カテゴリ:チビのお出かけ( 294 )

 

「防災ノ日」と大川常吉 24・09・01

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鶴見神社

 大正12年(1923)9月1日の関東大震災。マグニチュード 7、9の巨大地震が襲った。それに因んで、9月1日を「防災ノ日」とした。
 地震発生時刻が昼食の時間帯と重なって、あちこちから火の手が上がり 折からの強風で多数の焼死者を出した。本所被服廠の跡地では火災旋風が巻き上がり、鎮火したのは2日後の9月3日であったという。

 ここ鶴見神社で犠牲者の冥福を祈ると共に防災を誓うのであった。鶴見神社の創建は1400年前の飛鳥時代だと伝えられている。境内には富士塚があり、縄文時代の貝塚も確認されている。ほら、チビの足元近くにも貝殻の破片が見てとれる。


大倉山駅近くの師岡熊野神社の創建は第58代・光孝天皇の頃(平安時代初期)と古いが、鶴見神社はそれより五百年以上も前の、第33代・推古天皇の頃(飛鳥時代)の創建。

本殿前の東西5~8m、南北10mの範囲に厚さ80㎝の貝塚層が良好な状態で確認されている。

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鶴見警察署

 鶴見警察署に呼び出されたわけではないニョ。ボクは泥棒猫なんかでニャい。関東大震災発生当時の大川署長を表敬訪問しに寄ったのニャ~。

 関東大震災は死者・行方不明合わせて10万5千余。さらにもう一つの悲劇はデマにより引き起こされた朝鮮人殺害事件であった。9月2日夕方、自警団が、不穏の動きをとる4人の朝鮮人を鶴見署に突き出してきた。
 翌日、状況は更に緊迫してきた。約3百名を総持寺から鶴見署内に移し保護。1千人を超える群衆がグルリと警察署を取り囲んだ。 「朝鮮人を出せ!」 と激昂する群衆。「朝鮮人に味方する警察なんて、叩き壊せ~!」 その声に扇動され殺気だつ群衆。

 大川署長(46歳)は覚悟を決めた。群衆の前に大きく手を広げて立ち塞がり、「このワシを信頼できんのか!」 と一喝。続けて 「もし、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだというなら、その井戸水を持って来なさい!諸君の前で飲んで見せよう!」。持って来たその井戸水をその場でグイと飲み干した。
 こうした署長の体を張った対応に落ち着きを取り戻した群衆は、徐々に引き上げて行った。こうして事態は収まったのである。

 その後、他の警察署で保護されていた朝鮮人も合わせて723人となった。安全を考えて鈴木商店所有の貨物船・華山丸に収容。希望者は神戸へと移送されて行った。


鈴木商店 : 戦前の財閥、商社。三井物産や三菱商事を遥かに上回っていた。当時のスエズ運河を通過する船の一割は鈴木商店所有といわれたほどだった。
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東漸寺

 後にインタビューに答えた大川署長は 「警察官の仕事は人の命を守ることが第一であって、当然の事をしたまでです」 と淡々と語ったという。
 大川署長は関東大震災から17年後の昭和15年に亡くなった。享年63。墓地は東漸寺。鶴見川を越えた潮田町3丁目にあるというので、潮鶴橋(しおつるはし)を渡り、潮田公園の先の東漸寺を訪ねた。


東漸寺(とうぜんじ) : 皇女・和宮が京から江戸に下って来る時に、使用された駕篭があるのは千葉県長生郡一宮町にある東漸寺。平成19年(2007)5月の 「上総一ノ宮」 も見てね。

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故大川常吉氏之碑

 昭和28年、大川署長のお墓の横に在日朝鮮人の方たちによって感謝の碑が建てられた。しかし、そこは墓地の一隅であり人々の目に触れ難い場所であったので、本堂正面向かって右手に移されたという。

 碑文
 「関東大震災当時流言蜚語により激昂した一部暴民が鶴見に住む朝鮮人を虐殺しようとする危機に際し、当時鶴見警察署長故大川常吉氏は死を賭してその非を強く戒め三百余名の生命を救護したことは誠に美徳である故私達は茲に故人の冥福を祈りその徳を永久に讃揚
(さんよう、褒め称えること)する」
 1953年3月21日 在日朝鮮統一民主戦線 鶴見委員会

 
 ・・・チビは顕彰碑の上から、遥か大川署長を偲んだ・・・
 
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入船公園

 悲惨な事件は、飛び交うデマによるパニックによって起こる。「混乱に乗じて、井戸に毒を投げ入れた」、「放火や強奪をして暴れまわっている」。だけでなく、「今夜、大きな地震がまた起こる」、「富士山が爆発する」 などのデマが飛び交ったことから、極度の不安に駆られた人々は暴徒と化したのである。
 こういった二次災害は災害時の正確な情報と理性によって、断じて防がなくてはならない。それにしても3・11の東日本大震災にみるように、政府、行政自体がマスコミを使って堂々とデマを流すようでは、どうしようもない。

 東漸寺の先の鶴見産業道路を越えたところに入船公園がある。防災を意識した公園である。草刈りを忘れないでね。ここで小休止。麦藁帽子を被っていると、漫画 『ワンピース』 の主人公・ルフィ にちょっと似ているね。チビは何か虫を追っているようだ。
 「防災ノ日」 にあたって、改めて二次災害を含めた防災を考えなければならないと、二百十日の大空を見上げながら思いを新たにした。


山本権兵衛内閣は治安回復に乗り出し、大正12年9月2日に東京全市および京浜地区に戒厳令を敷いた。戒厳司令部は、殺害された朝鮮人は233人で、過剰防衛として367人の日本人を逮捕したと公表した。

二百十日 : 立春(2月4日)を起算日として210日目で、9月1日にあたる。この日は台風の襲来が多いとされていることから、関東大震災の教訓と共に「災害への備えを怠らないように」との戒めを込めて、9月1日を「防災ノ日」と制定された。

工藤美代子著の『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版2009/12)によると、関東大震災時の朝鮮人虐殺はプロパガンダだという。
工藤美代子の夫・加藤康男の名で『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』が再刊(ワック文庫2014/8)されている。
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by chibi-papa | 2012-09-01 22:55 | チビのお出かけ  

戦没動物の慰霊 24・08・15

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靖国神社 大鳥居

徴発で 召集された 馬や犬 霊を見守る 梟と吾(チビ)

徴発(ちょうはつ) : 軍需物資を国民から強制的に集めること。
(フクロウ) : 動物の霊を見守ってくれる象徴。

 ボクは動物を代表して、戦場で散った軍犬・軍馬などを慰霊しに千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れた。その足で、靖国神社の大鳥居を潜った。

駆り出され 動物たちも 戦場に 戻れた数は ただ一二のみ (チビ)

100万頭の軍馬が再び故国に戻れたのはほんの僅か。運よく内地に戻っても、食肉業者に一括払い下げ。
軍馬甲功賞を受賞した勝山号は奇跡的に昭和20年10月17日、岩手県江刺の飼い主の許に帰郷できた(2年後、戦傷が原因で死亡)。無事故郷に戻れた軍馬は、勝山号1頭だけだったかもしれない。

 靖国神社の神門を潜った瞬間、守衛からつまみ出されてしまった。
 千鳥ヶ淵戦没者墓苑では多数のSP、警官らが警備していたが、締め出される雰囲気すらなかった。懇ろに献花。思いは先の大戦で犠牲となった動物への慰霊である。
 摘み出された後、大鳥居の所に戻って、そこで深く哀悼の意を表す。軍犬・軍馬・軍鳩(ぐんきゅう)。それに動物園で殺処分された象や豹。サーカスの虎や熊たちよ、どうか安らかに。どうか安らかに。


慰霊には 人あらずんば来るでない 万物の長とはこんなもの (チビ)

上野動物園に対しては、都長官から戦時猛獣処分命令が下された。猶予期間は1ヶ月。それは全国の動物園に広がっていった。また飼料不足も重なり、多数の飼育動物が死んでいった。
気性の穏やかなインド象のトンキーは絶食開始から30日後の昭和18年9月21日、力尽きついに大きな体が崩れ落ちた。
・象(ゾウ) : 毒餌を吐き出してしまうので、餓死させる。
・豹(ヒョウ): 毒餌を食べようともしないので、ワイヤーで絞殺。
・月輪熊(ツキノワグマ) : 薬殺。
・黒熊(クロクマ) : 投薬のうえ槍で刺殺。
・ニシキ蛇 : 生餌しか食べないので薬殺不能、刃物で頭部切断。
都長官 : 昭和18年から22年までの東京都の首長(官選)。昭和22年5月からは選挙による東京都知事が首長となる。
サーカス団に対しては、警視庁から猛獣類処分命令が下された。猶予期間1週間。
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by chibi-papa | 2012-08-15 23:00 | チビのお出かけ  

磯野家の人々 24・08・13

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フグ田家(サザエ、タラオ、マスオ)

 東急・田園都市線の桜新町駅前にサザエさん一家の銅像が設置されている。漫画 『サザエさん』 の原作者・長谷川町子(1920~1992、享年72)が居住していたこともあって長谷川町子美術館がある。駅と美術館を結ぶ商店街は 「サザエさん通り」 と名付けられ、あちこちにサザエさんのイラストがある。

 サザエさんはマスオさんと結婚していて、専業主婦。タラちゃんの母。27歳。旧姓は磯野。波平とフネの長女でカツオとワカメの姉。頭の前頭部と左右の側頭部にパーマをかけたような髪型が特徴。性格はそそっかしいが明るい。
 生真面目(きまじめ)で不器用なフグ田マスオさん(32歳)は、髪型はオールバックでメガネをかけている。マスオさんは婿養子ではなく、フグ田家として磯野家に同居している。
 タラちゃん(2歳)は、いろいろなことに興味を示し、おとなしく物分かりの良いいい子。年齢的にまだ幼稚園に通っていない。


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磯野家(波平、カツオ、ワカメ、フネ)

 波平の祖父は幕末の福岡藩士・磯野藻屑源素太皆(いその もくず みなもとノすたみな) で源氏の系統の黒田武士。
 波平は福岡生まれの世田谷に住む54歳。双子の兄に海平(本家を継いで福岡にいる)がいる。妹になぎえがいて波野家に嫁いでいる。なぎえの子がノリスケで、タイ子との間にイクラちゃんがいる。


 禿げ頭に頂頭部に1本だけある髪の毛がトレードマーク(兄の海平には2本ある)の波平、かなりの頑固者でやや短気。それでいて怒ったことをすぐ忘れる。酒好きであるが酒癖は悪いほう。アニメでは山川商事に勤める事務職の課長で、会社は銀座の晴海通り沿いにある。趣味は盆栽、囲碁、俳句など。
 フネ(48歳)は常に和服に割烹着姿で、髪は後ろで一つに結っている。趣味は芝居見物。お酒は全く飲めない。

 丸刈りのカツオはサザエさんの弟で、11歳の小学5年生。運動神経が良い。無類のいたずら好きで勉強嫌い。口達者で外面がいい。
 おかっぱをアレンジしたような髪型をしているのはワカメ。サザエさんの妹で、7歳の小学1年生(アニメでは小学3年生の設定)。性格も原作とアニメではかなり異なっている。


 タマがいないニャ~。木にでも登ってるのかニャ~?

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ちょっと一休みするニャ~

 漫画の世界も四半世紀が経ったとすると、磯野家の人々の年齢は、磯野波平79歳、妻:磯野フネ73歳、長女:フグ田サザエ52歳、長男:磯野カツオ36歳、磯野ワカメ:32歳になっている。それにサザエさんの夫のフグ田マスオは57歳、そしてあのタラちゃんは27歳になっている。日本男子の平均寿命が79.44歳(女性は85.90歳)であることからすると、磯野家にいつ相続が発生しても不思議ではない。そうなると世田谷区桜新町に自宅を持っているので、相続税が気になるところである。
 波平が病死したとすると、法定相続人はフネ、サザエ、カツオ、ワカメの4人ということになる。基礎控除額は5千万円+法定相続人の数4人×1千万円=9千万円。これ以上の相続財産があれば相続税の申告をしなければならない。
 長谷川裕雅著の 『磯野家の相続』 と 『磯野家の相続税 』 (すばる舎発行)を参考に、相続について以下考えてみることにする。
(書きかけ中)
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by chibi-papa | 2012-08-13 23:00 | チビのお出かけ  

緯度1分の値 24・08・11

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富岡八幡宮・日本最大の神輿

 今日11日(土曜)から15日(水曜)まで富岡八幡宮(とみおか はちまんぐう)の例大祭。とにかく賑やか。
 この神輿(みこし)は単に大きいだけでなく、いたるところにダイヤなどが使われているという豪華なもの。どこにダイヤが・・・警備員の目が光っている。


例祭は深川祭と呼ばれ、神田祭(神田明神)、山王祭(山王権現)と並んで江戸三大祭に数えられた。1807年(第11代家斉の治世)、見物客で隅田川に架かる永代橋が崩れ落ち、1.500名が死亡した。

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富岡八幡宮・伊能忠敬像

 お祭りの陰に隠れていても、ひたすら歩く人、伊能忠敬(いのう ただたか)。測量で歩いた歩数は5千万歩(およそ地球1周分の距離)。それも55歳から(71歳まで)だというから驚いちゃうニャ~!

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伊能忠敬居住跡をスタート

 隠居した伊能忠敬は江戸に出て深川黒江町(現:門前仲町1-18)に住み、ここでも天体の観測ができるようにした(北緯35度40分30秒と測定した、正しくは28秒、その差たったの2秒)。そして、ここから直線距離で3キロ北の浅草天文台の高橋至時(たかはし よしとき)の許に毎日通った。伊能忠敬が歩いた道は 『黒江町・浅草測量図』 として残っている。その道に沿って追体験してみよう!レッツゴー!

 沿道には神輿の担ぎ手に掛ける水を用意している箇所が見受けられた。子供たちがその役割のようだ。三年に一度の本祭り、町は祭り一色。
 塩でなく 「水」 撒いておくれ!わっしょい、わっしょい。ソ~レ ソレ ソレ お祭りだ~。


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採茶庵跡で芭蕉と出会う

 松尾芭蕉はそれまで長年住みなれた芭蕉庵を手放して、芭蕉の門人の別宅であった採茶庵(さいとあん)に厄介になっていた。元禄2年(1689)、45歳の芭蕉は曾良(そら)を伴って、東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅をした。 採茶庵は仙台掘川の横にあったので、ここから舟で隅田川をさか上り千住まで行く。舟を降りて一句。

行く春や 鳥啼き魚の目は泪』(芭蕉)

 これを矢立(やたて)の初めの句として、全行程600里(2,400km)を約150日かけた紀行文集が「奥の細道」である。
 芭蕉から百年後、伊能忠敬は採茶庵の前を毎日通っていた。その二百年後の今、チビとチビパパは伊能忠敬と同じ道のりを歩いている。
 旅立ち姿の芭蕉と別れ、我々は蔵前にある浅草天文台を目指す。奥の細道の600分の1(2,400÷4=600)でしかないが・・・


黒江町の自宅から浅草天文台までの実測は4,075m。角度調整後の子午線上では2,928m。

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浅草天文台跡がゴール

 この案内板は蔵前1丁目の交差点の角にある。案内板によると天文台(暦局、司天台)は、浅草蔵前(現:浅草橋3丁目21、22、23、24の全域と3丁目19、25、26の一部)にあって、天文・暦学を学ぶためここにいた幕府天文方の高橋至時に弟子入りした。時に伊能忠敬50歳、高橋至時31歳。

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中央下に、天文屋敷測量所と書いてある所が、浅草天文台。
右下に、幕府の米蔵があったことからこのあたりの地名は蔵前と付けられた。米蔵の用地は1620年に鳥越の丘(白鳥山)を削り、その土砂で隅田河岸を造成した。蔵の数は67棟。63万俵(37,500トン)の幕府備蓄米と旗本・御家人への給料米を収納した。

 浅草天文台は1782年、牛込藁店(うしごめ わらだな、現:新宿区袋町)から移転してきた。本来は暦を作る役所の施設で、正確な暦を作るためには天体を観測する必要があった。その規模は周囲93.6m、高さ9.3mの築山の上に、5.5m四方の天文台が築かれ43段の石段があったという。 

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左上は浅草天文台の立体図。左下はその平面図。
右は葛飾北斎の「富嶽百景」の中の「鳥越の不二」。背景に富士山、手前には渾天儀(こんてんぎ、天球儀のことで天体運行の観測器械)を据えた浅草天文台が描かれている。
描かれている人物は、伊能忠敬でも高橋至時でも高橋景保でもない。その後の人物だろう。
「鳥越の不二」としているのは、近くに鳥越神社があることから付けられた。

 高橋至時の死後、父の跡を継いだ高橋景保(たかはし かげやす)の進言により、1811年、天文方内に「蕃書和解御用」(ばんしょわげごよう)という外国語(特にオランダ語)の翻訳局が設置された(変遷を経て現在の東京大学に繋がっている)。  
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駒形堂(右奥の水色の橋は駒形橋)

 伊能忠敬は自宅の深川黒江町(北緯35度40.5分)と暦局(北緯35度42分)の距離(角度調整後)を28町(1町=109m、28町=3,052m)とした。それを基に緯度1度を距離を出すと、122kmとなってしまう。これは方角を正確に補正できなかったので正確な距離が測定できなかったことと、緯度をもっと精緻に測れなかったことによる。

 師匠の高橋至時に相談すると、そんな小さい北緯の差や距離から緯度1度を算出するのは無理だといわれ、蝦夷地測量(第一次測量)を決意するのであった。その翌年1801年(忠敬56歳)の第二次測量(本州東岸)の結果、緯度1度の値を28.2里と算出。1802年の第三次測量(羽越)でもやはり28.2里(1里は3.9273kmなので、110.75km)とした。正解は110.99kmなので、誤差はたった240m。

地球が真円だとしたら、今はパソコンで緯度1度の値を簡単に求めることができる。
(1)自宅(門前仲町1-18)の緯度と経度をメモる
 北緯35度40分28秒、東経139度47分39秒
(2)暦局(浅草橋3-22)の緯度をメモる
 北緯35度42分3秒
(3)東経139度47分39秒上の北緯35度42分3秒の地点を特定し、自宅との距離をメモる 2,928m→2.928km
(4)緯度の差
 35°42′3″ー35°40′28″=1′35″→1.583分
(5)緯度1度の値は 1度は60分なので、 
 2.928km×60分÷1.583分=110.98km
因みに地球の円周は110.98km×360度=39,953km→約4万km
 
 暦学者の間で地球の大きさが話題になっていることから、緯度1度の長さをより正確に測ってみようということで蝦夷地に出かけたが、幕府の許可を得るための建て前は、地図の作成のための測量であった。最初はほとんど自費負担だったが、地図が正確なため、だんだん幕府から支援を得られるようになった。とうとう国家的事業となって、日本地図を作り上げてしまったのである。
 明治17年から近代地図に順次置き換えられ始め、最後の種子島、屋久島の地図が置き換えられたのが昭和4年だった。伊能忠敬が亡くなってから何と最大111年間も使用されたことになる。

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by chibi-papa | 2012-08-11 23:00 | チビのお出かけ  

長崎原爆ノ日 24・08・09

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東海寺・原爆犠牲者慰霊碑

 慰霊碑の左側には長崎の下ノ川の護岸石が、右側には広島の御幸橋の歩道の縁石が添えられている。いずれも被爆した石である。
 下ノ川が流れる松山町は昭和20年8月9日午前11時2分に原爆が炸裂した中心地である。当時この町には約300世帯1,860人余が生活していた。原爆は松山町上空500mで爆発、巨大な火の玉となり、数百万度の熱線と放射能と爆圧はあらゆる物を一瞬にして破壊し汚染した。町内にいた者は、偶然にも防空壕にいた9歳の少女一人を除き全員が死亡。町の東部を流れるこの下ノ川は水を求めそこで力尽きた者で埋まっていた。川の水も流れることができないほどに。

 現在の護岸には被爆当時の石が用いられている。これは昭和59年から60年にかけて河川改修に伴ない、被災資料として現在地とここ慰霊碑の脇に留め残された。長崎市から寄贈されたここの護岸石は爆心地から100mの距離にあったもので、熱線による剥離が見られる。


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このまま忘れ去られるか

護岸石 枯れた献花に何思う 今にも語る護岸石かな (チビ)

 あれから67年後、民主党(野田佳彦首相)、自民党(谷垣禎一総裁)、公明党(山口那津男代表)の3党合意で、原子力基本法に原子力の利用は我が国の安全保障に資すると入れて、原爆製造を伴う核による自衛の道を開いた。

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史跡めぐり広場・展示スクリーン

 東海寺の参道脇には36階建てのタワーコート北品川が建っている。かつては広大な境内を誇ったが・・・
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by chibi-papa | 2012-08-09 23:00 | チビのお出かけ  

伊能忠敬24・07・22

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源空寺に眠る伊能忠敬

 源空寺(げんくうじ、東上野6-19-2)の源空は法然上人の諱(いみな)で、徳川家康から源空寺の号を与えられた。1636年、第3代・家光は神君家康公と第2代・秀忠の供養のために寺に銅鐘を寄進している。第4代・家綱が治世の1657年に起きた明暦ノ大火(振袖火事)によって、湯島からここに移転してきた。
 伊能忠敬(いのう ただたか)が1818年に亡くなった(享年73)とき、遺骸は遺言により高橋至時(たかはし よしとき)の墓と並べて葬られた(髪と爪は佐原の伊能家菩提寺・観福寺に)


法然上人(ほうねん しょうにん、1212~1133) : 平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、浄土宗の開祖。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できると説いた。

 伊能忠敬(幼名は三治郎)は1745年、小関村(こぜきむら、現:九十九里町片貝)の名主・小関家に生まるも、6歳の時に母を失う。婿だった父は子がありながら離縁となり兄と姉を連れて、父の実家(名主・神保家)の小堤村(おんずみむら、現:横芝光町、小関村とは15km離れている)に帰る。10歳になった時に父が迎えに来る。そして17歳で佐原の伊能家に婿入りすることとなった。
 酒造業(造酒高1200石)を営んでいる伊能家では、子持ちの4歳年上のミチが待っていた。伊能忠敬は造酒高を1400石台に増産するとともに多角化経営によって、隠居する49歳までの32年間に家産を20倍くらいにした(家産3万両、およそ45億円に)。凄腕の商人であった。

 伊能家の一門には隠居後、佐原村の古記録を集め史料 『部冊帳』 (ぶさつちょう)を編纂した者とか、隠居後に出府(しゅっぷ、江戸に出ること)して賀茂真淵(かもノまぶち、1697~1769)門下の国学者として名を成した者がいる。これら先輩の影響を受け、伊能忠敬は息子に家督を譲ると出府して、天文・暦学を学ぶため幕府天文方・高橋至時に弟子入りするという道を選んだ。ここから伊能忠敬の第二の人生が始まるのである。それも思いがけない方向に進展するのである。

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伊能忠敬の雅号は東河

 伊能忠敬が38歳の時、21年間連れ添ったミチが亡くなった。その後、45歳の時にお信を迎えた。お信の父は仙台藩の江戸詰めの上級藩医で、幕閣の一人と強い繋がりがあった。そんな関係で、寛政ノ改暦のため天文方に新たに召し出された高橋至時と娘婿の伊能忠敬を結びつけたのであった。かくして50歳にして江戸に出て高橋至時の弟子となる。高橋至時と巡り会ったことは実に幸運であった。その第二の人生の滑り出しを見届けるかのように、お信は亡くなった。

 忠敬は富岡八幡宮の近くの自宅(深川・黒江町、現:門前仲町1丁目)に天体観測所を設け、ここから浅草の蔵前(現:浅草橋3丁目)にある天文方(暦局)の高橋至時の許に通って天文・暦学を学んだ。
 勉強しているうちに、暦学者の間で地球の大きさが話題になっていることを知った。自宅の黒江町は北緯35度40分半、暦局の北緯は35度42分、その差は1分半であることは分かっていたので、あとは黒江町と暦局の南北の距離を測れば緯度1分の長さが計算できる。そうすれば地球の円周が分かるはずだと考えた。歩測によって求めた測量図が今でも伊能家に残っている。それによると、28町(1町=109m、28町=3.052km)

 師匠の高橋至時に測量図を見せながら、緯度1度の値は122km(3.052km×60分÷1.5分=122km)。よって地球の大きさは360倍した43,920km(正解は4万km)であると開陳したのだろう。これに対し師匠からは、自宅と暦局の間を測って地球の大きさを決めるのは、いくらなんでも大雑把すぎる。もっと長い距離、たとえば蝦夷地あたりまで測れば妥当な値が得られるかもしれない。といわれ、それじゃ蝦夷地までの距離と緯度を測ってきます。自費で行きます。ということになった。

 早速、お信の父が幕府要路への工作にあたった(この時、すでに娘・お信は亡くなっていたが)。そしてやっと測量許可の書付(かきつけ)を手に入れることができた。その書付には、
1.身分は元百姓で浪人(知行所から苗字帯刀を許されているから)
2.測量試みとして認める(あくまでも測量の試行である)
3.手当は1日7匁5分(図らずも180日分で22両2分の補助金がつくことになった)
この書付の他に、人馬については、旗本から宿駅に対し便宜を図るようにとの紹介状も渡された。実際は緯度1度の長さを測ることを目的としていたが、建て前はあくまでも蝦夷地までの地図の作成。幕府との折衝に時間がかかったが、ともかく決まった。
 出発は1800年6月11日早朝、内弟子3名と下僕2名を連れて富岡八幡宮に参拝。伊能忠敬55歳、蝦夷地(北海道根室付近)へ向かう。


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高橋至時の雅号は東岡

 高橋至時(1764~1804)は大坂城代を補佐する城番(定番)の同心の子として生まれ、14歳で父の後を継いで大坂城番同心となったが、天文・暦学を当代随一の麻田剛立(1734~1799、あさだ ごうりゅう)に学んだ。門下第一の俊才といわれた高橋至時は、寛政ノ改暦(1798)のために、師匠の麻田剛立に代わって幕府から召し出され、天文方に抜擢された。

大坂城代 : 大坂城を預かり、西国大名の監視および城の警護等にあたった。城代を補佐していたのが城番で、京橋城番と玉造城番がそれぞれの虎口警備にあたっていた。

麻田剛立 : 豊後国杵築藩(現:大分県杵築市)の藩医。独学で天文学を学んだ。1763年の日食を予言した。オランダから輸入した反射望遠鏡で月面観測図を記す。ケプラーの第3法則を我が国に伝わる前に独創していた。月のアサダクレーター(直径12kmの笑窪)は、麻田剛立に因んで命名された。

 高橋至時が31歳の時、19歳年上の伊能忠敬が弟子入りしてきた(1795)。高橋至時は理論家であり指導者で、観測方法の確立に努めたり、測定器を開発した。その理論と指導を忠実に実践したのが伊能忠敬であった。実際、伊能忠敬はおそろしいばかりの熱心さで蝦夷地往復3,200kmの道程を180日かかって歩測し、測量し、恒星の緯度を測った。それを江戸から見守っていた高橋至時・・・。高橋至時あっての伊能忠敬であった。

 高橋至時は 『ラランデ暦書管見』 11冊の翻訳をやり遂げたが、その時の無理が祟って1804年、39歳の若さでこの世を去った。長男・景保(かげやす)が父・至時の跡を継いで幕府天文方となった。伊能忠敬の死後、その測量に基づいて 『大日本沿海輿地全図』 (輿地=よち、大地のこと)を完成させた。

 楽隠居も良いかもしれないが、第二の人生の生き方として、伊能忠敬の生き方を参考にしてみるのもいいだろう。

参照 『伊能忠敬の歩いた日本』 渡辺一郎著 ちくま新書 1999年
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by chibi-papa | 2012-07-22 23:55 | チビのお出かけ  

電池の屋井先蔵24・07・22

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神吉町会館

 江戸時代、幡随院門前(ばんずいいんもんまえ)と呼ばれていた浅草神吉町は明治2年に成立。郡区町村編制法によって明治11年、浅草区と下谷区が設置された際、浅草区の所属となった。昭和18年に浅草区と下谷区の境界が変更になった際にはその一部が下谷区に編入されて、下谷神吉町と呼ばれるようになった。
 戦後の昭和22年、浅草区と下谷区が合併して台東区となり、昭和40年の新住居表示により東上野となり現在に至っている。神吉町の名はここ神吉町会館(かみよしちょう かいかん)として残っている。


 幡随院門前→浅草神吉町→浅草区 (浅草)神吉町→下谷区 (下谷)神吉町→台東区東上野 

 明治43年(1910)、(浅草)神吉町に乾電池工場を建設。本格的量産にとりかかり、現在の乾電池のスタイルを確立した。乾電池を発明した屋井先蔵(やい さきぞう)は 「乾電池王」 とまで謳われるようになった。しかし屋井先蔵を偲ぶものは何も見つけることができなかった。

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会館内

 屋井先蔵は明治維新の4年前の1864年、越後は長岡藩士の家に生まる。5歳で父が他界したため叔父に引き取られる。13歳で東京日本橋の時計店の丁稚になるも、病気のため帰郷。地元の時計店で年季奉公を勤め上げた後、永久機関を発明しようと再び東京に出る。永久機関は不可能だと諭され方向転換。
 明治22年(1889)電気時計を完成。そして明治25年、ついに乾電池を完成させた。その翌年(明治26年)、シカゴ万博に乾電池を使用した地震計を出品。明治27年(1894)からの日清戦争では、携帯型通信機の電源として屋井乾電池が使われた。従来の液体型の電池では極寒の満州では氷結してしまう。号外には「乃木希典少将、満州海城を攻略す」に続いて、「厳冬の戦地で大活躍!世界一の“屋井乾電池”厳寒の地でも氷結せず」の活字が躍った。翌日の紙面でさらに詳しく報道され、特集が組まれた。


 ・明治18年浅草七軒町の裏長屋で試作開始(明治25年、屋井乾電池合資会社の看板を掲げ製造を開始)→・西黒門町(少し広い場所に移転)→・明治43年神田錦町(本社屋)浅草神吉町で量産体制に入る→・大正2年下谷日暮里(大正12年の関東大震災で工場が焼失、再建するも又もや火災により焼失)→・川崎並木町(斬新な大工場を建設、昭和2年 胃癌により死去、享年63)→・後継者に恵まれず、いつしか乾電池工業会の名簿から消える。

 発明家になるんだと、親戚一同の反対を押し切って上京を決意。三国峠を越え、残雪の残る山肌を振り返った時、それが白い躑躅(ツツジ)のように見えたという。故郷のことを忘れることのないよう、都内の自宅に白い躑躅を植え生涯愛でたという。
 先人未踏の道を情熱で切り開き、幾多の困難を夢見る力で乗り越えた発明家・屋井先蔵。せめて神吉町内会のどこかに、白いツツジで囲んだ案内板が設けられていたらと思う。


参照 「乾電池王」屋井先蔵の生涯 『白いツツジ』 上山明博著 PHP研究所出版 2009年
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by chibi-papa | 2012-07-22 23:00 | チビのお出かけ  

東村山菖蒲まつり24・06・23 

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新宿駅東口

 吠えるときはね、こうやって思いっきり大きく口を開けるんだよ!

 西武新宿駅までちょっと離れている。西武新宿線を高田馬場駅から新宿駅東口付近へ乗り入れる計画があって、その手前を仮駅として開業(昭和24年?27年?)した。その後、計画が頓挫し、昭和52年に駅ビル(プリンスホテルなど)が完成し、そこを本駅とした。だから新宿駅からちょっと離れている。でも新宿の街中を歩くのも楽し。

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北山公園の花菖蒲

 東村山の北山公園は、西武新宿線・東村山駅から歩いて15分、八国山緑地(はちこくやまりょくち、映画「となりのトトロ」のモデルとなった)の麓に位置している。一面に菖蒲田が広がり10万本が花をつける。公園の敷地の西側には田圃がある。隣接する北山小学校の授業で使われる田圃だという。

 長閑(のどか)な中の 花菖蒲 江戸紫に 京紫 (チビ)

 ここら一帯はもともと水田地帯であったが、昭和47年頃から不動産業者による開発が始まった。これに対し、東村山市は土地を業者から買い戻して北山公園とし、花菖蒲の植栽を始めた。そして昭和57年、「新東京百景」に選ばれるまでになった。

昭和47年というと、田中角栄通産相が「日本列島改造論」を発表した年。

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弁天池公園

 市内をぶらぶら散策する。
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by chibi-papa | 2012-06-24 16:22 | チビのお出かけ  

行徳~鳥越24・06・10

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行徳・押切稲荷神社

 地下鉄東西線の快速電車に乗った。行徳駅は快速は止まらないので、浦安駅で各駅停車に乗り換えた。
 駅前通りを旧江戸川に向かって行くと右手に押切稲荷神社の本殿が見える。ここ押切の地を鎮守するこの神社は、今からおよそ350年前の江戸初期に鎮座されたが、度々の津波などで破壊されてしまった。そこで、御尊体はここ東葛飾郡押切村から対岸の南葛飾郡下鎌田村(現:江戸川区瑞江1-18-1)の長寿院(明治初期に廃寺となり現在は跡地に豊田神社が建立されている)に預けられることになった。それが大正2年に戻って来た。良かった、良かった!でも翌年の大津波は大丈夫だったのかニャ~。


 拝殿の右隣には千寿銀杏といって高さ20メートル、幹周6メートル以上もある巨木(市川市指定の保存樹木)がある。

江戸湾の津波
・1651年(慶安4年):第3代将軍・徳川家光の治世の時
・1680年(延宝8年):第4代将軍・徳川家綱の治世の時
・1791年(寛政3年):第11代将軍・徳川家斉の治世の時
・1914年(大正3年):今から98年前にも発生したとある。
1855年(安政2)の安政江戸地震の時の津波はどの程度だったのだろう?
因みに東京直下地震が発生した場合、最大津波を2.6メートルと想定している。地下鉄が水没する可能性大。

東葛飾郡押切村
・明治22年:湊村、欠真間村などと合併して南行徳村となる
・昭和12年:南行徳町となる
・昭和31年:市川市に編入

 南葛飾郡下鎌田村
・明治22年:二之江村などと合併して瑞穂村となる
・大正02年:一之江村と合併して瑞江村(瑞穂のと一之江ので瑞江)となる
・昭和07年:小松川町、小岩町、松江町、葛西村、篠崎村、鹿本村と合併して江戸川区が誕生し、東京市に編入
・昭和18年:東京都制の施行

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行徳・光林寺

 旧江戸川堤防に出る。ちっちゃな湊水神宮がある。押切排水機場がある。ここら一帯は土地が低く自然排水が不可能なので、行徳地区と浦安地区合わせて26ヶ所の排水機場で守られている。

江戸川放水路
・大正05年:江戸川放水路の開削着工
・大正08年:江戸川放水路完成
・昭和40年:江戸川放水路が江戸川となり、元の流れは旧江戸川と呼称変更

 ところで徳川家康が江戸城に入って(御打入り)すぐに手をつけたのが、江戸城の大増改築と塩田開発だった。行徳の塩は新川→小名木川の運河を通って江戸に運ばれた。

1590年7月13日、豊臣秀吉によって徳川家康は関八州へ転封された。家康は江戸を本城と定め8月1日、江戸御打入り(おうちいり)した。

行徳の特産品は塩であった。JR京葉線・市川塩浜駅、塩浜1丁目~3丁目、塩美橋にその面影が残る。
 1590年:徳川家康、江戸城 御打入り
 1591年:塩浜開発のための下付金1,000両
 1595年:塩浜開発のための下付金3,000両
 1596年:塩浜開発奨励として5年間の年貢免除
 1600年:関ヶ原の戦い
 1632年:行徳・江戸小網町間12、6kmの航路開通

 光林寺は室町末期の創建と伝えられているが。江戸後期の寛政3年や大正3年の大津波などで過去帳や古文書が流失してしまい、詳しいことは分からない。
 大津波があったのニャ~。東京湾内にも大津波があったのニャ~。房総半島で守られていると油断していてはいけない。油断大敵、油断大敵!


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2k540商店街

 日本橋駅で東西線から銀座線に乗り換えて、末広町駅で下車。ここから鳥越神社に向かう。昨日と今日は鳥越神社の祭礼だ。途中、JRのガード下に商店街があるのに気がついた。何だ、何だ!
 ここは東京駅から線路の距離で2,540メートルの位置。そのJR高架下に人気カフェ、個性的な雑貨店などが並んでいる。


鉄道駅を財産とするJRは本業の輸送業外のマーケティングで俄然優位な立場に立つ。「駅ナカ」を定着させたJRは、大宮駅や立川駅で食堂街 『ecute』 (駅+cute=エキュート)を成功させ飲食業でも業界屈指の売上げを誇る。さらに開拓の矛先は高架下の空間まで伸び、新たなビジネス空間が生まれた。高架下では有楽町や新橋のように成功した例はあるが、秋葉原・御徒町間 (AKI-OKA) の高架下はこれまで手付かずだった。

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鳥越まつり

 神田明神と浅草三社に挟まれる浅草南部の鎮守様が鳥越神社で、創建は651年(飛鳥時代中期)といわれ、日本武尊が祀られている。参拝する長蛇の列に目が点のチビ。

日本武尊(やまとたけるノみこと)が東夷征伐(とういせいばつ)の折に、この里へ暫く留まったことから、村人はその威徳を慕って小高い白鳥山に白鳥明神として奉祀(ほうし)した。
鳥越の地名は、源義家が前九年ノ役(1051~1062)で、奥州安部氏の反乱を鎮撫できたのは白鳥明神の加護によるものだとして、ここを鳥越と命名した。
その後、江戸時代に入って、白鳥山を取り崩し隅田河岸を造成した。そしてそこに幕府備蓄米の蔵を建てた(蔵前の地名の謂れ)

 ワッショイ!ワッショイ!そ~れそれそれお祭りだ!今朝、神社を出た本社神輿は夜になって戻って来る。この宮入りが「鳥越ノ夜祭」と言われるもので、宵闇を背景にした幻想的な光景は下町の初夏の風物詩になっている。

 それを見ずに戻ることになった。ここから銀座線・浅草駅まで歩こう!チビはパパに肩に飛び乗る。ワッショイ!ワッショイ! 

「ワッショイ」の語源
 皆で神輿を背負って和むという意味で、「和を背負う」→「わしょう」→「わっしょい」となった。また、古代ヘブライ語では「神を誉め讃えよ」という意味になるらしい。そして神輿は契約の箱「アーク」を真似たとも謂れている。

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御茶目なチビ

 顔出し看板を見つけたゾ~。ここから顔を出すんだニャ。どれ、どれ!?
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by chibi-papa | 2012-06-10 23:00 | チビのお出かけ  

24・05・26 花園神社祭礼

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花園神社

 新宿駅より徒歩7分。花園神社の例大祭は毎年5月28日に一番近い土、日、月曜日に行われる。今日は土曜日。
 徳川家康が江戸にお打ち入りした1590年には既に存在していたようだ。その後、宿場町・内藤新宿が開かれると 『四ツ谷追分稲荷』 と呼ばれるようになった。
 それまで現在の伊勢丹本館あたりにあったが、第11代将軍・徳川家斉が治世の頃、そこから北に250メートルの現在地に遷座した。その場所(尾張藩下屋敷の庭の一部)が花が咲き乱れていた花園だったことから 『花園稲荷神社』 と呼ばれるようになった。そして昭和40年、現在のコンクリート製の本殿に建て替えた際に、『花園神社』 に改められた。
 2年前、屋根の改修が行われた。お化粧直しをした本殿の前でパチリ。


 本殿の向こうには全く別の世界がある。都会に残ったバラック街「新宿ゴールデン街」が隣接している。戦後に建てられた木造長屋建ての店舗が狭い路地を挟んでマッチ箱のように並んでいる。
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by chibi-papa | 2012-05-26 23:00 | チビのお出かけ