかり)も思っていたよりも小さい。こんな小さな木造船で遠洋漁業に出ていたとは信じられない。魚倉(ぎょそう)に氷を満杯にして出航したという。赤道直下でも氷が解けにくいように魚倉は工夫されていた。船首や船尾の曲線部分は松板を蒸し曲げ(むしまげ)の技術で湾曲(わんきょく)させていた(だから、船の俗字は舩なのかな?)
 木造で出来ていた船橋(せんきょう、指令塔)は現在の技術では補修・再現できず鋼板製になっていた。船釘(ふなくぎ)も展示されていて、当時の船大工(ふなだいく)の技の凄さが伝わってくる。今年で建造60年目を迎える。


焼津港に帰港した第五福竜丸の乗組員達を待ち受けていたのは、死の灰を浴びたということでの地元での差別だった。いたたまれず東京に移住。冷凍士だった大石又七氏は語り部(かたりべ)として、今も体験を語り継いでいるという。

被爆したのは第五福竜丸だけでなかったようだ。なんと、数百艘が被爆した模様。アメリカは早期決着を望み、翌年(昭和30年1月)見舞金200万ドル(7億2千万円)を支払うことで政治決着した。日本政府は隠蔽、マスコミは沈黙。

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夢ノ島熱帯植物館

 昭和63年(1988)に開設された熱帯植物を主に展示する植物園で、大きな温室は熱帯雨林の環境をモデルに造られている。温室は左からA-dome、B-dome、C-domeから成っていて、C-domeには小笠原諸島特有の植物が集められている。
 小笠原諸島は東京の南南東1,000kmの太平洋上にある30余の島々で、東京都に属しているが気候は亜熱帯。これらの気候環境にするため、同じ夢ノ島内にある新江東清掃工場のゴミ焼却熱を利用しているという。

 イベントホールでは弦楽四重奏のコンサートがおこなわれていた。そういえば受付の雰囲気も良かったニャ。そうか!平成18年から指定管理者制度によって民間企業がこの施設を管理しているからサービスが向上したんだな。


熱帯雨林(tropical rain forest) : 熱帯多雨林ともいう。年平均気温25℃以上、年間雨量が2,000mm以上で降雨が年間でほぼ平均している熱帯に分布する森林。東南アジア、アマゾン川流域、アフリカのザイール川流域などに分布している。

東京都小笠原に核兵器が持ち込まれる可能性については平成16年10月2日の チビのお出かけ 6 を見てね。

指定管理者制度(していかんりしゃせいど) : 公の施設の管理はそれまで地方公共団体やその外郭団体に限定されていたが、平成15年(2003)から民間企業にもできるとした制度。これにより、施設運営面でのサービス向上(利用時間の延長など)で利用者の利便性が向上したり、経費の削減によって施設を所有する地方公共団体の負担が軽減できる。

 (チビの日記!!チビのお出かけ 109)
・・・今年のキーワードは「ロハスとグレイトコラボレーション」・・・
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by chibi-papa | 2007-04-30 14:02 | チビのお出かけ  

♪ 28 こいのぼり 19・04・29

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鎌倉中央公園・上ノ池の鯉のぼり

 ひな祭りが終わるのを待って、出てきた鯉のぼり。

♪ こいのぼり [作曲] 不 詳  (昭和6年)一、[作詞] 近藤宮子
屋根より高い 鯉のぼり
大きい真鯉(まごい)は お父様
小さい緋鯉(ひごい)は 子供たち
面白そうに 泳いでる

二、[作詞] 不 詳
緑の風に 誘われて
ヒラヒラはためく 吹き流し
クルクル回る 風車
面白そうに 泳いでる

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 幼児向けのこの歌にはお母様がいないじゃないか。となるが、安藤広重の浮世絵「名所江戸百景」(64 水道橋駿河台)には真鯉一匹だけの鯉のぼり が描かれている。その一匹は誰かというと、男の子であるし、見方によっては見守ったり励ましたりしている父親であったり、あるいは母親であったりする。かえって一匹の方がいろいろとイメージが湧いてくる。 

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谷戸の田畑

 鎌倉中央公園はJR大船駅で乗り換え、湘南モノレール・湘南町屋駅で下車する。公園といっても都市部にある近代的な公園ではない。谷戸(やと)という地形を利用した、自然が織りなす24haの水と緑の里山風公園である。

 上池から湿地の木道を歩くと両脇に湿生植物(しっせい しょくぶつ)を観察できる。下池(しものいけ)の先をしばらく行くと田畑があり、畑では畑班が南瓜(かぼちゃ)の種を蒔いていた。
 田圃班(たんぼはん)は5月3日と4日に田うない(耕起、耕地の土を掘り起こして耕すこと)をし、6月10日に田植えをするという。このように鎌倉中央公園を育てる市民の会というNPO(NonProfit Organization、非営利組織)が、各活動グループに分かれて農文化の継承(けいしょう)を目的に、堆肥(たいひ)を利用した循環型無農薬農法をおこなっている。
 当日は「わくわく花フェスタ」が開催されていて、子供が多かった。


この公園は平成9年に一部が開園され、平成16年に全園がオープンした。

里山(さとやま) : かつては薪炭用(しんたんよう)木材や山菜などを採取していた人と関わりのふかい森林が集落や田畑の近くにあった。

 このあと行った銭洗弁天は縁日で混んでいた。まもなく端午の節句。

端午の節句 : 5月は古来より不吉な月とされてきたことから、皐月(さつき)の端午(たんご、最初の午)の日には、菖蒲で邪気を払い、大名および旗本総登城での式典も行われた。武家では幟(のぼり)や吹流しを掲げ、町人は鯉のぼり を生みだした。
現在では5月5日に行われ、国民の祝日「こどもの日」になっている。

 (チビの日記!!チビの愛唱歌 28)
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by chibi-papa | 2007-04-29 16:51 | チビの愛唱歌  

躑躅の赤に赤門の赤 (108)19・04・22 

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根津神社つつじまつり

 恒例のつつじまつりが4月7日から5月6日まで開催されている。今年は去年より10日ほど早く見に来た。表参道から入っていくと楼門(ろうもん)の前に神橋が架かっている。たしか去年来た時はなかったニャ~。早速、欄干の擬宝珠(ぎぼし)を掴んでハイ、ポーズ。

 社殿の造営は三百年前の1706年で、第5代将軍・徳川綱吉(つなよし)が家宣(いえのぶ)を第6代将軍に跡目相続(あとめそうぞく)するに際し、その産土神(うぶすながみ、生まれた土地を守護する神)として社殿を造営したんだ。
 というのも、ここは甲府藩主・徳川綱重(つなしげ、第3代将軍・家光の三男で、綱吉の兄)の屋敷があった所で、ここで子・綱豊(のちの家宣)が生まれたんだ。だから社務所の前に家宣公の産湯井戸(非公開)があるんだな。その子が将軍になることになったので、この屋敷を根津権現に寄進して社殿を建てたというわけだニャ~。
 境内を一周して甘酒茶屋で一休み。石垣が取り外されたりいろいろ変わったんだニヤ~。これは昨年度の境内整備事業の一環だという。境内をもう一周する。

 薔薇(バラ)という漢字は難しいけど、躑躅(つつじ)もまた難しいね。躑躅は“足をバタバタさせて苦しむ様(さま)”という意味だけど、なんでこの漢字が 「つつじ」 になったのかは、平成18年5月1日のチビのお出かけ(46)を見てね。

 躑躅を見終わった後、表門から新坂(権現坂ともS坂ともいう)を上る。やがて本郷通りに出る。東京大学が左手に広がる。東大の敷地は江戸時代には加賀百万石の金沢城主前田家の上屋敷があったところだ。


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東大赤門

 東京大学を象徴するものの一つに赤門がある。赤門は1827年、13代加賀藩主・前田斉泰(なりやす、最終の位階は従二位)に嫁いだ第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の娘・溶姫(ようひめ?やすひめ?)のために建てられた御守殿門(ごしゅでんもん)で、丹塗り(にぬり)なので表門の黒門に対して赤門という。門の左右には唐破風(からはふ、中央部が弓形で左右両端が反り返った曲線状の破風、破風とは屋根のこと)の番所がある。

 位階(いかい)が三位(さんみ)以上の大名が将軍家の姫君(ひめぎみ)を妻に迎え入れるには、丹塗りの門を建てる習わしがあった。そして御守殿門は火事で焼けると再建が許されなかったので、現存する東大の赤門は貴重な門。国の重要文化財に指定されている。
 赤門の内側からハイ、ポーズ。車止めも案内板も真ッ赤か。


・文政10年(1827年):建造。
・明治10年(1877年);東京大学に移管。
・昭和36年(1961年):解体修理し15mほど移築。


・第3代将軍:徳川家光(いえみつ) : 家宣の父は家光の子
・第5代将軍:徳川綱吉(つなよし) : 甥の家宣を後継者に選んだ
・第6代将軍:徳川家宣(いえのぶ) : 産土神としての根津神社
・第11代将軍:徳川家斉(いえなり) :溶姫と御守殿門(赤門)

 (チビの日記!!チビのお出かけ 108)
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by chibi-papa | 2007-04-22 15:29 | チビのお出かけ  

(107)19・04・21 京王沿線Walking 1

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多摩川の鉄橋を快走する電車

 今年度第1回目の「京王沿線ウォーキング」に参加した。府中駅から2つ目の中河原駅が集合地点。地図とスタンプカードをもらい下河原緑道→府中憩いの森→多摩川遊歩道→押立神社→本村神社→西光寺→若宮八幡宮→京王多摩川駅前がゴールの9、5km。天候にも恵まれて快適なウォーキングでした。と言っても、歩くのはパパで、ボクはパパの肩の上。

 下河原緑道は今は緑道になっているけど、昭和51年まで国鉄下河原線が走っていたと聞いた。府中憩いの森で小休止。多摩川に出ると、河川敷に降りてみた。河川敷占用区域標に立っていると電車が鉄橋を渡る。思わず振り向く。武蔵野線の電車なのかな?それとも南武線の電車かな?
 ところで河川敷は「かせんしき」って読むんだよ。河川の敷地だから「かせんしき」。「かせんじき」と誤読(ごどく)しているアナウンサーがたまにいるね。

 多摩川遊歩道には菜の花(rape blossoms)やチューリップが微笑み、風に吹かれながらのウォーキングは心地よかった。対岸からは風に流されて聞こえてくる統一地方選後半戦の選挙カーから必死の音声。
 多摩川遊歩道を後にすると一転して狭い路地を通ったりしながら、西光寺では近藤勇の座像(ざぞう)に出会ったり、途中あちこち寄り道したりで所定時間の2時間25分を1時間ばかりオーバーしてしまった。最後にカードに「完歩」のスタンプを押してもらい参加賞を貰った。


この4月の統一地方選挙からマニフェスト(manifesto、「はっきり示す」というイタリア語が語源)が配布できるようになった。マニフェストを重視して、人気投票より政策選び投票にした方が少しは政治が良くなるのではないかな。

 (チビの日記!!チビのお出かけ 107)
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by chibi-papa | 2007-04-21 00:00 | チビのお出かけ  

新座の竹林(106)19・04・15 

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無念夢想

 野火止用水の流れが綺麗。平林寺沿いの道路には「狸に注意」の標識が立つ。
 朽ちた木の上で無念無想(むねんむそう、無我の境地に入り無心になること)に耽る(ふける)。ここは竹林の静宮。筍(たけのこ)の頭をもたげる音が聞こえる・・・。
 
 隣接して「睡足軒ノ森」があり、向かいは平林寺(へいりんじ)。睡足軒ノ森(すいそくけんのもり)は約9,400㎡を有する森で、上野国(こうずけのくに)高崎藩が統治していたがその後、電力の鬼と言われた(茶人としても知られる)松永安左エ門(まつなが やすざえもん、明治8年~昭和46年、享年95)の所有地となり、昭和13年に飛騨高山から茶室・睡足軒が移築された。死後(昭和47年)、菩提寺である平林寺に譲られた。その後、平林寺から新座市(にいざし)に無償で貸与され平成14年より一般開放されている。

 平林寺は室町時代太田道灌の父・道真によって岩槻に開山された。江戸時代に入って川越藩主が現在の地に移転した。43万㎡という広大な境内全域が埼玉県文化財及び県の名勝に指定されている。ペット禁止とのことで中に入れなかった。

平林寺大門通りに面しているが無念夢想
・・・静寂


 竹取の翁(おきな)がいる
 「輝夜姫」がいるかも
 「輝夜姫」が月に戻る時の歌


 『 今はとて 天の羽衣 着るをりぞ 君をあはれと 思い出でぬる 』 (輝夜姫)

 帝がそれにこたえて

 『 あふことも 涙に浮かぶ わが身には 死なぬくすりも 何にかはせん 』 (帝)

 「遅し」と言う天人に「輝夜姫」は言い放つ
 『 もの知らぬことなのたまいぞ 』
 なんとも心打つ言葉だニャ~・・・
 ・・・

 無念無想の無念は有念に対する無念・・・
 無念無想、無念無想・・・


野火止用水 : 江戸時代、老中で川越藩主だった松平信綱が新田開発のため、玉川上水から分水して小平市、清瀬市、新座市を経て志木市の新河岸川に注いでいる。24キロメートル。

♪ かぐや姫 (童謡)
[作詞] 加藤 省吾 [作曲] 海沼 実
一、
竹藪の 竹藪の 竹の中から生まれ出た
月の雫の お姫様
光輝く 輝夜姫 輝夜姫

ニ、
竹取りの 竹取りの 翁を訪ねて春が来て
花を開いた お姫様
光輝く 輝夜姫 輝夜姫

三、
十五夜の 十五夜の 月の光に招かれて
一人旅立つ お姫様
光輝く 輝夜姫 輝夜姫


 光り輝く竹から生まれた娘が、絶世の美女となり、数多の貴族から求婚されるも、天女となって月へ帰っていく・・・。光り輝くかぐや姫・・・輝夜姫(てるやひめ)・・・、千年を経た今も切なく心に染み入る・・・。

 (チビの日記!!チビのお出かけ 106)
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by chibi-papa | 2007-04-15 13:42 | チビのお出かけ  

(105)19・04・14 変貌をとげる秋葉原

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秋葉原UDX(Akihabara Urban Development X)ビルにて

 明治2年(1869)冬、ここ(当時の)神田花岡町一帯で大火事があり、焼け跡は火除け地(ひよけち)に指定され約4万㎡が空き地になった。翌明治3年、その一角に防火祈願の神社「鎮火社」が創建されたが、当時の人々は火伏せ(ひぶせ)の神様なら秋葉権現(あきば ごんげん)に違いないと思い込み、この火除け地を「秋葉ヶ原」(あきばがはら)と呼ぶようになってしまった。

 明治21年(1888)、「秋葉ヶ原」(正式には鎮火社の敷地)(当時の)日本鉄道会社に払い下げとなった(これによりここにあった鎮火社は台東区松ヶ谷に移転)。翌々明治23年、上野駅(東北本線の始点)から秋葉原まで貨物線が延長され秋葉原貨物取扱所が開業した。なぜここまで貨物線を延長したかというと、すぐ傍を神田川が流れているので、貨物駅に掘り割(ほりわり)を引いて水上貨物輸送の窓口にするのに都合が良かったからなんだ。
 その後、大正14年(1925)に秋葉原駅~東京駅間が開業し、旅客輸送もするようになった。さらに昭和7年(1932)にお茶の水駅~両国駅間が開業し、秋葉原駅は交通の要所となる(昭和10年に神田青果市場が設置される)


駅名を付けたとき「あきばはら」を「あきはばら」と誤植したらしい。時代が移り秋葉権現のことを知らなかったのだろう。でも、訂正されずに今日に至っているなんて面白いね!

日常会話では、「あきら」の略称として「あきは」でなく「あきば」が広く使われている、というころが面白いね!

昭和5年(1930)、鎮火社は俗称の秋葉神社を本名に改称してしまうところが面白いね!

Yahoo地図情報の「古地図東京めぐり」で明治時代に合わせると、水上貨物輸送の窓口だった掘り割りが見られるよ!
(昭和50年(1975)貨物営業が廃止された)

 戦後、東京電機大学(当時:電機学校)の学生に販売していたラジオ部品などを扱う店が総武線のガード下に集まったのが、今日の電気街の基となった。1960年代は高度成長にあわせて家電製品の販売店が多くなり、1980年代にはファミコンの普及に伴って、ゲームソフトを取り扱う店が増え始めた。平成元年(1989)、青果市場が大田区へ移転すると、その跡地には昨年(2006年)、秋葉原をIT産業の世界的拠点にするという秋葉原プロジェクトの下、秋葉原クロスフィールド(秋葉原UDXビル、秋葉原ダイビル、トウキョー・タイムズ・タワー)がグランドオープンした。

 平成17年(2005)には“つくばエクスプレス”秋葉原駅が開業し、旧貨物駅跡地にヨドバシカメラ秋葉原店が開業した。戦前、このあたりは地下には地下鉄(銀座線)が、大通りには路面電車が、そして高架線には国電が走っていて互いに立体交差し、未来都市の象徴だった。そして今、再び未来に向かって羽ばたいていこうとしている。


平成18年(2006)に交通博物館が閉館、さらにアキハバラデパートも閉店になった。時代の流れを感じる。

昭和24年(1949)GHQの露店撤廃令は秋葉原周辺の約50軒の電器商にとって死活問題となった。そこに苦学生の「ヤマチョー」こと山本長蔵がGHQ(連合国軍総司令部)との交渉を買って出て、ここに商売の拠点を勝ち取った。
(今の秋葉原の人たちは山本長蔵の功績を忘れてしまったようだ。功績を讃えるようなものは何もない)

平成17年9月3日に開業間もない“つくばエキスプレス”に乗って筑波に行ったんだよ。チビのお出かけ(21)を見てね!
 
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朝霞駅前にて(19・04・15)

 おまけの写真 (お手手が可愛いでチョ)。

 (チビの日記!!チビのお出かけ 105)
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by chibi-papa | 2007-04-14 23:35 | チビのお出かけ  

(104)19・04・08 東京ミッドタウン

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都内で一番高いミッドタウン

 六本木の防衛庁跡地(平成12年に市ヶ谷の自衛隊敷地内に移転)に複合ビル群「東京ミッドタウン」が先月30日、OPENした。ミッドタウンは6棟のビルから成り、店舗、オフィス、住宅、美術館、病院が入居する。中心となるミッドタウンタワーは地下5階、地上54階建てで高さ248mと都内で一番高い。

横浜ランドマークタワー:296m、70階、1993年(平成5年)完成
  サンシャイン60(池袋):240m、60階、1978年(昭和53年)完成
  六本木ヒルズ森タワー:238m、54階、2003年(平成15年)完成

 隣接する檜町公園(ひのきちょう こうえん)と一体的に整備されているので、緑地部分が多くゆったりとしている(区立公園を含めると開発区域は10ヘクタールで、その内4割が緑地)
 ここは長州藩毛利家の麻布下屋敷だった所。第13代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)が治世の1864年、第一次・長州征伐の際に幕府に接収された。時代は変わり明治4年(1871)、歩兵第一連隊駐屯地となるも、戦後アメリカ軍に接収された。接収解除で防衛庁へ移行した際に、その内の毛利屋敷の庭園「清水園」を昭和38年(1963)に檜町公園として開放された。それがいつの間にかミッドタウンに組み込まれ、和風庭園の樹木が伐採され芝生の広場になってしまった(去年の7月23日に整備工事を覗いたら公園が丸裸にされていたので心配していたんだ)

 昭和11年の二・二六事件では、ここ六本木の歩兵第一連隊からも事情を知らされずに参加させられた。駆り出された兵卒(へいそつ、兵士)は演習か何かだと思っていたようだ。しかし、事件後は過酷な運命が待っていた。この部隊は潰(つぶ)す部隊として捨て駒にされたのだ。こんな発想だから太平洋戦争に負けたのかもしれない。


二・二六事件については平成18年2月15日 チビのお出かけ 37 を見てね。

 (チビの日記!!チビのお出かけ 104)
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by chibi-papa | 2007-04-08 20:00 | チビのお出かけ  

玉川上水と玉川兄弟 (103)19・04・01

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多摩川(羽村取水口あたり)

 『 誇らしげ 羽村の堰の 桜かな 』 (チビ)

 第3代将軍・徳川家光の頃になると膨れあがる人口のため、井之頭池の湧水を水源とした神田上水(かんだ じょうすい)では足らなくなってきた。そこで、第4代将軍・徳川家綱の治世になった1652年に幕府は多摩川から江戸に上水を引く計画を立てた。そして玉川兄弟に幕府から6000両(7500両?)下賜(かし)され、1653年4月開削工事(かいさく こうじ)を開始、同年11月開削工事完了、そして翌1654年6月より江戸市中へ待望の通水が始まった。

 羽村(はむら)から四谷大木戸(よつや おおきど)までの43km、高低差92mを、鍬(クワ)や鶴嘴(ツルハシ)そして畚(モッコ)程度の道具だけで、世紀の大土木工事を僅か8ヶ月で完成させた。以後、淀橋浄水場が廃止(昭和40年)するまでの約310年間、この玉川上水(たまがわ じょうすい)が利用された。


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羽村取水口

 多摩川の流れは取水堰(しゅすいぜき)のあたりで蛇行し羽村の岸に直角にぶつかる所で取水され、武蔵野台地の稜線(りょうせん)を選んで江戸への水路とした。

試験的に通水してみたら、現在の福生市熊川あたりで水喰土(みずくらいど、水を食べてしまうような土)と呼ばれる砂利層に、水がみるみる地中に吸い込まれていってしまった。その時の落胆はいかばかりであったろうか。それでもすぐ気をとり直して、水喰土を避けて約1km掘り直した。
台地の稜線に水路を通したおかげで、野火止、千川、三田などの分水に好都合だった。千川上水は大蔵省印刷局王子工場に、三田用水はサッポロビール恵比寿工場(平成18年12月23日、チビのお出かけ 92 を見てね)で近年まで利用されていた。

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玉川上水羽村陣屋跡

 取水堰の向かいに上水道の取り締まり、水門や水路、堰堤(えんてい)の修理などの上水管理に関する業務のため、陣屋(じんや、役人の詰め所)が置かれていた。 

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玉川兄弟銅像

 羽村公園で立って堰(せき)を指さしているのが兄・庄右衛門(しょうえもん)、座って測量用の杖尺(じょうじゃく、じょうしゃく)を手にしているのが弟・清右衛門(せいえもん)
 測量は束(たば)にした線香を竹竿(たけざお)に括り付け(くくりつけ)たり、提灯(ちょうちん)の明かりを利用して夜間に行なわれたという。また高井戸村(現:杉並区高井戸)付近まで掘り進んだ所で幕府からの資金が不足してきた。そのため家産を投入してまでして工事を続行したという。

 完成後、その功績により兄弟は名字帯刀(みょうじ たいとう)を許され、玉川姓を名のる事を許された。また、200石の扶持(ふち)を賜り(たまわり)、玉川上水役に任ぜられた。明治政府は明治44年に明治政府は従五位を追贈(ついぞう)し、業績を讃(たた)えた。昭和61年には、東京都は水流を復活させて玉川兄弟を讃えた。


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小平監視所付近

 西武拝島線及び多摩都市モノレール・玉川上水駅の近くに都水道局の監視所がある。羽村で取水した多摩川の水はこの監視所で水質監視をおこなった後、東村山浄水場へ埋設管で送水されている。
 一方、昭島市にある多摩川上流水再生センター(下水処理場)で再生された水を埋設管でここまで運び、小平監視所に隣接したポンプ場で、野火止用水用と、玉川上水用に分けて流している。
 このように現在は羽村からここまでは文字どおりの上水が、ここから下流は下水の再生水を流しているわけだが、これによって空堀(からぼり)状態になっていた玉川上水に水流が復活し、玉川兄弟の偉業を今でも顕彰することができる。
 再生水の噴出部は滝のようになっていて、ほんの少し臭った。鴨はそんなことを気にせずのんびり泳いでいた。


小平監視所では除塵機(じょじんき)でゴミを取り除いていた。大切な水資源、汚さないようにしようね!チビからのお願いです!!

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四谷大木戸跡

 新宿区四谷区民センターの脇に水道碑記と並んで四谷大木戸跡の石碑がある。また玉川上水掘割跡もある。四谷水番所で水量を調節していた。ここから先は木樋や石樋による地下水道(ちかすいどう、江戸東京博物館にその模型が展示されている)だった。

水道碑記(すいどうノいしぶみノき) : 高さ4、6メートルの石碑。玉川上水建設の理由や工事を請け負った玉川兄弟の功績を讃えた内容が記されている。石碑の上部の篆字(てんじ)は徳川宗家16代当主の徳川家達(いえさと)

四谷大木戸の水番屋(みずばんや) : ここで水量調節し、台風などで水が増えた時は現在の新宿御苑の玉藻池(たまもいけ)に余水を流していた。玉藻池を源流とする渋谷川は神宮前5、6丁目の辺りがかつて隠田村であったことから、宇田川と合流するまでの流れを隠田川(おんでんがわ)とも呼んでいた。流れはやがて芝大門(金杉橋)あたりで江戸湾(東京湾)に注いでいる。
水番屋は羽村、代田村(杉並区)にもあったが、四谷大木戸の水番屋は構内の面積は630坪(2,082㎡)余りあり、芥留(あくたどめ)、流れてきたゴミを止める)、吐水門(はきみずもん、満水時に玉藻池に水を排水する)、水門(すいもん、ここから暗渠へ入る)があった。水門では水量を測定する歩板(あゆみいた)が設けられこの板と水面までの間隔から水量の増減を調べた。

余水は玉藻池の手前600mの「母と子の森」エリアの池にも流していた。上ノ池、中ノ池、下ノ池を通って千駄ヶ谷駅の東の外苑橋交差点付近で玉藻池からの流れと合流していた。

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玉川兄弟の墓(台東区・聖徳寺)

 寺の門前に 『水の恩人・玉川兄弟顕彰碑』 があり、そこには「水を大切にしましょう」の添え書きがある。墓所の正面奥には 『不朽之功績』 (ふきゅうのこうせき)と刻まれた石碑があって、その左奥に兄・庄右衛門(?~元禄8年、1695年)、その手前に翌年亡くなった弟・清右衛門(?~元禄9年、1696年)の墓碑が並んでいる。

 手作業で正確に43kmをたった8ヶ月間でやり遂げた玉川兄弟を、改めて賞賛する次第です。


『水源を 使命に燃えて切り開く 兄弟技に 万朶(ばんだ)微笑む』 (チビ)

 明治維新後の玉川上水の歩み
・明治19年(1886年)
 コレラが大流行し東京では1万人が死亡。原因
 は多摩川の上流でコレラ患者の汚物を流した
 ためとみられた。
・明治26年(1893年)
 東京市街の水源確保(飲料水汚染防止)のため、
 三多摩地区(北多摩郡、西多摩郡、南多摩郡)を神奈川県から東京府に編入する。
・明治29年(1896年)
 杉並区・和泉給水所から淀橋浄水場までの
 新水路が完成する。
・明治31年(1898年)
 新宿区西新宿に淀橋浄水場が完成し通水する。
・明治32年(1899年)
 東京市全域に給水を開始する。
・大正12年(1923年)
 関東大震災により新水路の一部が破損する。
・昭和12年(1937年)
 甲州街道の下に導水管を新設し、新水路を廃止
 する。新水路の跡地を埋めて道路とする(水道に
 因んで水道道路と名づける)。
・昭和38年(1963年)
 小平監視所が完成する。
・昭和40年(1965年)
 淀橋浄水場を廃止し、機能は東村山浄水場へ
 移転する。浄水場の跡地は新宿副都心となるり、
 玉川上水は上水としての使命を終える。
・昭和46年(1971年)
 大蔵省印刷局王子工場が千川上水からの取水
 を停止したことにより、
 小平監視所以東は完全に空堀の状態となる。
・昭和61年(1986年)
 都の清流復活事業により、小平監視所以東に
 下水処理水を使用して水流を復活させた。
・平成15年(2003年)
 開削350年を記念して玉川上水を文化財保護法
 に基づく国の史跡に指定した。
・平成17年(2005年)
 都水道局内に「玉川上水保存管理計画策定に関
 する委員会」を設置する。

 (チビの日記!!チビのお出かけ 103)
・・・今年のキーワードは「ロハスとグレイトコラボレーション」・・・
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by chibi-papa | 2007-04-01 20:37 | チビのお出かけ