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天園ハイキングコース(14) 17・04・24 

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起点の建長寺

 天園(テンゾノ)ハイキングコースは建長寺(ケンチョウジ)を起点に半僧坊(ハンソウボウ)、十王岩、大平山(オオヒラヤマ)を経て瑞泉寺(ズイセンジ)に抜けるという、少々健脚派向きの4km程のコース。
 半僧坊を過ぎると本格的な山道となる。チビは大丈夫かな?ちょっと心配だな。
チビ:大丈夫、大丈夫。ボクは健脚ニャ~。

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険しい山道

 命綱を付けて険しい山道を慎重に行くチビ。頑張れ!ガンバレ!ファイト!ファイト!
 大平山でさえ157mと標高の低い割には急坂やアップダウンが多く、鎌倉アルプスの異名(イミョウ)がある。



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もう歩くのヤダヨー!

 鎌倉市街地を一望できる茶屋に到着。市街地は東・北・西の三方を山で囲まれ、南は相模湾に面していて、鎌倉の町が砦の中にあるといった感じ。だから源頼朝はここ鎌倉に幕府を開いたんだな。

鎌倉に幕府を開いた理由
① 天然の要害 : 敵からの攻撃を防ぐのに便利。
② 南面が海 : 房総半島への緊急脱出が可能。
③ 先祖ゆかりの地 : 源氏山(白旗山)は源義家が兵を集めた場所。
④ 三浦半島が近い : 三浦半島には親衛隊の三浦一族がいる。
⑤ 京都から離れている : 権謀術策にたけた貴族たちから避けられる。徳川家康もこれに倣って京都から離れた江戸に幕府を開いた。

 案の定、チビはもうバテバテ。景色を眺める余裕さえない。「もう歩くのヤダヨー!」と目を吊り上げて訴えるチビ。 

(チビの日記!!チビのお出かけ 14)





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by chibi-papa | 2005-04-24 00:00 | チビのお出かけ  

♪7 箱根八里 17・04・19

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ここは箱根山

 パパ ここは箱根山。何と、大阪の天保山のなんと10倍の高さ・・・

 チビ な~んだ、戸山公園の箱根山じゃん。何かおかしいと思ったニャ~。

・・・でも、歌を唄いながら、楽しく登る。
♪ 箱根ノ山は天下の険~


 チビ 漢文調でちょっと歌詞が難しいね。

 パパ だけど、テンポがいいから歌うと元気がでてくるだろう~。

 チビ うん、行進曲調だね。ところでさ~、箱根八里の八里って、どこからどこを指しているんだろう?

 パパ 箱根ノ関を挟んで小田原宿・三島宿間の八里(8×4=32km)を指しているんだ。

 チビ 当時の旅人は、日の暮れる前までに険しい箱根ノ山を越えなくてはならなかったから、さぞかし大変だったろうニャ~。

 パパ そうだね。険しい山道を一日で32kmも歩くのは大変だね。

 チビ 関東は箱根ノ関より東だから関東(逢坂ノ関より西を関西)というんだニャ。なあるほどね。そして箱根ノ山は交通の難所だから「天下の険」(テンカノケン)と言うんだニャ~。

箱根山 : 新宿区で1番高い山。標高45m。尾張藩徳川家の下屋敷時代に造った回遊式庭園の池を掘った残土を積み上げたもの。

 天保山(テンポウザン) : 標高5mに満たない日本一標高の低い山。天保年間(第11代将軍・徳川家斉が治世の頃)、航路を確保するため大阪湾に接した安治川(アジガワ)の土砂を積み上げてできたもの。当時は高さ20mはあったという。

チャイナにも関東があった。山海関(サンカイカン)より西側を関内、東側を関外あるいは関東といった。かつて日本の租借地だった関東州や、そこに駐留した関東軍の名称もこれに由来する。

『 庭園に 箱根見立ての 山築く そうと思えば 足も軽やか 』 チビ  

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ここは戸山公園にある箱根山でした

 ♪ 箱根八里 (明治34年、1901年) 
 〔作詞〕 鳥居 忱(マコト) 〔作曲〕 滝 廉太郎
  
箱根ノ山は 天下の険 
函谷関も物ならず
万丈の山 千仞の谷
前に聳え(ソビえ) 後方に(シリエに)支う(サソう)
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼猶闇き(ヒルナオクラき) 杉の並木
羊腸の小径は 苔滑らか
一夫関に当たるや 万夫も開くなし
天下に旅する 剛毅の武士(モノノフ)
大刀腰に足駄がけ 
八里の岩根踏み鳴らす
斯くこそありしか 往時の武士


・ 函谷関(カンコクカン) : 中国河南省北西部にある、とても険しい関所。
・ 万丈(バンジョウ)の山 : 1丈は約3m。万丈の山は高さ約3万mの山。
・ 千仞(センジン)の谷 : 中国古代の深さの単位。1仞は両手を広げた長さ。千仞の谷は深さ千~2千mの谷。
・ 万丈の山、千仞の谷 : とても高い山にとても深い谷。
・ 羊腸(ヨウチョウ) : 羊の腸のように、山路などの屈折して険しいこと。
・ 小径(ショウケイ) : 半径。狭い道。
・ 一夫(イップ)(カン)に当たるや万夫(バンプ)も開くなし : 一人が関所を守っていれば、一万人がかかっても通れない。きわめて要害堅固(ヨウガイケンゴ)なこと。
・ 剛毅(ゴウキ) : 意志が強固で不屈。
・ 足駄(アシダ) : 高下駄(タカゲタ)のこと。
・ 斯く(カく) : このように。
・ 往時(オウジ) : 昔。

李白(リハク)の漢詩「蜀道難」の一節 「一夫当関 万夫莫開」 が歌詞に織り込まれている。「函谷関」は長安と洛陽の間にある難所要害で、箱根ノ関あたりの山道の険しさを、それに譬えている。

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箱根山は築山だった

 尾張徳川家の下屋敷(136,000坪)があった所で、箱根山は池を掘った際の残土を盛り上げた築山(ツキヤマ)
 戦時中は石井四郎・陸軍軍医中将率いる731部隊(ナナサンイチ ブタイ、細菌・化学戦研究のため生体解剖をおこなったという)の発祥の地でもある。戦後、戦犯容疑を受けるがアメリカ軍に研究資料を提供したため、訴追(ソツイ)を免れたという。
 また、731部隊の関係者が昭和25年に㈱ミドリ十字の前身・㈱日本ブラッド・バンクを創設し、その後、この会社は非加熱の血液製剤による薬害エイズ事件を起こし多数の死者を出した。平成12年、ミドリ十字の3被告(松下廉蔵、須山忠和、川野武彦)に実刑判決が下された。


 昭和23年、帝銀事件が発生した。使われた毒薬は青酸ニトリール。この青酸ニトリールは飲むと数分後に症状が出始めゆっくりと確実に死に至る特殊な毒薬で、当時こんな特殊な薬物を使える人物は731部隊以外にない。警察は731部隊関係者を捜査し始める。すると占領軍最高司令部(GHQ)から「即刻731部隊に関する捜査を中止せよ」との命令が出された。暫くして731部隊と全く関係ない画家の平沢貞通(さだみち、当時56歳)が逮捕され、死刑が確定する。だが刑の執行も釈放もされないまま、逮捕から死までの39年間を獄中で過ごした(冤罪を主張し続け、昭和62年、95歳で獄中死する)
なぜアメリカは731部隊の捜査を中止させたのか?それは、731部隊関係者を裁判にかけるとデータも公になって、ソ連に知られる恐れがあるからであった。

 731部隊の名称は、東京大学医学部がある「文京区本郷7-3-1」から名付けられたようだ。

 データの独占に成功したアメリカは、帝銀事件から2年後の昭和25年に勃発した朝鮮戦争に、731部隊の知識を活用した生物兵器を使用。さらに昭和35年からのベトナム戦争でも生物兵器を使用した。その証拠にベトナムでは一度も発生したことがないペストが流行した。

人間をマルタと呼び捨て生体実験に使ったのは731部隊だけでなく、現在でも功名心を満足させるため興味本位の生体実験をおこなう大学病院、あるいは金儲けのために合法的に生身を切り刻んだり、抗癌剤を飲ませるなどの医者がいる。そういう医者がいる病院は生体実験場あるいは人間の屠殺場と思って近づかない方がいい。

(チビの日記!!チビの愛唱歌 7)
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by chibi-papa | 2005-04-19 00:00 | チビの愛唱歌  

亀ヶ谷坂切通し(13)17・04・17 

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岩船地蔵堂

 亀ヶ谷坂切通し(カメガヤツザカ キリドオし)ハイキングコースは北鎌倉駅下車、長寿寺脇の亀ヶ谷坂切通しを抜けて、岩船地蔵堂、海蔵寺などを巡るコース。

 源頼朝の長女・大姫(オオヒメ)が兄のように慕っていた源義高(ヨシタカ、源義仲の長男)
を父・頼朝に殺されてしまう。そのことに悩み苦しみ拒食症になり14年後、満19歳の若さで亡くなった。この岩船地蔵はその哀れな大姫のお守り本尊といわれている。


岩船地蔵堂 : 型の後背(コウハイ)を持った石像()のお地蔵様があるおなので、この名がある。(木像のお地蔵様もある)
しかし、ここはもともと大姫の妹・乙姫(三幡、サンマン)の霊を祀ったところ。源頼朝は大姫を後鳥羽上皇の妃にすべく入内(ジュダイ)工作を進めてきたが、大姫が死去すると乙姫を次なる候補にする。そして入内を待つばかりになったところで、乙姫は大姫の後を追うかのように亡くなった。享年13。大姫が亡くなった2年後のことだった。

1180年、以仁王(モチヒトオウ、後白河天皇の第3皇子)から平家追討の命令を源頼朝と源義仲(木曽義仲ともいう)が受け、源頼朝は伊豆で、そして木曽義仲は信濃で挙兵した。しかし、源氏の大将は二人でなく源頼朝ということで和睦(ワボク)となり、その証として婿養子という名の人質として1183年に木曽義仲の子・義高は鎌倉に入った。義高11歳、大姫5歳の政略結婚であった。
ところが、木曽義仲は源頼朝より先に入京したもののあまりにも横暴だったので、後白河法皇は源頼朝に木曽義仲追討を命じた。そして源頼朝の弟・義経が1184年の正月に木曽義仲を滅ぼした。
そこで源頼朝は将来の禍根を絶つべく人質に取って置いた木曽義仲の長男・義高の殺害を決意する。その思惑を知った大姫は義高を女装させて鎌倉から逃がした。しかし同年4月、入間川にて追っ手に捕まり斬殺される。義高の死を知った大姫はショックから床に臥せるようになり、その後の縁談を断り義高への思いを胸に生涯を閉じた。

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花の海蔵寺

 花のお寺さん・海蔵寺(カイゾウジ)早速、八重桜の下で記念写真。

咲かせよう 悟りの花を 笑(サ)かせよう 悩みの種に 悟りの華を チビ

 ちょっと離れた所に「十六の井」がある。そこは洞穴(高さ2、5mで広さ8畳ぐらい)の中に縦横4列ずつ16個の窪み(深さは40~50cmぐらい)が並んでいて、清水を湛(タタ)えている。16個あるのは十六菩薩に供えるための功徳水(香水)
を得るためだったらしい。


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武田流の流鏑馬

 この後、化粧坂(ケワイザカ)→源氏山公園→銭洗い弁天→鎌倉駅へ。さらに鶴岡八幡宮で流鏑馬(ヤブサメ)を見る。

 
直線2町(約220メートル)の馬場を疾走する。チビは怖がってバッグの中に潜り込んでしまった。馬力のあるお馬さんはどうも苦手のようだ。


「やぶさめ」は疾走する上から的に向かって(かぶらや)を射すので流鏑馬と書く。

1187年に源頼朝がこの馬場で流鏑馬をおこなって以来、今日まで続いている神事。そして、この馬場は各地に通じていた鎌倉街道の起点でもあった。
流鏑馬神事は4月(武田流)と9月(小笠原流)におこなわれる。

(チビの日記!!チビのお出かけ 13)
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by chibi-papa | 2005-04-17 00:00 | チビのお出かけ