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谷保天満宮(53)18・05・27

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谷保天満宮・本殿 お尻が濡れるので中腰

 谷保天満宮の谷保はヤボと読む(谷保駅の谷保はヤホと読み濁らない)。この辺りの地形は立川段丘面(甲州街道)、青柳段丘面(谷保天満宮)、多摩川沖積面(古の甲州街道)と段段になっている。
 鳥居(甲州街道に面している)から下がった所に本殿があるのは珍しい。これは甲州への古道がもっと多摩川寄りにあったためで、そこで立川段丘面に天満宮を建替えようという計画がある。


1601年頃(徳川家康の時代)、街道が整備され甲州街道は今の位置になった。

 千年以上の歴史を持つ東日本最古の天満宮。903年(平安時代)に父・菅原道真(スガワラのミチザネ)が配流先で死去したことを知り、三男・道武(ミチタケ)がここ武蔵の国で父の座像を刻んだのが始まり。

一家離散 : 菅原道真の妻と年長の女子は京に残され、幼い男子と女子の2人は一緒に筑紫・太宰府へ。その他は逆臣の子として長男は土佐に、次男は駿河に、三男・道武は武蔵へとバラバラにされた。三男・道武は父・道真と共にここ谷保天満宮に奉られている。

♪ 菅 公 (かんこう)大正2年 尋常小学唱歌
[作詞]不詳 [作曲]岡野貞一
一、
日陰遮(さえぎ)る 叢雲(むらくも)
干す由(よし)も無き 濡れ衣を
身には著(き)つれど 真心の
現れずして 止(や)まめやと
神の守りを 憑(たの)みつつ
配所に行きし 君哀れ

二、
後を契りし 梅が枝に
東風(こち)吹く春は 帰れども
菊の節会(せちえ)の 後朝(こうちょう、その翌朝)
(えん)に侍(はべ)りし 秋は来ず
御衣(ぎょい)を日毎(ひごと)に 拝しつつ
配所に果てし 君哀れ


東風吹かば 匂い寄越せよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな 』 (道真)・・・都に残した紅梅殿の梅よ、自分が居なくても春が来たら忘れずに咲きなさいよ、そしてその香りを東風に乗せて大宰府まで届けておくれ・・・

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座牛 お尻が濡れるので中腰 

 天満宮といったら牛に梅で決まり。さらにここではなぜかチャボが放し飼いになっている。
いつまで経っても一向に降り止まない雨。恨(うら)めしそうに空を見上げるチビ。


(座牛) : 道真公のお遺骸を牛車(ギッシャ)に乗せお運びしていたら、牛が急に座り込んでしまった。牛はビクとも動かない。そこで、この場所で道真公は永遠にお眠りたいのだと考え、そこをお墓にされた。その場所が現在の太宰府天満宮だとされている。

(飛び梅) : 道真が筑紫・太宰府へ配流(左遷、サセン)されると、京都の紅梅殿(道真は梅が好きでたくさん庭に植えていたので邸宅は紅梅殿と呼ばれていた)の梅が道真を慕って飛んでいったという伝説がある。

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筆塚

 部首が竹カンムリでなく草カンムリになっている。ここらでは竹でなく葦などをフデの軸にしていたのかニャ~?
 筆のカンムリを取った字は、手で筆を持っている象形文字になっている。一番上の横棒は人差し指、その次の長いのは親指、その次のは中指。その三本の指で筆を押さえ、薬指と小指の二本はそっと添えているよう。真中の縦棒はフデそのもの。


 この辺りの段丘崖ラインは複雑なので別の機会に、チビを調査隊長として地形を調べたい。
雨が降りしきる中、濡れながらもポーズを決めるチビ。本日はお疲れさま!明日、お洋服を買ってやるからね!


ヤボの名を取り戻せ! : 石器時代から人が住んでいたであろう谷保(ヤボ)は 「谷を大切に保つ」 ことからこの名がある。しかし、昭和元年に中央線の国分寺駅と立川駅との間に国立(クニタチ)駅が開業(その場所は谷保村にあたるが、村の中心から離れていたため谷保駅とせず国分寺と立川とから一字ずつとった国立駅とした)、そして昭和4年には南武線が開業して駅名は谷保(ヤボでなくヤホ)駅に。さらに昭和26年に谷保村から国立町(昭和42年に国立市)と改称されていった。
やぼの地名を消し去ったのは、住民が谷保-やぼ-野暮という語音に羞恥心を抱いていたためだったが、歴史的にもロハス的にも誇りを持って素晴らしい地名、谷保-やぼを取り戻して欲しい。さらに国立市を谷保市(ヤボシ)に変えたらいかがだろうか。チビからの提案です。

(いにしえ)の 谷保を恥じるは 野暮くさい (チビ)

(チビの日記!!チビのお出かけ 53)
・・・ロハス的な生活(健康で持続可能性の高いライフスタイル)を心がけていきたい・・・




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by chibi-papa | 2006-05-27 19:51 | チビのお出かけ  

♪ 16 宮さん宮さん 18・05・21 

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有栖川宮記念公園に向う途中、ミッキーマウスと出会う。Hello!

 宮さん宮さん(トンヤレ節)
 〔作詞〕 品川弥二郎 〔作曲〕 大村益次郎

♪宮さん宮さん 御馬(オンマ or オウマ)の前に
 ひらひらするのは 何じゃいな
  トコトンヤレ トンヤレナ
  あれは朝敵 征伐せよとの
  錦の御旗じゃ 知らんのか(or 知らないか)
  トコトンヤレ トンヤレナ


 戊辰戦争(ボシン センソウ)における官軍の進軍歌で、討幕のため江戸に向かう薩摩・長州の武士たちによって歌われた。
 品川弥二郎と大村益次郎は共に明治維新で活躍した長州人で、靖国神社参道中央には大村益次郎の銅像が建てられている。品川弥二郎の銅像は靖国通りを挟んで常燈明台(ジョウトウミョウ ダイ)の隣に建っている。


・宮さん : 宮様のことで、東征大総督の有栖川 熾仁(アリスガワノミヤ タルヒト)親王を指す。
・ トコトンヤレナ : とことんやり通せの意。
・ 朝敵(チョウテキ) : 朝廷に手向かう賊。
・ 錦の御旗(ニシキノミハタ) : 官軍(朝廷の軍)の旗。大和錦に金の日像、銀の月像の緞子(ドンス)を付けた旗で、この日之御旗と月之御旗は二つ一組(菊のご紋が刺繍されているのではない)
・ 作詞をした品川弥二郎は松下村塾の門下生。 

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途中でこんなのとも出会う
 「ねぇ、これニャ~に?」 Who are you ?
 そう言うボクは、乳牛の縫いぐるみを着た猫だけど・・・

♪一天万乗の 一天万乗の
 帝王(ミカド)に手向い する奴を
  トコトンヤレ トンヤレナ
 狙い外さず 狙い外さず
  どんどん撃ち出す 薩長土
  トコトンヤレ トンヤレナ


・ 一天万乗(イッテンバンジョウ) : 天下を治める位をいう。
・ 薩長土(サッチョウド) : 薩摩・長州・土佐。

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麻布の有栖川公園までもう少し、広尾公園にて

 1868年(慶応4年=明治元年)、幕府軍は鳥羽・伏見ノ戦いで官軍に矢を向け、ここに戊辰戦争が勃発する。賊軍の首領は徳川慶喜(ヨシノブ)、官軍の大総督は有栖川宮熾仁親王(西郷隆盛が参謀として親王を補佐)
 徳川慶喜は天皇に反抗する意思がないことを示すため上野の寛永寺にて謹慎していたが、官軍は錦の御旗を掲げて江戸へ進軍を開始。東海道では一度の戦闘もなく官軍は江戸に到着。江戸城は無血開城。江戸は東京と改称される。


♪音に聞こえし 関東武士(カントウサムライ)
 どっちへ逃げたと 問うたれば
  トコトンヤレ トンヤレナ
  城も気概も 城も気概も
  捨てて吾妻へ 逃げたげな
  トコトンヤレ トンヤレナ


・吾妻(アズマ) : 江戸を指す。
・徳川慶喜と有栖川宮熾仁親王は従兄弟(イトコ)同士であったため、親王は慶喜助命の道を模索、結果的に外国に隙を与えるような内乱にならずに済んだ。
・明治10年の西南戦争でも熾仁親王は大総督になり、今度は西郷隆盛と刃を交える立場に立った。

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赤穂藩下屋敷→盛岡藩下屋敷→有栖川宮家→高松宮家→区立公園

♪国を追うのも 人を殺すも
 誰も本気じゃ ないけれど
 トコトンヤレ トンヤレナ
 薩長土肥(サッチョウドヒ)の 薩長土肥の
 先手(サキテ)に手向かい する故に
 トコトンヤレ トンヤレナ


 「♪ 宮さん宮さん」を歌いながら行進。有栖川宮記念公園に着いた。かってここ麻布盛岡町(現:南麻布5丁目)は赤穂藩の下屋敷だったが、1656年(赤穂義士討ち入りの46年前)に赤坂南部坂(現:赤坂2丁目)の盛岡藩(南部藩)の下屋敷と等価交換している。

 時代は変わって、明治29年に有栖川宮家の御用地となるも、大正12年(1923)に後継ぎが居なくなったため有栖川宮家は断絶、高松宮家が継承した。昭和9年、有栖川宮家最期の威仁(タケヒト)親王の20周忌に東京市に下賜(カシ)され、公園となった。かくして名家・有栖川の名は公園として残った。 

その高松宮も一昨年の平成16年(2004)に断絶。現存する宮家は、秋篠宮、常陸宮、三笠宮、桂宮、高円宮の5家。

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高低差がある有栖川宮記念公園

 園内は高台から低地に向けて大きく傾斜していて起伏に富んでいる。湧き水が渓流となって池に注いでいる。広場には御馬に跨(マタガ)った熾仁(タルヒト)親王の銅像が凛々しい。

 熾仁親王は17歳の時に当時6歳の皇女和宮(カズノミヤ)と婚約したが、和宮はその後「公武合体」の目的で第14代将軍・徳川家茂(イエモチ)と政略結婚させられることになり、熾仁親王との婚約は破棄された。
熾仁親王は大総督として江戸に進軍、江戸城を無血開城させたが、この無血開城に勝海舟と共に尽力したのが、かっての婚約者・和宮であった。
 和宮は家茂の没後は夫の菩提を弔うため仏門に入った。大政奉還(政権を朝廷に返上)後は徳川の家名の存続や最後の将軍・徳川慶喜の助命嘆願に重要な役割を果たし明治10年、その生涯を終えた。享年31。


和宮は維新後、一旦は京都に帰るも明治7年(1874)に東京に戻り、明治天皇の勧めで麻布市兵衛町(現:六本木)に住む。その3年後に脚気を患い、箱根塔ノ沢にて療養中、明治10年に亡くなった。
徳川家の菩提寺・増上寺の家茂のお墓の隣に眠る。昭和35年の発掘調査によると、烏帽子(エボシ)に直垂(ヒタタレ)姿の家茂の写真乾板を胸に抱えていたという。

(チビの日記!!チビの愛唱歌 16)
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by chibi-papa | 2006-05-21 16:27 | チビの愛唱歌  

♪ 15 お富さん 18・05・20 

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史蹟玄冶店が人形町交差点の直ぐそばにある

 玄冶店といえば ♪ 「お富さん」。歌が流行ったのは昭和29年。映画は 「ローマの休日」、プロレスは力道山。その一方で中国大陸からの引き揚げ者が続いていた。戦後と高度成長時代を繋ぐそんな時代だった。

♪ お富さん  (昭和29年)
 〔作詞〕 山崎 正  〔作曲〕 渡久地 政信  〔唄〕 春日 八郎 一

粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだはずだよ お富さん
生きていたとは お釈迦様でも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー 玄冶店


玄冶店(ゲンヤダナ) : 幕府お抱えの名医、岡本玄冶(2代目)は1657年の明暦ノ大火(振袖火事)で屋敷を失ったため、代替地としてここ日本橋人形町3丁目一帯の土地を第4代将軍・徳川家綱から拝領した。後に居を六本木に移したため、この地は町民に開放されたが、9代にわたって岡本の領地であったため、「玄冶店」と呼ばれる。歌舞伎 『与話情浮名横櫛』(ヨワナサケ ウキナのヨコグシ)では少し捩(モジ)って「源氏店(ゲンジダナ)」として出てくる。

(アダ)な姿 : 正しくは「婀娜な姿」と書く。婀(タオ)やかで娜(シナ)やか。すなわち、婀娜っぽい姿、色っぽい姿のこと。

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Elephant を発見!

 この辺りに「粋な黒塀に見越しの松」の家がないかな~と歩き廻っていたら、エレファントを見つけちゃったゾ~。と、目を丸くして見せるチビ。

粋な黒塀に見越しの松の家 : 松の木が見える黒塗りの塀の家のこと。

「源氏店」切られ与三郎とお富
 物語は明暦ノ大火から2百年ほど経った頃(幕末の安政年間の頃か)のお話で、若旦那の与三郎は潮干狩りでお富を見染め、たちまち二人は恋に落ちる。しかし、お富はヤクザの親分の妾(メカケ)の身。逢引(アイビキ)が見つかり、与三郎は滅多切り(メッタギリ)にされてしまった。お富は与三郎が死んだと思い込み海に身を投ずるが、通りかかった舟に助けられる。
 3年後、与三郎は34ヶ所の刃傷の痕を売り物にしたチンピラに成り下がっていた。ある日、見越しの松に黒塗りの塀の家に押し入ったらそこにお富が!死んだと思っていたお富がどうしてこんな所に?と言うことで、与三郎の恨み辛みが・・・あとは2番以降の歌詞をどうぞ・・・

二、
過ぎた昔を 恨むじゃないが
風も沁みるよ 傷の跡
久しぶりだな お富さん
今じゃ呼び名も 切られの与三よ
これで一分(イチブ)じゃ お富さん
エーサオー 済まされめえ

三、
かけちゃいけない 他人の花に
情かけたが 身の定め
愚痴はよそうぜ お富さん
せめて今夜は 差しつ差されつ
飲んで明かそよ お富さん
エーサオー 茶碗酒

四、
逢えば懐かし 語るも夢さ
誰が弾くやら 明烏
ついてくる気か お富さん
命短く 渡る浮世は
雨も辛いぜ お富さん
エーサオー 地獄雨


明烏(アケガラス) : 新内節(シンナイブシ)の代表曲「明烏夢泡雪」(アケガラス ユメのアワユキ)のこと。実際の情死事件を吉原の花魁(オイラン)と若旦那・時次郎の情話として脚色した曲。

 この話にはモデルがいて、木更津(キサラズ)の紺屋(コウヤ、コンヤ)の息子・大吉と親分のお妾さん・とし。逢引(アイビキ)がばれて半殺しの目にあい別れ離れになるが、江戸深川で偶然にも再会した時には、男は長唄堀留派の四世に、女は深川芸者・亀吉となっていた。その後二人は一緒になり、大伝馬町に居を構えたとサ。めでたし、目出度し。

(チビの日記!!チビの愛唱歌 15)
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by chibi-papa | 2006-05-20 19:28 | チビの愛唱歌  

吉田松陰終焉の地(52)18・05・20

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十思公園

 十思スクエア(元:十思小学校)の隣にあるから十思公園なのか、十思小学校の校庭だったからなのか。いずれにしろ十思(ジッシ)は「十思之疏」からきている。
 十思之疏(ジッシノソ)は唐の太宗皇帝(タイソウ コウテイ、唐王朝の第2代皇帝)に家臣・魏徴(ギチョウ)が差し上げた十箇条で、天子がわきまえなければならない戒めが列挙されている。その十番目に「施刑罰則思因怒而濫」(刑罰を施すには則ち怒によって濫することを思う)とある。これは、刑罰を課す時に、怒りのあまり過度な刑罰にしてしまうことのないように、とのことである。
 安政ノ大獄の裁きにあたって、為政者にこの戒めは通じなかったのか、残念でならない。


十思小学校の謂れ : 明治10年(1877)に開校した当時の所在地であった旧伝馬上町は第十四小区。第十四小区の学校ということで校名を付けるのにあたって、大区小区制での十四小区の十四と、十思之疏の十思の音が同じであることから十思小学校と名付けられた。
明治11年11月に大区小区制が廃止されると同時に15区が設置され、この地は日本橋区となる。その後、昭和22年に京橋区と合併して中央区となった。

十思ノ疏(現代訳)
一、欲しいと思った時でも、足るを知って、徒に(イタズラに)多くを望まないこと。
ニ、(省略)
三、高い地位にいる人ほど、謙る(ヘリクダる)ようにしなければいけないこと。
四、充ち満ちて(ミちミちて)いる時には、心を抑えて奢る(オゴる)ことがないようにすること。
五、 六 (省略)
七、立派な良い帝王といわれるためには、賢い家来をもちいて、その戒めを受け入れること。
八、 九 (省略)
十、刑罰を課す時に、怒りのあまり過度な刑罰にしてしまうことのないようにすること。
なお、「疏」 とは 「おろそか」 という意味。

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石町の「時の鐘」案内板

 安政ノ大獄は、幕末の安政5年(1858)から翌年にかけて起こった弾圧事件である。
 幕府の大老・井伊直弼がその施策である「日米修好通商条約への調印および徳川家茂(イエモチ)の将軍職継承」の反対派に弾圧を加えた。弾圧されたのは一橋派、尊王攘夷派の大名、公卿、志士(吉田松陰先生などの活動家)らで、連座した者は100名以上にのぼった。


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牢屋敷跡の案内板から落っこちそうになって、照れ隠しに舌を出すチビ

 安政ノ大獄の処分については寛典(カンテン、寛大な処分)論もあったのに、それを退けて厳罰に処すことを断行したのは大老・井伊直弼本人といわれている。
 直弼は独裁的に政策を断行。そして強権をもって治安を回復しようとしたのである。そのため、憎しみのあまり赤鬼と呼ばれた。横浜の掃部山(カモンヤマ)公園に立つ直弼の銅像は、明治42年に除幕式があったが、一夜のうちに銅像の首は切り落とされてしまったほど。


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写真は処刑場跡

 「十思之疏」を著した魏徴も松陰が死罪となったことを知ったら嘆くであろう。死罪にしてしまっては、「覆水盆に返らず」(フクスイ ボンにカエらず)でリセットしても松陰は生き返らない。でも、松陰先生のことだからあの世に行っても、読書に講義に忙しくしていることだろう。

魏徴も 天を仰ぐか 十思の疏 松陰の身は 盆にかえらず

あの世でも 講義続ける 大和霊 生死を忘れ ただひたすらに

あの世から講義続ける 大和霊 耳を澄ませば 音 観ゆるなり

この齢 この世の騒ぎ 前にして 松陰の香 この身に降りぬ

松陰の 教え遠くも 時は今 我が身留めし 大和魂
(以上 チビ)

江戸時代の刑罰
(ハリツケ)、獄門、火罪・・・江戸市中引き回しのうえ小塚原か鈴ヶ森で執行
死罪・・・小伝馬町の牢屋敷内で執行
遠島・・・終身刑
重追放、中追放、軽追放・・・追放
入墨・・・読みは同じでも刺青(イレズミ)とは違う。刑罰としての入墨
重敲き、敲き(タタキ)・・・重敲きは100回、敲きは50回
手鎖・・・一番軽い刑罰

公儀御様御用(コウギ オタメシ ゴヨウ) ; 斬首(ザンシュ)を担当したのは公儀御様御用・山田浅右衛門(ヤマダ アサエモン)の7代目・吉利(ヨシトシ)。山田家では常に剣の腕を磨いておくことは勿論、辞世の句を詠む者の心情を理解するため俳諧や和歌などを習得していた。
松陰辞世の句
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

(チビの日記!!チビのお出かけ 52)
・・・ロハス的な生活(健康で持続可能性の高いライフスタイル)を心がけていきたい・・・
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by chibi-papa | 2006-05-20 18:50 | チビのお出かけ  

松陰神社と豪徳寺(51)18・05・14

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松下村塾の8畳の講義室

 -----動乱の幕末。時代を駆け抜けた青年がいた。大きなうねりを起こした思想家・吉田松陰-----

 吉田松陰の教育道場であった松下村塾で、塾生に教育を施したのはわずか通算2年半程。その松下村塾で薫陶を受けた子弟は80数名、明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材(久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、伊藤博文、品川弥二郎など)が輩出した。
 松陰先生を尊敬してやまないチビは「今日から塾生となって、この8畳の講義室をイメージして勉学に励もう!」と誓うのであった。


ここの松下村塾は山口県萩市の松陰神社に保存されている松下村塾を模築したもの。
塾生は各地から英才を集めたのではなく、そのほとんどが近所に住む少年だった。吉田松陰の曇りのない教育によって明治維新は実現したといってもいい。
松下村塾の存在は、教育が施設でないことの証明である。

 松陰先生の決意
松下陋村なりと雖も(イエドも)誓って神国の幹となさん

・ 陋村(ロウソン)の陋は「狭い」「粗末な」の意。

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吉田松陰墓所

 吉田松陰(墓石には通称の寅次郎の名で刻まれている)は徳川幕府滅亡の8年前の安政ノ大獄に連座し、江戸伝馬町の獄中で刑死(享年29)、千住小塚原の回向院に葬られた。
 その4年後に松下村塾門下生の高杉晋作らによりこの毛利家の地に改葬された。明治15年、松陰神社となる。


 松陰先生、辞世の句
身はたとひ 武蔵野の野に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂


安政ノ大獄(アンセイのタイゴク) : 安政5年(1858)から翌年にかけ、アメリカ・ロシア・オランダ・イギリス・フランス五カ国との通商条約および将軍継嗣(ケイシ)問題で激化した尊皇攘夷(ソンノウ ジョウイ)運動派に対し、井伊大老がおこなった弾圧。連座者は百余名。吉田松陰、橋本佐内ら8名が処刑された。

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徳川家からの謝罪として奉納された石燈篭

 この地に改葬されて2年後に起こった禁門ノ変(1864年)のとき、幕府によって破壊された墓所を明治元年(1868年)に修復した際、謝罪の意を込めて葵紋のついた石燈篭などが奉納された。
 墓所のすぐ手前にある徳川家からの石燈篭を不審がり、石燈篭の上に飛び乗って、安政ノ大獄による処刑についても謝罪しているのかを確かめようと検分するチビ。


禁門(蛤御門)ノ変 : 1864年、前年の倒幕挙兵を企てて失敗し京を追われた長州藩が、その形勢挽回のために京に兵を進め、会津・桑名・薩摩連合軍と蛤御門(ハマグリ ゴモン)付近で交戦し敗れた事件。

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松陰を敬慕していた桂太郎の墓所

 桂太郎は吉田松陰を敬慕(ケイボ)し、自らも拓殖大学を創立し校長として育成に尽くした。三度の桂内閣を組閣後、大正2年に急逝、享年66。
 遺言により吉田松陰の霊域に接した場所に葬られている。

 「徳川家の謝罪は分かったとして、吉田松陰先生の処刑を断行した井伊家はどうなんだ!井伊直弼(イイ ナオスケ)に聞きたいことがある。これから井伊家の菩提寺の豪徳寺(ゴウトクジ)に向うぞ!」と、チビは凄い剣幕で烏山川緑道を急ぐのであった。


烏山川緑道(カラスヤマガワ リョクドウ) : 三宿から粕谷に至る延長7キロメートルの緑道。緑道に沿って太子堂円泉寺、松陰神社、世田谷城址公園、豪徳寺など歴史に縁のある神社仏閣がある。

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祝・豪徳寺三重塔新築落慶

 凄い剣幕で豪徳寺に乗り込んでみたものの、たまたま三重塔の落慶式の真っ最中。平成15年から築いていた三重塔が堂々完成し、今日がその落慶式。
 「オ~ッ。これは立派な宝塔だ!井伊直弼には別の機会に問い質(タダ)すことにして、まずは記念写真!」


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招き猫がどうしたって?

 彦根藩2代藩主・伊井直孝が鷹狩りの帰りに門前を通りかかると、手招きをする猫がいる。不審に思って寺に寄り、和尚の話を聞いていると、大変な雷雨になった。直孝はこの幸運を喜び、福を招く猫のいる寺としてこの寺を大事にした、だと?戯け話(たわけばなし、ふざけた話)が!
 当時の鷹狩は軍事演習なのだから、雷雨も演習の一つと思わないようでは、直孝は腑抜け(フヌケ)だったと言うことになる。まして軍事演習時に雨宿りなんかしているなんて話にならん!猫を出しにした作り話もいい加減にしろ!

 しかし、夜叉掃部(ヤシャ カモン)といわれた直孝は大阪夏ノ陣で功績を挙げ、徳川家康や秀忠から一目置かれていた存在なのだ。そして13代藩主の直弼の時の国難に当り幕府の大老として出てきた、井伊家は代々軍事担当の家柄なのだ。ここに、吉田松陰先生と大老・伊井直弼が激突したのであった。


時代背景 : ヨーロッパ勢の世界侵略は、16世紀にまずポルトガルとスペインが先鞭をつけた。18世紀にはそれをイギリス、オランダ、ロシアがそれを塗り替え、19世紀には遅れてフランス、ドイツ、アメリカが侵略を拡大してきた。幕末の頃の世界は殆どがヨーロッパ人に侵略されてしまい、残されていた国は清国と我が国だけになった。
その清国もイギリスに阿片戦争を仕掛けられ、香港を割譲せざるを得なかった。我が国に刻々と迫って来るヨーロッパ勢。国難。激化する尊王攘夷運動・・・。

(チビの日記!!チビのお出かけ 51)
・・・ロハス的な生活(健康で持続可能性の高いライフスタイル)を心がけていきたい・・・
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by chibi-papa | 2006-05-14 16:50 | チビのお出かけ  

平成18年GW総集編(50)

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隅田川に架かる佃大橋を眺める(明石町河岸公園)

4月29日 : 築地駅→浅野内匠頭邸跡→芥川龍之介生誕の地→聖路加国際病院トイスラー記念館→慶応義塾発祥の地→聖路加ガーデン→明石町河岸公園→佃島渡船場跡→石川島灯台→中の島公園→富岡八幡宮→門前仲町駅(チビのお出かけ44)

 慶応義塾発祥の地では福沢諭吉の「学問のすすめ」を読んだよ。学問の大切さが少しは分かったような気がするニャ~!

隅田川 架かる先には 佃島 (チビ)

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国内最大規模の桜草自生地(桜草公園)

4月30日 : 中浦和駅→別所沼公園→田島氷川神社→田島氷川公園→桜草公園(田島ケ原サクラソウ自生地)→秋ケ瀬橋→朝霞台駅(チビのお出かけ45)

 心地よい風に吹かれながら、桜草公園を目指して鴻沼川沿いの秋ケ瀬緑道を歩いた。

人前で 健気に咲くは 桜草 (チビ)

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朝倉文夫のアトリエを門の上から拝見(朝倉彫塑館)

5月1日 : 東大前駅→根津神社(つつじまつり)→大名時計博物館→岡倉天心記念公園→夕焼けだんだん→朝倉彫塑館→天王寺五重塔跡→上野公園→石川啄木歌碑→上野広小路駅(チビのお出かけ46)

 朝倉彫塑館の開館時間は午後4時30分まで。残念!それにツツジを躑躅と書くとは知らなかったニャ~。

ツツジとて 躑躅と知らず 根津に咲く (チビ)

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昔の貯木場、今は公園(猿江恩賜公園)

5月3日 :清澄白河駅→霊厳寺(松平定信の菩提寺)→新扇橋(猿江船改番所跡)→猿江神社→猿江恩賜公園(南園・北園)→ショッピングセンター「オリナス」→亀戸天神→香取神社→亀戸水神宮→亀戸水神駅(チビのお出かけ47)

 それにしても亀戸天神の藤まつりは凄い人出だったニャ~。

亀戸も 天(神)と水(神)では 大違い (チビ)

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石神井川蛇行の攻撃斜面に見る地層(音無さくら緑地)

5月4日 :飛鳥山停留所→飛鳥山公園→音無川親水公園→音無さくら緑地→音無もみじ緑地→加賀公園(加賀藩下屋敷跡)→モニュメント「火薬製造所の煉瓦棟の一部分」→加賀西公園(火薬製造機)→オブジェ「早春」→旧中山道・板橋(チビのお出かけ48)

 石神井川緑道を行く。途中、巨大な火薬製造の圧輪があり歴史の重みを感じたニャ~。

川ゆけば 歴史が解かり 思い馳す (チビ)

5月5日 :旧中山道・板橋→氷川釣り堀公園→双葉ふれあい広場→オブジェ「ささぶね」→六蔵祠→旧川越街道・下頭橋→天祖神社→ときわ台駅(チビのお出かけ49)

 それぞれの街道にそれぞれの宿場。昔はみんな歩いたんだね。

旧道に 思いを込めて 立ち止まる (チビ)

(チビの日記!!チビのお出かけ 50)
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by chibi-papa | 2006-05-07 00:00 | チビのお出かけ  

板橋区役所前~ときわ台(49)18・05・05

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昨日の続き

スタート:都営地下鉄三田線・板橋区役所前駅

 昨日と同じ板橋の橋の上からスタート。さらに緑道に沿って石神井川をのぼる。

五街道のひとつ中山道の一番目の宿場が板橋宿で、板橋本町駅からJR板橋駅まで2km強もの長さがあった。この橋の北を上宿、南を仲宿、さらに江戸寄りを平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼ぶ。
板橋の地名の由来:平安時代、石神井川に架けられた板の橋が当時としては珍しかったため、そのまま地名となった。

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氷川釣り堀公園

 川筋を利用した釣り堀公園があった。池には普段、鮒、タナゴ、鯉、口細(クチボソ)、金魚を放流している、と書いてあるが当面は、和金(ワキン)、ウグイ、タナゴと口細とのこと。4時閉園なので係りの人が鳥除けを張り始めた。
 石神井川にはこの他に、鮠(ハヤ)、山女(ヤマベ)、目高(メダカ)、鰻、泥鰌(ドジョウ)、鯰(ナマズ)も生息していたという。


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双葉ふれあい広場

 非常用のポンプなのかな?動力もないようだけど、はたして井戸水が出るのかニャ~?

 「この井戸水は飲めません」と書かれてあるから出るんだよ。そのままでは飲めなくても、ろ過すれば飲めるようになるんだろう。


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中板橋の袂(タモト)・作品「ささぶね」作者不明

 姉と弟が笹舟で遊んでいるオブジェがあった。この先の旧川越街道に出て、下頭橋(ゲトウバシ)で石神井川に別れを告げて、ときわ台駅に向かう。
 その下頭橋の袂に祠(ホコラ)があった。たびたび木橋が流されるので、1798年(第11代将軍・徳川家斉の頃)に石橋に架け替えられたが、その資金は橋の袂に住みついていた六蔵が橋を渡る人からげて少しずつ貯めたものだった。この祠は六蔵が実は菩薩であったことを今に伝えるもの。六蔵菩薩に頭を下げて下頭橋を渡る。


 橋は人間と水の精霊との交流の場をあらわす神聖なもので、天に繋がる神々が空と地上とを行き来する所でもあると、古代人は考えていた。

(水の)精霊と 交流しながら (下頭)橋渡る 神(神々)と繋がり (六蔵)菩薩に感謝 (チビ)

上板橋宿は、日大病院入口の交差点から下頭橋までの約800mで、町名でいうと弥生町。駅でいうと東上線・中板橋駅あたり(上板橋駅付近ではない)

中山道の脇街道としての川越街道(川越道中)を参勤交代で利用するのは川越藩だけ。上板橋、下板橋、白子、膝折、大和田、大井の6つの宿場を経て川越に達する。江戸から13里(52km)
石焼芋で「栗(9里)よりうまい13里」と言う13里は、川越の さつま芋を指している。川越はさつま芋の産地。うまいキャッチコピーだニャ~。

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天祖神社の五月人形

 旧川越街道をしばらく行くと天祖神社があった。五月人形が飾られていた。今日は端午の節句で子供の日、ボク9歳。いい記念写真になりました。天祖様 「ありがとう」。

端午の節句 : 五節句の一つで、5月5日に男の子の健やかな成長を祝う風習。鎧兜には身体を守るという意味合いが込められている。
端午の節句に欠かせない菖蒲は、尚武(武道を大切なものと考えること)と同じ読みであることと、菖蒲の葉が刀剣の形を連想することから男の子の節句として定着した。

ゴール:東武東上線・ときわ台駅

(チビの日記!!チビのお出かけ 49)
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by chibi-papa | 2006-05-05 19:19 | チビのお出かけ  

飛鳥山~板橋区役所前(48)18・05・04

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蒸気機関車に飛び乗り(飛鳥山公園)

スタート:都電荒川線・飛鳥山停留所

 どいて!どいて!そこどいて!危ないよ!デゴイチ(D51)のお通りだい!

 このD51は、昭和18年製造、昭和47年の廃車まで走った距離は194万km。地球の一周は4万kmだから49周走ったことになる。


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都電にも飛び乗り(飛鳥山公園)

 良い子はこういうことをしてはいけないよ!でも、ボクは急いでいるんだ!飛び乗りご免!

 都電6000形は昭和22年から製造(この車両6080は昭和24年製)されたが、昭和53年のワンマン運転開始に伴い廃車となった。


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着いた先が愛しの人魚姫(飛鳥山公園)

 蒸気機関車と路面電車を乗り継いでやって来たのは人魚姫のもと。
 チビ!やっと会えた人魚姫の左手を右足で踏んづけているよ!どうりで人魚姫はうかない顔をしているわけだ。

 飛鳥山公園のこどもらんどは元気のいい子供達で一杯、親たちは木陰から子を見守っている。


第8代将軍・徳川吉宗は庶民のために隅田川や飛鳥山などに桜の木を植え、それ以来、お花見のスタイルが定着していった。そして明治6年、飛鳥山は明治政府により我が国初の公園として指定された。 

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音無橋の真下(音無親水公園)

 石神井川は花小金井(小平市)を源に王子の北東1kmの地点で隅田川と合流する全長25kmの河川で、ちょうどこのあたりを江戸時代は音無(オトナシ)渓谷と呼んでいた。古くからの景勝地として、安藤広重の「名所江戸百景」にも描かれている。
 北区付近では音無川と呼ばれ、音無橋の下が整備されて親水公園となっている。水車が新しくなっていた。さあ、これから石神井川を緑道に沿って逆のぼるぞ!


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緑の吊橋(音無さくら緑地)

 15mの吊橋(ツリバシ)がこんな所にある。横にも揺れて怖いよ~。でも下を見たら安心。もし谷底だったら猫だって足が竦(スク)んじゃうよ~。

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旧石神井川の河岸(音無さくら緑地)

 音無さくら緑地は旧石神井川の蛇行(ダコウ)部分でU字形をしている。天然河岸も残っていて地形学ではこのような地形を攻撃斜面という。
 今から12~13万年前、東京都が海底となった頃に形成された地層「東京層」が露頭(ロトウ)している。地質学にとって貴重な場所。


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憩いの水辺(音無もみじ緑地)

 擂り鉢(スりバチ)状の護岸構造になっている。憩いの水辺をテーマにしたモニュメントで、カルガモさん捕ま~えた!一緒に遊びましょ!

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川辺(音無もみじ緑地)

 水際まで降りられる。このように湾処(わんど、川の水たまり)になっている。

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加賀藩下屋敷跡(加賀公園)

 なんとなんと22万坪(井の頭公園の2倍の広さ)を幕府から拝領し、石神井川を含む広大な敷地に回遊式庭園を設けたとある。築山に登ると、わずかに往時の面影を偲ぶことができる。
 しばらく行くと煉瓦造建物のモニュメントがあった。広大な加賀藩下屋敷を利用して明治から大正時代に建てられたもので、太平洋戦争の敗戦までここに火薬製造所(陸軍第二造兵廠板橋製造所)があったとのこと。


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火薬製造機(加賀公園)

 明治9年(1876)から明治39年まで黒色火薬を製造する時に使用していた圧磨機の圧輪(ベルギー製)。この圧輪を動かすため、石神井川の水で鉄製の縦軸水車(これもベルギー製)を稼動させたとある。

 イギリスの産業革命(Industrial Revolution)は18世紀末に始まった。まだ我が国は江戸時代で第10代将軍・徳川家治が治世の頃の1769年には既にアークライトが水力紡績機を開発している。
 産業革命はその後、ベルギーからフランスへ、さらにドイツ、アメリカに。そしてイギリスから遅れること百年、やっと日本も工業化が始まった。最初はここの火薬製造所のように水力を利用したものが多かった。重工業化は明治34年(1901)の八幡製鉄所からである。


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作品「早春」浅井健作(緑橋付近)

 鯉にまたがるチビ。明日は5月5日、子供の日。

このまんま 空に躍るや 鯉のぼり  (チビ)

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旧中山道の板橋

 板橋という地名はこの板橋に由来する。王子からここまで石神井川をのぼってきたけど、午後5時になったので今日はここでおしまい。帰ってご飯、ゴハン。

 続きはまた明日!


ゴール:都営地下鉄三田線・板橋区役所前駅

(チビの日記!!チビのお出かけ 48)
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by chibi-papa | 2006-05-04 20:00 | チビのお出かけ  

松平定信と「寛政ノ改革」(47)18・05・03

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霊厳寺・松平定信の墓前

 清澄白河駅(半蔵門線、大江戸線)は清澄と白河を合わせた駅名で、清澄には清澄庭園があり、白河の霊巌寺には白河藩主・松平定信の墓がある。
 東武亀戸線・亀戸水神駅まで歩く。

 松平定信(サダノブ、1759~1829)は第8代将軍・徳川吉宗の孫として田安徳川家(タヤス トクガワケ)に生まれた。いずれは第10代将軍・徳川家治(イエハル)の後を継ぐことになるかも知れない人物とまで目されていたが、田沼意次(タヌマ オキツグ)による政治を賄賂政治(ワイロ セイジ)として批判したため、陸奥国(ムツノクニ)白河藩主の養子に出されてしまった。
 定信が白河藩主となったのは天明ノ飢饉(テンメイのキキン)の最中であったが、食料救済措置が迅速だったため餓死者を出さなかったこともあり、白河藩では名君として慕われた。
 田沼意次が失脚した後、幼少の第11代将軍・徳川家斉(イエナリ)のもとで老中首座、将軍補佐として、田沼意次の重商主義による政策を全面的に否定し、朱子学に基づいた重農主義による「寛政ノ改革」を断行した。

 『 田や沼や 汚れた御世を 改めて 清くぞ澄める 白河の水』 (狂歌)

  しかし、この「寛政ノ改革」は極端な倹約を強いたため世俗的な田沼意次の政治を懐かしむ声もみられた。
 『 白河の 水の清さに 耐えかねて 元の田沼の 濁り恋しき 』 (狂歌)
 『 白河の 清きに魚も 棲みかねて 元の田沼の 濁り恋しき 』 (狂歌)

 さらに、成長した徳川家斉からも嫌われ失脚した。

 もともとこの地は霊巌寺(霊岸寺)の門前だったので深川霊岸町と言ったが、昭和7年の町町合併の時、霊巌寺が白河藩主松平定信の菩提寺であったため、深川白河町と名付けられた(昭和45年、今の白河になった)。隣接して深川江戸資料館がある。


寛政ノ改革(カンセイのカイカク) : 幕政再建を目指して緊縮(キンシュク)財政や風紀取締りを6年余りおこない、自からも率先して倹約に努めた。「寛政ノ改革」は「享保ノ改革」、「天保ノ改革」とあわせて三大改革と称される。

寛政ノ改革の際に江戸町方に命じた積立制度として七分積金がある。これは町入用の節減分の7分(70%)を積立させ、定式御救(窮民に対するお救い)や臨時御救(飢饉などの際のお救い)に当てた。幕末には150万両もの残高があった。これを明治新政府が接収して、東京に学校や道路などのインフラ整備に使われた。

田沼意次(1719~1788):第9代将軍・徳川家重に1万石の大名に取り立てられた。家重が死去した後も第10代将軍・徳川家治の信任は厚く、御用人から側用人へと出世しさらに側用人から老中になった。重商主義政策をとり社会の初期資本主義化によって金銭中心の生活となり、そのため贈収賄が横行した。
没後、松平定信によって私財没収となったが財産はほどんどなかった。

霊巌寺(レイガンジ) : 1624年に霊巌島(中央区新川1丁目)に創建されたが1657年(第4代将軍・徳川家綱の治世のころ)の「明暦ノ大火」(振袖火事)で焼失したため、ここ深川白河町に移転してきた。この大火で川と海によって逃げ場を失った9,600人余りが霊巌島で死亡したとある。

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新扇橋の袂のサクランボにチュッ

 小名木川に架かっている新扇橋の袂(タモト)に一本の桜の木。サクランボが一杯なっている。黄色いサクランボにチュッ。

♪ 黄色いサクランボ
〔作詞〕星野哲郎 〔作曲〕浜口庫之助 〔歌〕スリー・キャッツ 昭和34年

若い娘は ウッフン
お色気ありそで ウッフン
なさそで ウッフン、ありそで ウッフン
ほらほら黄色いサクランボ
摘まんでごらんよ、ワン
しゃぶってごらんよ、ツー
甘くて渋いよ、スリー
ワン・ツー・スリー ウ~ン
黄色いサクランボ

 ここには船改(フナアラタメ)番所があった所。小名木川は江戸への物資輸送の重要な交通路であったために設置された番所で、現在でいえば税関みたいな所だった。


小名木川(オナギガワ) : 江戸時代初期、徳川家康が行徳の塩の搬入路として開削を命じた運河で、その開削者が小名木氏だったのでこの名がある。明治30年台にはこの川沿岸には製粉会社が次々と設立された。

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猿江神社

 平安時代後期に猿藤太(サルノ トウタ)という武将がこの地の入江で力尽きてしまった。懐に経巻が入っていたことから、地元の漁師達がこの境内に塚を建てて手厚く葬ったという。このことから猿籐太の「猿」と入江の「江」の字を取り結び「猿江」の神社名になったという。
 国内最古のコンクリート造の社殿は昭和6年に建てられた。


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猿江恩賜公園・南園

 猿江恩賜公園(サルエ オンシコウエン)は江戸時代から続く徳川幕府による貯木場であった(第8代将軍・徳川吉宗の時、幕府公認の貯木場として開かれる)。その後、昭和7年に南園が開園、昭和47年に貯木場が全面廃止となり、昭和58年北園の完成に伴い全面開園となった。
 そんな高い所に上って、どうやって降りるつもり?


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ショッピングモール「オリナス」

 錦糸町の錦糸の錦と言えば「♪にしき織りなす長堤に・・・」。そう、滝廉太郎作曲の「花」の3番。「織りなす」→オリナスを連想しちゃう。
 本当は、錦の糸が様々な模様を織り成すことから、住居と出会いと新たなビジネスとショッピングの融合を意味する、
Organization of Lifestyle.
Interface.
New business.
Amenity Shpopping
の頭文字OLINAS。
 ところで、ボクの交通安全のファッションはどう?


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香取神社・亀戸大根

 「亀戸天神藤まつり」で観光バスがずら~り。溢(アフ)れんばかりの人・人・人。と言うことで、早々の内に退散して、香取神社へ。
 亀戸大根は普通の大根より小ぶりで人参を少し大きくしたぐらい。14代将軍・徳川家茂(イエモチ)の頃に栽培が始まり、香取神社周辺がその中心地となっていた。栽培発祥を記念して平成11年に亀戸大根の石碑が建てられた。「ワンコにはこんな所に登れないだろう」とヤンチャぶりを発揮するチビ。


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香取神社・逆上がりができないよ~

 明後日5日に行われる勝矢祭(カチヤサイ)での武者行列のため、いつも展示してある鎧(ヨロイ)が下ろされ、名札がつけられている。
 平安時代中期、平将門(タイラのマサカド)が乱を起こした時、追討使(ツイトウシ)がこの香取神社に戦勝を祈願した。平定(940年)後、その神恩感謝として弓矢を奉納、勝矢と命名したとある。
 それは鉄棒じゃないんだから、いいかげんに降りて来なさい!


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亀戸水神宮

 こじんまりとした亀戸水神宮は室町時代の新田開発にあたって創建されたようだ。
 近くを走る東武亀戸線は、明治37年(日露戦争開始の年)に開通した。ホームには「亀戸天神の最寄駅は亀戸駅です 亀戸天神と亀戸水神は違います」との注意書きが貼ってあった。


(チビの日記!!チビのお出かけ 47)
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by chibi-papa | 2006-05-03 19:19 | チビのお出かけ  

東大前~上野広小路 (46) 18・05・01

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根津神社・楼門

 スタート:地下鉄南北線・東大前駅

 根津神社では恒例の つつじまつり が4月8日から5月5日まで開催されている。ツツジとサツキはどう違うのかと言うと・・・、
 サツキもツツジ科でサツキツツジを省略してサツキと言われていて、サツキは新しい枝葉を伸ばしてから花を咲かせるので、ツツジが咲き終わる5月10日頃から開花する。このように皐月(5月)に咲くからサツキと名付けられたんだ。
 それから、ツツジより葉っぱが小さくて固いのがサツキだニャ~。


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根津神社・ツツジ苑

 離れて見るツツジはとても綺麗!ツツジは漢字で躑躅と書く。どうしてこういう字なんだろう?
 それはね、羊が毒のあるツツジ(蓮華ツツジ)を誤って食べたところ、足踏みしてもがき苦しんだという。このような状態をチャイナでは躑躅(テキチョク)と書く。それが日本に伝わったんだ(躑は足踏みする、躅も踏むの意)。それにしてもすごい意味の漢字がツツジに付けられちゃったね。


馬酔木(アシビ、アセビ)も躑躅科で、やはり葉には有毒物質がある。葉を食べた馬は足が痺れるという。足(あし)ぷらす(しび)アシビ

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根津神社・楼門からつつじ苑を見る

 ここから見るツツジも綺麗!では、この花は何でツツジと名付けられたのかと言うと、花弁の元が筒状になっている。このことからツツジの花の形は筒咲き、筒咲きがツツジになったんだニャ。

1706年に権現社が現在地に遷座(せんざ)されて300年が経つ。今年の9月に御遷座300年大祭がおこなわれる。

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大名時計博物館

 勝山藩・下屋敷跡とあるが勝山藩は越前勝山藩、安房勝山藩、美作勝山藩の三藩あるけど、家紋などからすると美作(みまさかの国・岡山県)勝山藩のようだね。
 そこに大名時計博物館があり、陶芸家故上口愚朗氏のコレクションが保存されている。そこの大名時計は24時間定時法ではなく、日本独特の不定時法による時計が展示されている。


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岡倉天心記念公園・六角堂

 ここには日本美術院(明治31年に岡倉天心が中心になって創設)や岡倉天心の旧居があったという。六角堂には金色の天心坐像が安置されている。

岡倉天心(おかくら てんしん、1863・△5~1913・大正2) : 明治期の美術家、美術史家、美術評論家、美術教育者。この時代、極端な欧化政策、神道国教化を図り神道と仏教を分離する政策により、結果的に仏教排斥となった。排仏毀釈によって次々と破壊されていく仏像を救おうと立ち上がり、仏像修理を手がけ、文化財保護の礎を築いた。昭和42年(1967)に日本美術院の跡地を公園とした。

天心が発案した「現状維持修理」は、古美術保存の適切な方法として現在でも採用されている。

天心の教え子(新日本画の旗手たち) : 師の志を引き継いだ横山大観、若い頃から頭角を現した下村観山、夭折した俊英菱田春草(ひしだ しゅんそう)優れた色彩家の木村武山

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「夕やけだんだん」から見た谷中銀座商店街

 日暮里は江戸時代「ひぐらしの里」といわれ夕焼けの綺麗なところとして有名だったこともあって、谷中銀座商店街へ至る階段を「夕やけだんだん」と一般公募で名付けられた。「だんだん」は「段段」で階段を意味している。

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朝倉彫塑館(アサクラ チョウソカン)

 朝倉文夫自ら設計したアトリエ(黒塗りの鉄筋コンクリート造り)と住居(数奇屋造り)が台東区に寄贈され、昭和61年彫塑館として公開された。
 代表作品の一つに上野駅構内の「翼の像」がある。これは上野駅開設70周年・特急はつかり運転開始記念として作られた。それに、早稲田大学の大隈重信の銅像もそうだね。
 アッ!建物の上に誰かがいる!
 あれは朝倉文夫のお孫さん像だって。それから、池袋の東京芸術劇場前にある「マリとシェリー」の像の作者・朝倉響子は朝倉文夫の娘さんなんだよ
チビのお出かけ17 を見てね)。


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天王寺五重塔跡

 1644年(第3代将軍家光の頃)に最初の五重塔が完成したが、1772年(第10代家治の頃)の目黒行人坂の大火(明和大火ともいう、死者2万人を出すという大火災)で焼失してしまった。その19年後に再建された五重塔は幸田露伴(コウダ ロハン)の小説「五重塔」のモデルとして知られている。総欅造りで高さは34m。
 その後は震災、戦災にもあわなかったが、昭和32年放火心中事件により焼失してしまった。今は花崗岩の礎石が残るのみ。


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灯ともし頃の上野公園

パパ:上野公園に灯ともし頃、夕暮れダンダン。
チビ:このダンダンは段段でなくて「徐々に」の意味だよね。待てよ、dang dangかな?
パパ:dang dangは不満や罵りの意味だよ。
チビ:「くそっ!もう夕暮れになっちゃった」だから、夕暮れdang dangでいいのら!

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石川啄木歌碑

古里の 訛り懐かし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく (石川啄木)

 この歌から、啄木(タクボク)が東北から上京した時、上野駅で東北訛り(rural accent)を聞いて、故郷を懐かしんでいる様子が窺がえるニャ。

 啄木の啄は「ツイばむ」と読む。木を啄ばむ(突いて木に穴を開ける)鳥は、そうキツツキ。ついでに正岡子規の子規はホトトギス。松尾芭蕉の芭蕉はバナナだから、
 石川キツツキ正岡ホトトギスそれに松尾バナナ。みなさん面白いペンネームを考えたね。現代でも小説家に吉本ばなながいるね


 ゴール:地下鉄銀座線・上野広小路駅

(チビの日記!!チビのお出かけ 46)
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by chibi-papa | 2006-05-01 20:31 | チビのお出かけ