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(87) 18・11・26 高尾山 4号路、3号路

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登り4号路・吊り橋

 山の北側の4号路と南側の3号路とでは木々はどう違うのだろうか?
 9月23日のチビのお出かけ 75の時は途中までケーブルカーに乗ったから、今日はリフトに乗った。3号路と4号路の分岐点の浄心門を右に進む。寒い地域に多いイヌブナの林を通り、吊り橋を渡る。
 吊り橋では渡る人の音が気になるのか早く渡りたいのか、こっちを向いてくれない。チビはなで肩なので提げられないので背負(しょ)っているのはポシェット。中には「おやつ」が入っている。山頂までもう少し。


この前は4号路にはオオスズメバチの巣があって通行止めだったけど、寒くなってきたので越冬できず死に絶えようとしているのだろうか(越冬できるのは新女王蜂だけ)。襲われる心配がない。

イヌブナ : ブナの仲間だけど、ブナより低い山に分布する。イヌブナの根っこは細かく枝分かれして土の中を走っているので、そのまわりの1㎡の土の中にはミミズが数匹、ダニやトビムシが数万匹、線虫が数十万匹も棲(す)んでいて、落ち葉を土に戻し、木に栄養分を与えている。

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山頂の紅葉

 山頂の大見晴らしは工事中だった。山頂の茶屋の猫好きのおばさんと再会できた。ゆっくりしていられない。昼から雨の予報。雨が降る前に下山するつもりだったので雨具を持ってこなかった。
 チビ!すぐに下山するよ!


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降り3号路・猪に警戒

 (しい)の木、樫(かし)の木、高さ50m近くもなる樅(もみ)の木などの木々に囲まれた3号路。案内板の上から、ボクの鋭いレーザー光線で安全を確認。森の暴れん坊「いのしし」の気配な~し。
 4号路は冷温帯で落葉樹が多かったが、3号路は平地と同じ暖温帯で常緑樹が多い森だった。山の北側と南側ではこうも違うものかと驚いた。
 小雨がパラパラ。ケーブルカーには長い行列ができていたので、リフトの方にまわる。下りのリフトは空中散歩というもののちょっと怖かった。


ところでチビの背負っているポシェットのマーク、分かりますか?そう、ベティちゃん(ベティ・ブープ、Betty Boop、パラマウント映画のアニメ)の絵柄のポシェットなんです。

 (チビの日記!!チビのお出かけ 87)
・・・ロハス的な生活を心がけていきたい・・・
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by chibi-papa | 2006-11-26 19:50 | チビのお出かけ  

♪ 23 小狐(こぎつね) 18・11・23

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イチョウの黄葉とモミジの紅葉

 日野市にある関東三大不動の一つ高幡不動の山にも狐がいるのかな?草の実、モミジ、柘の木、枯葉をうまく利用してさすが賢いね。だけど狐さん黄色くなったイチョウの葉っぱを小判にして人を騙(だま)してはいけませんよ!

♪ 小ぎつね
〔勝 承夫(かつ よしお)作詞、ドイツ曲、文部省唱歌 昭和22年〕
一、
小狐コンコン 山の中 山の中
草の実 潰して お化粧したり
モミジの簪(かんざし) 柘の櫛(つげのくし)

二、
小狐コンコン 冬の山 冬の山
枯葉の着物じゃ 縫うにも縫えず
綺麗な模様の 花もなし

三、
小狐コンコン 穴の中 穴の中
大きな尻尾(しっぽ)は 邪魔にはなるし
小首(こくび)を傾(かし)げて 考える


 「コぎつね コンコン」と韻を踏んでいる。

関東三大不動 : 成田不動と高幡不動は決まりだけど、残り一つについては伊勢原市の大山不動、飯能市の高山不動、加須市の不動ヶ岡不動の説がある。

イチョウの黄色い色素はカロチノイド。モミジの赤い色素はアントシアン。冬が近づくとクロロフィル(緑の色素)が壊れてこれらの色素が出てくる。

イチョウは公孫樹とも書く。公は祖父、父、長老、年長者などに対する敬称で、植樹してから孫の代になってようやく種(銀杏、ぎんなん)が実るので公孫樹という。植樹したのは孫から見ると祖父だから、公孫樹の公は祖父を指す。

昭和46年(1971)のニクソン・ショック : 第二次世界大戦後のブレトン・ウッズ体制で決まったドルとゴールドとの交換が停止された。この宣言により、世界基軸通貨のドルはゴールドで担保されないこととなり、ドル紙幣の本質はイチョウの葉っぱと何らかわらないものになってしまった。ただし皆が信用して(騙されて)いるうちは大丈夫。


 小学校の国語教科書に載っている 『ごんぎつね』 のあらすじは・・・

 権現山の孤児(みなしご)・小狐ゴンは村へ出て来ては悪戯ばかりして村人を困らせていた。そんなある日、ゴンは兵十
(ひょうじゅう)が川(阿久比川の支流の矢勝川)で魚を捕っているのを見つけ、兵十が捕った鰻を逃がしてしまった。それから十日ほど後、兵十の母親の葬列を見たゴンは、あの時、逃がした鰻は兵十が病気の母親のためだったと知り、後悔する。
 母を失った兵十に同情したゴンは、鰻を逃がした償いとして盗んだ鰯を兵十の家に投げ込んだ。翌日、鰯売りに鰯泥棒と間違われて兵十が殴られていた事を知り、ゴンは反省する。それからは栗や松茸を山から採って来てはそっと届けた。
 ある日、忍び込んだ気配に気付いた兵十は、またゴンが悪戯に来たのだと思い、ゴンを撃ってしまう。兵十がゴンに駆け寄ると土間に栗が置いてあった。栗や松茸がゴンの侘びだったことに気付く。「ゴン、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。」と問いかけると、兵十にゴンは眼を閉じたまま頷く
(うなずく)のであった。兵十の手から火縄銃が落ちた。

 この物語の舞台は知多半島は愛知県半田市、新美南吉(にいみ なんきち 童話作家 1913~1943 享年29)の出生地である。口伝を基に創作されたこの物語は17歳(昭和5年)の時に執筆された。4歳で母を亡くした南吉には、孤独で悪戯好きな狐の話に深く影響を受けたようだ。
 死の直後に刊行された童話集に収載された 『手袋を買いに』 がある。それは、「お手々が冷たい。お手々がチンチンする」という子狐。母狐は子狐の片方の手を握って人間の子供の手に変え、白銅貨2枚を持たせ人間の町に送り出す。一人で帽子屋を見つけて手袋を買い、母狐の元に戻るまでのお話である。青空文庫より一部を改変して転載する。


『手袋を買いに』 新美南吉

 寒い冬が北方から、狐の親子の棲んでいる森へもやって来ました。
 ある朝、洞穴から子供の狐が出ようとしましたが、「アッ!」と叫んで眼を抑えながら母さん狐のところへ転げて来ました。
「母ちゃん、眼に何か刺さった、抜いて頂戴 早く早く」と言いました。
 母さん狐がびっくりして、慌てふためきながら、眼を抑えている子供の手を恐る恐るとりのけて見ましたが、何も刺さってはいませんでした。母さん狐は洞穴の入口から外へ出て始めて訳が分かりました。昨夜の内に、真白な雪がドッサリ降ったのです。その雪の上からお陽さまがキラキラと照していたので、雪は眩しいほど反射していたのです。雪を知らなかった子供の狐は、あまり強い反射をうけたので、眼に何か刺さったと思ったのでした。
 子供の狐は遊びに行きました。真綿のように柔かい雪の上を駈け廻ると、雪の粉が、飛沫のように飛び散って小さい虹がスッと映るのでした。
 すると突然、後ろで、「ドタドタ、ザーッ」と物凄い音がして、パン粉のような粉雪が、フワーっと子狐におっかぶさって来ました。子狐はびっくりして、雪の中にころがるようにして十メートルも向こうへ逃げました。何だろうと思って振り返って見ましたが何もいませんでした。それは樅(もみ)の枝から雪が雪崩落ちたのでした。まだ枝と枝の間から白い絹糸のように雪がこぼれていました。
 間もなく洞穴へ帰って来た子狐は、「お母ちゃん、お手々が冷たい、お手々がチンチンする」と言って、濡れて牡丹色になった両手を母さん狐の前にさし出しました。母さん狐は、その手に、ハーッと息をふっかけて、温い母さんの手でやんわり包んでやりながら、「もうすぐ暖くなるよ、雪を触ると、すぐ暖くなるもんだよ」といいましたが、可愛い坊やの手に霜焼けができては可哀想だから、夜になったら、町まで行って、坊やのお手々にあうような毛糸の手袋を買ってやろうと思いました。
 暗い暗い夜が風呂敷のような影を広げて野原や森を包みにやって来ましたが、雪はあまり白いので、包んでも包んでも白く浮び上がっていました。
 親子の銀狐は洞穴から出ました。子供の方はお母さんのお腹の下へ入り込んで、そこからマンマルな眼をパチパチさせながら、あっちやこっちを見ながら歩いて行きました。
 やがて、行手にポッツリ灯りが一つ見え始めました。それを子供の狐が見つけて、「母ちゃん、お星さまは、あんな低いところにも落ちてるのねえ」と聞きました。
「あれはお星さまじゃないのよ」と言って、その時 母さん狐の足は竦んで(すくんで)しまいました。
「あれは町の灯なんだよ」
 その町の灯を見た時、母さん狐は、ある時 町へお友達と出かけて行って、とんだめにあったことを思出しました。およしなさいって言うのも聞かないで、お友達の狐が、ある家の家鴨を盗もうとしたので、お百姓に見つかって、さんざ追いまくられて、命からがら逃げたことでした。
「母ちゃん何してんの、早く行こうよ」と子供の狐がお腹の下から言うのでしたが、母さん狐はどうしても足が進まないのでした。そこで、しかたがないので、坊やだけを一人で町まで行かせることになりました。
「坊やお手々を片方お出し」とお母さん狐がいいました。その手を、母さん狐はしばらく握っている間に、可愛いい人間の子供の手にしてしまいました。坊やの狐はその手を広げたり握ったり、抓って見たり、嗅いで見たりしました。
「何だか変だな母ちゃん、これなあに?」と言って、雪灯りに。またその人間の手に変えられてしまった自分の手をシゲシゲと見つめました。
「それは人間の手よ。いいかい坊や、町へ行ったらね、たくさん人間の家があるからね、まず表に円いシャッポの看板のかかっている家を探すんだよ。それが見つかったらね、トントンと戸を叩いて、今晩は!って言うんだよ。そうするとね、中から人間が、少し戸を開けるからね、その戸の隙間から、こっちの手、ほらこの人間の手をさし入れてね、この手に丁度いい手袋頂戴って言うんだよ、わかったね、決して、こっちのお手々を出しちゃ駄目よ」と母さん狐は言いきかせました。
「どうして?」と坊やの狐は聞きかえしました。
「人間はね、相手が狐だと分かると、手袋を売ってくれないんだよ、それどころか、掴まえて檻の中へ入れちゃうんだよ、人間って本当に恐いものなんだよ」
「フーン」
「決して、こっちの手を出しちゃいけないよ、こっちの方、ほら人間の手の方をさし出すんだよ」と言って、母さんの狐は、持って来た二つの白銅貨を、人間の手の方へ握らせてやりました。
 子供の狐は、町の灯を目当てに、雪灯りの野原をヨチヨチやって行きました。始めのうちは一つきりだった灯が二つになり三つになり、はては十にも増えました。狐の子供はそれを見て、灯には、星と同じように、赤いのや黄いのや青いのがあるんだなと思いました。やがて町に入りましたが通りの家々はもうみんな戸を閉めてしまって、高い窓から暖かそうな光が、道の雪の上に落ちているばかりでした。
 けれど表の看板の上には大てい小さな電燈がともっていましたので、狐の子は、それを見ながら、帽子屋を探して行きました。自転車の看板や、眼鏡の看板やその他いろんな看板が、あるものは、新しいペンキで画かれ、あるものは、古い壁のように禿げていましたが、町に始めて出て来た子狐にはそれらのものがいったい何であるか分らないのでした。
 とうとう帽子屋が見つかりました。お母さんが道々よく教えてくれた、黒い大きなシルクハットの帽子の看板が、青い電燈に照されてかかっていました。
 子狐は教えられた通り、トントンと戸を叩きました。
「今晩は!」
 すると、中では何かコトコト音がしていましたがやがて、戸が一寸ほどゴロリと開いて、光の帯が道の白い雪の上に長く伸びました。
 子狐はその光が眩かったので、めんくらって、間違った方の手を、――お母さまが出しちゃいけないと言ってよく聞かせた方の手を隙間から差し込んでしまいました。
「このお手々にちょうどいい手袋下さい」
 すると帽子屋さんは、オヤオヤと思いました。狐の手です。狐の手が手袋をくれと言うのです。これはきっと木ノ葉で買いに来たんだなと思いました。そこで、
「先にお金を下さい」と言いました。子狐は素直に、握って来た白銅貨を二つ帽子屋さんに渡しました。帽子屋さんはそれを人差指の先に乗っけて、カチ合せて見ると、チンチンとよい音がしましたので、これは木ノ葉じゃない、本当のおカネだと思いましたので、棚から子供用の毛糸の手袋を取り出して来て子狐の手に持たせてやりました。子狐は、お礼を言ってまた、もと来た道を帰り始めました。
「お母さんは、人間は恐ろしいものだっておっしゃったがちっとも恐ろしくないや。だって僕の手を見てもどうもしなかったもの」と思いました。けれど子狐はいったい人間なんてどんなものか見たいと思いました。
 ある窓の下を通りかかると、人間の声がしていました。何という優しい、何という美しい、何と言うおっとりした声なんでしょう。
「眠れ 眠れ 母の胸に、眠れ 眠れ 母の手に 」
 子狐はその唄声は、きっと人間のお母さんの声に違いないと思いました。だって、子狐が眠る時にも、やっぱり母さん狐は、あんな優しい声でゆすぶってくれるからです。
 すると今度は、子供の声がしました。
「母ちゃん、こんな寒い夜は、森の子狐は寒い寒いって啼いてるでしょうね」
 すると母さんの声が、「森の子狐もお母さん狐のお唄をきいて、洞穴の中で眠ろうとしているでしょうね。さあ坊やも早くねんねしなさい。森の子狐と坊やとどっちが早くねんねするか、きっと坊やの方が早くねんねしますよ」
 それを聞くと子狐は急にお母さんが恋しくなって、お母さん狐の待っている方へ跳んで行きました。
 お母さん狐は、心配しながら、坊やの狐の帰って来るのを、今か今かと震えながら待っていましたので、坊やが来ると、暖い胸に抱きしめて泣きたいほど喜びました。
 二匹の狐は森の方へ帰って行きました。月が出たので、狐の毛並みが銀色に光り、その足あとには、コバルトの影がたまりました。
「母ちゃん、人間ってちっとも恐かないや」
「どうして?」
「ぼく、間違えて本当のお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、掴まえやしなかったもの。ちゃんとこんないい暖い手袋くれたもの」と言って手袋のはまった両手をパンパンやって見せました。
お母さん狐は、「まあ!」とあきれましたが、「本当に人間はいいものかしら。本当に人間は良いものかしら」と呟きました。

時代の変化に対応した商売についてのお話 『おじいさんのランプ』 も秀逸である。

(チビの日記!!チビの愛唱歌 23)
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by chibi-papa | 2006-11-23 17:04 | チビの愛唱歌  

円覚寺と閻魔様 (86)18・11・12

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円覚寺・山門

 今月3日(文化の日)に建長寺・山門で文部省唱歌の「♪ 鎌倉」の八番を歌ったんだけれど、歌詞には円覚寺(えんがくじ)山門のことも出てくるから、ここでも歌うニャ~。
(八)
建長円覚 古寺(ふるでら)
山門高き 松風に
昔の音や 籠(こ)もるらん


 山門をくぐると稟(りん)としてあたりに爽やかさが漂い、風の音が古(いにしえ、鎌倉時代)へと誘(いざな)う。杉木立の重い深緑の奥からヒタ、ヒタ、ヒタ・・・と、もしや、あれは北条時宗様の足音か・・・ 

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円覚寺・杉木立

 チ ビ; あの~。時宗様でしょうか?
 
 時 宗; 唄が聞こえたが、そのほうであったか。何じゃ。

 チ ビ; チビと申します。あの~。この円覚寺は時宗様が創建されたんですよね。

 時 宗; そうじゃ。「文永の役」(ぶんえいのえき、1274年)の戦没者の菩提を弔うためと、拙者の精神的支柱である禅道を極めるため1278年に寺の建立を発願したのじゃ(寺の完成は1282年)。その後の「弘安の役」(こうあんのえき、1281年)での戦没者も慰霊しておる。

 チ ビ; 今月3日にお父上様(北条時頼、ほうじょう ときより)が創建された建長寺に行ったんですよ。ところで、時宗様の人物評は国難から救った英雄という見方と、冷酷無残という見方に分かれていますが・・・

 時 宗; なんと!拙者の生涯は文字どうり元寇(蒙古襲来)との戦いであった。NHK大河ドラマでも拙者を評価していたではないか。

 チ ビ; ドラマは真実とは別物ですから。だってドラマでは兄上の北条時輔(ほうじょう ときすけ)様は大陸に渡りフビライ(モンゴル帝国・第5代皇帝)に仕えたと描かれていますよ。

 時 宗; それはケッタイなことよ。創作と雖も(いえども)甚だしい限りじゃ。ところで、拙者のどこが冷酷無残だというのじゃ!

 チ ビ; いくら腹違いとは言え兄上様を殺害したことです。それにモンゴル帝国からの使者を処刑したからだと言われていますよ。その点、どうなんでしょうか。

 時 宗; 兄・時輔(六波羅探題南方として京都に出向)は拙者が執権になったことに不満を持って朝廷に接近した。これは六波羅探題という役職としてあってはならぬこと。故に六波羅探題北方に命じて討たせたまでじゃ。

 チ ビ; 血なまぐさい中世においては対立が殺し合いに発展するのは一般的だったんですかね~。

 時 宗; それにフビライからの使者をむやみやたらに処刑したのではない。1274年の「文永の役」の後にやって来た使者はそれまでとは異なり、正式な外交ルートの大宰府(だざいふ)を無視して、長門の室津(むろつ、山口県豊浦町)に上陸した。それは開戦期間中のスパイ行為とみなして当然に処刑したまでじゃ。

 チ ビ; でも、国際情勢に対して幕府は無知だったのではないでしょうか?

 時 宗; そんなことはない。モンゴル帝国・元(げん)の強大さの情報は得ていた。元の軍隊がやって来ると聞いただけで戦意を失い戦わずして降伏する国が多いとの情報も得ておった。鎌倉武士は戦闘集団である以上、戦わずに降伏するわけがない。
 決して国際情勢に疎(うと)かったわけではない。一度目の元寇(文永の役)の後、逆に我が方から攻勢をしかけて高麗(こうらい)に出兵することも考えたぐらいじゃ。
 しかしそれをやめて、二度目の元寇に備えることに専念したのじゃ。
① 異国警固番役(いこくけいごばんやく)を設置
② 博多湾岸に石の防塁を構築
③ 九州の守護に北条一族を任命
これらの対策により、二度目の元寇(弘安の役)では元軍は博多に上陸できず、反対に我が軍の夜襲に怯えたのじゃ。鎌倉武士は勇猛果敢なのじゃ!もっともその7年前の「文永の役」では元軍の集団戦法や火薬という新兵器に苦戦を強いられたが。
 さらに三度目の元寇に備えて国防強化に着手したものの、その3年後(1284年)に病に臥してしまい・・・

 チ ビ; 三度目の元寇まで心配された時宗様の心労が良くわかります。

 時 宗; 某方(そち)に申し伝えたいことがある。それは後世の人々は二度の元寇とも台風で元軍が壊滅したといっているようであるが、それは違う。鎌倉武士の名誉にかけて申す。幕府の戦略と鎌倉武士の戦術が一体となって史上最強の元軍に立ち向かったところに神風が吹いたのじゃ!

 チ ビ; お父上様(北条時頼)の後、6代(北条長時)、7代(北条政村)と得宗家以外からの執権が続きましたが、1268年の正月にモンゴル帝国の国書を持って高麗の使者が大宰府に来訪、そしてその国書(服属を求める内容)が鎌倉に送られるやいなや若干16歳の時宗様が得宗家として8代執権に登場したことの重大な意味がわかりました。

 時 宗; それから拙者は決して文武両道の英雄ではない。強いて言えば、拙者が10歳の時、馬場に出て的を射抜いたことで拍手喝采を受けたぐらいじゃ。それを『吾妻鏡』 は大袈裟に書きおって。

 チ ビ; おかげさまで時宗様の素顔を知ることができました。そして国難を救っていただき本当にありがとうございました。

 ・・・8代執権・北条時宗の生涯は元寇との戦いであった。享年32。死の直前に出家し、元寇で戦死した鎌倉武士および元軍兵士と共にここ円覚寺に眠る・・・

      ♪ 建長円覚古寺の
       山門高き松風に
       昔の音や籠(こ)もるらん


                     籠 も る ら ん ・ ・ ・

 得宗(とくそう) : 執権北条氏嫡流の家督(跡継ぎ)のこと。5代執権・北条時頼が病に倒れた時、子の時宗(ときむね)はまだ6歳と幼少だったので、長時、政村が代行として執権となった。しかし国難に当たって得宗家としての時宗に執権を戻し、すぐに臨戦体制を敷いた。

 北条時頼の長男・時輔は庶子だったため次男・時宗、三男・宗政より格下だった。その時輔に朝廷を監視する六波羅探題南方の任務に就かせたのに、こともあろうか弟・時宗に対する不満から朝廷に近づくという行動に出た。 

 六波羅探題(ろくはらたんだい) : 承久の乱(じょうきゅうのらん)後、京都の政情を監察し治安を維持するために設置した政務・軍事を統轄する執政官で、京都六波羅の北と南に設置した。

 博多湾岸に築いた防塁(ぼうるい)は高さ2m、幅3m、長さ20km。三度目の元寇を警戒して1293年 北九州に鎮西探題(ちんぜい たんだい)を設けたり、「弘安の役」の後も50年間(1332年まで)防塁の補修工事をおこない続けた。
現在、防塁は一部しか残っていない。安土桃山時代になって、名島城(なじまじょう)を大改修する際に石垣として利用されたため。その名島城も城跡には石垣が残っていない。それは福岡城の築城の際に使われたため。

 異国に空しく散った5名の使者を偲び祈念するため、片瀬江ノ島の常立寺(じょうりゅうじ)に元使塚が建てられ、小さめの五輪塔が5基並べられている。

 元(げん) : 中国史においてモンゴル人が築いた王朝(1271~1368年)を元または元朝(げんちょう)という。

 官軍だけ祀った靖国神社とは違い、円覚寺は蒙古襲来による殉死者を敵味方の区別なく弔っている。

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円応寺・閻魔大王

  チ ビ; 薄暗いお堂だね。アッ!閻魔大王(えんま だいおう)だぁ~!!ボ、ク、何も・・悪いこと・して・・いま・セン!・・・本当で~す。

 閻魔大王; 正直に申せ!

 チ ビ; 実はこのあいだ、パパのズボンから煮干を引っ張り出して全部食べてしまいました。ダイエット中でお腹が空いていたんです。パパ、ご免なさ~い。

 パ パ; ズボンを脱ぎ放しにして出かけてしまったのがいけなかったんです。閻魔様、飼い主の私に落ち度があったのです。

 閻魔大王; ところでその方、雄なのになぜドレスに真珠のネックレスをしておる?

 チ ビ; 先ほど、男子禁制(きんぜい)の東慶寺の受付を女装して通り抜けました。

 閻魔大王; では、隣りにいる変成王の前に進み出でよ。


 円応寺(えんのうじ)は建長寺の近くにあり、鎌倉街道から石段を登る。鎌倉市山ノ内1543

閻魔大王 : 仏師・運慶の作。運慶が頓死状態になって閻魔大王の前に引き出されたが、閻魔様の 「汝は生前、物惜しみするという欲深い罪により、地獄に落ちるべきであるが、もし汝がわしの姿を彫像し、その像を見た人々が悪行を成さず、善縁のきっかけになるのであれば、汝を娑婆に戻してやろう」 と言われ、現世に生き返された運慶が彫刻したと言われている。

 東慶寺(とうけいじ)は明治に至るまで男子禁制の尼寺だった。東慶寺については、平成17年3月27日(チビのお出かけ12)を見てね。

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円応寺・変成王
 
 変成王; 東慶寺の受付に問い合わせたら、承知のうえで通したとのこと。煮干の件も含めてその方に咎(とが)なし。その煮干は無塩のだったからまだ良かったものの、飼い主は愛猫の健康管理に充分注意をはらうように。以上。娑婆に戻ってよ~し!

 折にふれて閻魔大王の前で懺悔していれば、死後の世界で地獄に落ちることはないのでは・・・


 (懺悔文)  我昔所造諸悪業
         ガシャクショゾウ ショアクゴウ
         我れ昔、造る所の諸(もろもろ)の悪業は、
         
         皆由無始貧瞋痴
         カイユウ ムシ トンジンチ
         みな(皆)果てしない貧瞋痴に由(よ)る。

         従身口意之所生
         ジュウ シンクイ シショショ
         身口意に従(よ)って生ずる所のもの、

         一切我今皆懺悔
         イッサイ ガコン カイ ザンゲ
         すべて(一切)我れ今みな(皆)懺悔し奉る。

   チビの懺悔文(ざんげもん)

    ボクは知らず知らずのうちに悪業をおこなっているかも、
    それはボクに貧瞋痴の三毒があるからに違いない。
    身口意によって生ずる全てを閻魔大王の前にて懺悔し
    飼い主のもと有意義な猫の一生を送ってまいります。


閻魔様 悪業消して 下さいね (チビ)
 
 変成王(へんじょうおう) : 変成王の取り調べの結果で、地獄界に落とされるかどうかが決まる。

 貧瞋痴(とん じん ち) : 仏教でいう三毒(さんどく)のこと。貧(とん)は貪欲ともいい、果てしなく貪(むさぼ)り求める心。瞋(しん)は瞋恚(しんに)ともいい、怒りの心。痴(ち)は愚痴ともいい、真理にたいする無知を指す。

 身口意(しん く い) : 仏教でいう三業(さんごう)のこと。人間の行為の全てを、身体の働きである身、言語活動である口、精神作用である意に分類したもの。

 (チビの日記!!チビのお出かけ 86)
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by chibi-papa | 2006-11-12 19:58 | チビのお出かけ  

(85)18・11・04 湯島天神菊まつり

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見事な懸崖

 1日から23日まで菊まつりがおこなわれている。本殿前には断面が蒲鉾型(かまぼこがた)になって一斉に開花した大懸崖が素晴らしい!

懸崖(けんがい) ; 磯菊が断崖の上から垂れ下がっている様(さま)を思わせる。長さが180センチ以上のものを大懸崖という。

磯菊(いそぎく) : 千葉から静岡にかけて海浜に自生している。小頭花を多数つける。

日本の国花は菊と山桜。東京の県花は染井吉野(桜)、埼玉県は桜草、千葉県は菜の花、神奈川県は山百合。

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菊人形

 ボクはレッサーパンダの風太君ではありませ~ん。おしゃれキャット「マリー」ちゃんを着ているニャンコのチビで~す。うしろにいるのは山内一豊とその妻・千代で~す。今年の菊人形はNHKの大河ドラマ「功名が辻」がテーマなんで~す。

風太(ふうた)君 : 去年の春、千葉市動物公園で直立するレッサーパンダが注目を集めた。これに対して旭山動物園では「動物園は動物の自然な姿と命を伝えることにあるので、このような取り上げ方は芸であり見世物だ。」と不快感を表明。

山内一豊(やまうち かつとよ) : 山内を「やまのうち」、一豊を「かずとよ」とも読む。初代土佐藩主。

千代 : 一豊に内助の功を尽くした賢妻(けんさい)といわれ、嫁入りの持参金で名馬を買い夫を盛り立てたとの逸話がある。

功名が辻 : 司馬遼太郎の歴史小説を原作とした、今年のMHK大河ドラマ(脚本:大石静)。いよいよ明日5日は天下分け目の火蓋(ひぶた)が切られる「関が原」のシーンだ!一豊は毛利勢の押さえとして南宮山(なんぐうさん)の麓に配される。さあどうなることやら・・・

 (チビの日記!!チビのお出かけ 85)
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by chibi-papa | 2006-11-04 22:37 | チビのお出かけ  

建長寺(84)18・11・03

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建長寺・三門

 建長寺(けんちょうじ)は鎌倉幕府執権・北条時頼によって建長5年(1253)に創建された。三門(山門)は2階建てになっていて、階下には仁王象を置かず、門扉(もんぴ)も壁もない吹き放しになっている。2階部分には五百羅漢(ごひゃくらかん、500の最高修行者像)などが安置されていて、その下を通ると心が清浄になるという。「本当だニャ~!」

 境内奥の山の中腹にある半僧坊(はんそうぼう)に、さらに勝上献(しょうじょうけん)展望台まで足をのばす。ここから尾根伝いに天園ハイキングコースになっていて、去年4月に完走したんだ。平成17年4月24日 チビのお出かけ14 を見てね!


執権(しっけん) : 鎌倉幕府の政所(まんどころ)の長官で、将軍を補佐し政務を統轄した最高の職。第3代将軍・源実朝(さねとも)の時に源頼朝(よりとも)の妻の北条政子(まさこ)の父・北条時政(ときまさ)が執権に任ぜられ以後、北条氏が世襲する。

北条時頼(ときより) : 第5代執権。南宋の禅僧・大覚禅師を鎌倉に招いて建長寺を建立した。

♪ 鎌倉 [作詞] 芳賀矢一 [作曲] 不詳 (文部省唱歌)
(八)
建長円覚古寺(ふるでら)
山門高き松風に
昔の音や篭(こ)もるらん

 そうだ!次回は円覚寺(えんがくじ)を訪れてこの歌を歌おう。
 余談だけど、だんだん寒くなってくると「けんちん汁」が美味しいですよね。建長寺で崩れてしまった豆腐を野菜と煮込んで作った汁、これが建長寺汁→建長汁→けんちん汁、になったとか、そうではないとか・・・門前には「けんちん蕎麦」のお店が。
 

 (チビの日記!!チビのお出かけ 85)
・・・ロハス的な生活を心がけていきたい・・・
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by chibi-papa | 2006-11-03 22:59 | チビのお出かけ