藤沢白旗神社と源義経(182) 21・02・07

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白旗神社 社殿

 源氏の旗である白旗に因む白旗神社(しらはたじんじゃ)は、鎌倉幕府があった神奈川県を中心に関東・東北・中部地方に約70社ある。鶴岡八幡宮の境内にある白旗神社は源頼朝と源実朝を、源頼朝墓所の石段下にある白旗神社は源頼朝を、そして藤沢市にあるこの白旗神社は源義経を祀っている。

源頼家(第2代将軍)を祀っている白旗神社はない。
三浦市の白旗神社は源頼朝の挙兵に参加した和田義盛(よしもり、初代侍所別当)が祀られている。

 社殿の幕に紋が入っている。この紋は竜胆の花に葉をあしらった 「笹竜胆」。竜胆の葉が笹に似ていることから 「ささ りんどう」 といわれていて(笹と竜胆の合成模様ではない)、これは清和源氏と呼ばれる源氏一族の家紋。

 竜胆で 「りんどう」 と読む。これは 「りんどう」 の根が胆汁のように苦く、その苦味が中途半端でないので、強調の意味で「竜」の字を冠している。竜胆は濃紫(こむらさき)の花を咲かす、と言えば島倉千代子の 『 りんどう峠 』 が口をついで出てくる。

♪ りんどう峠
〔作 詞〕 西條 八十 〔作 曲〕 古賀 政男 (昭和30年)
一、
リンリン竜胆の 花咲くころサ
姉サは馬コで お嫁に行った
リンリン竜胆は 濃紫
姉サの小袖も 濃紫
濃紫 ハイの ハイの ハイ

二、
リンリン竜胆の 花咲く峠
姉サは馬コで あと振り返る
姉サに行かれて なんとしょう
一緒に柴刈る 人も無い
人も無い ハイの ハイの ハイ

三、
リンリン竜胆は 小雨に濡れる
わたしゃ別れの 涙で濡れる
リンリン鳴るのは 馬の鈴
姉さは峠に 消えて行く
消えて行く ハイの ハイの ハイ


 源義経は馬コで奇想天外な 『 鵯越ノ逆落し 』 (ひよどりごえノさかおとし)をやってのけた・・・   

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齋源義経公鎮霊碑

 古い鳥居を組み合わせて義経の兜をイメージして作られた鎮霊碑が社殿のすぐ下にある。V字形のは明神鳥居(みょうじん とりい)の一番上の部分の笠木(長)と島木(短)からなっている。

鳥居の種類
・明神鳥居 ・・・ 一般的な鳥居。
・神明鳥居 ・・・ 笠木に反りがない。島木がない。靖国神社など。
・両部鳥居 ・・・ 明神鳥居の一種で稚児柱がある。厳島神社など。

 「齋」の字を冠して 「 いつく みなもとノよしつねこう みたましずめノいしぶみ 」 と読む。

齋く(いつく) : 〔形容詞の接頭辞〕 清浄な、神聖な、忌み清めた、の意を表す。〔他動詞〕 神に仕えるような気持ちで大事に世話をする。 〔自動詞〕 心身の汚れ(けがれ)を去り神に仕える。「齋く」の示は、神を祀るときのテーブル。
似ている字で「齎す(もたらす)」は、神聖なテーブルの下に宝物(貝)を持ってくる(もたらす)という意味。

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義経公首洗い井戸

 白旗神社から徒歩5分、本町白旗交番の脇を入ったところにある。
 兄・頼朝に追われた義経は、奥州・平泉で藤原泰衡(やすひら)に攻められ自刃し果てた(1189年6月)。享年30。義経の首は酒に漬けて43日間かけて鎌倉・腰越浦(こしごえうら、現在の腰越漁港あたり)に送られてきて、首実検の後 浜に打ち捨てられた。 それが潮に乗って境川を遡り(さかのぼり)この辺りに漂流したのを里人が掬い(すくい)上げ、この井戸で洗い清めたという。


 いくら酒漬けにしたとはいえ、折からの暑気で腐敗して誰の首かわからなかったという。このことが義経不死伝説(義経=ジンギスカン伝説、義経北行伝説)を生む一因となっている。

首実検後、埋めずに投げ捨てることは通常ありえない。また、鎌倉と平泉は当時2週間の道程(みちのり)であった。それなのに43日かかった(かけた)ことも義経不死伝説の一因となっている。

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伊勢山公園

 相模野台地の南端にある標高50メートルの伊勢山からは江ノ島が見える。展望灯台が見える。
 その昔ここには伊勢神宮が祀られていたので伊勢山といわれている。そして山上には忠魂碑や戦没者慰霊碑が集められている。
 源平合戦で軍功いちじるしかったのは源義経であった。そのハイライトは何と言っても一ノ谷での鵯越ノ逆落し。それは825年前(1184年)の今日、2月7日のことであった。

 倶利伽羅峠ノ戦い(くりからとうげノたたかい)で木曽義仲(源義仲)に敗れた平家軍は、まだ4歳の第81代・安徳天皇を伴って筑前国・大宰府まで逃れた。
 京を制圧した木曽義仲はやがて後白河法皇と対立するようになり、後白河法皇を幽閉してしまう。そこで、源頼朝が派遣した源範頼(のりより)と源義経が宇治川ノ戦いで木曽義仲を滅ぼすのであった。
 こうした源氏同士が抗争している間に勢力を立て直してきた平家は、讃岐国・屋島さらに摂津国・福原まで進出し、京の都へ突入のチャンスを窺(うかが)っていた。これに対し後白河法皇は平家が都落ちした際に持ち去った三種ノ神器(さんしゅノじんぎ、鏡・剣・玉)の奪還を源頼朝に命じた。

 源氏は攻撃開始を2月7日と定め、範頼軍は正面の生田口から攻め、義経軍は丹波篠山(たんばささやま)を越えて背後から突くことになり2月4日京を発った。そしていよいよ2月7日、その時を迎えた。
 平家の一ノ谷陣営の裏手は断崖絶壁なので全く警戒していなかったところへ、義経ら70騎が不意を突いて駆け下りてきた。平家は大混乱、我先にと屋島へ敗走して行った。


♪ 鵯 越
[作詞・作曲] 不詳 明治45年 文部省唱歌
一、
鹿も四足 馬も四足
鹿の越え行く この坂道
馬の越せない 道理はないぞ
大将義経 真っ先に

二、
続く勇士も 一騎当千
鵯越に 着いてい見れば
平家の陣屋は 真下に見えて
戦い今や 真っ最中

三、
油断大敵 裏の山より
三千余騎の 逆落としに
平家の一門 驚き慌て
屋島を指して 落ちて行く


木曽義仲を討ち取った後、源頼朝は人質に取っておいた義仲の子・義高の斬殺を指示。これについては、平成21年1月31日の チビのお出かけ 181 を見てね。

壇ノ浦で安徳天皇(7歳)らが入水(じゅすい、身投げ)したことにより三種ノ神器の草薙剣(くさなぎノつるぎ)は関門海峡に没してしまった。三種ノ神器が揃っていないにも拘らず、後白河法皇の院宣(いんぜん)を根拠として第82代・後鳥羽天皇は即位した。

『平家物語』 や 『吾妻鏡』 では鵯越が一ノ谷の裏手と書かれているが、直線距離で7キロメートルも離れている。そこで、解釈についてはいろいろある。
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石名坂公園

 国道1号線を越えたところに石名坂公園がある。静かな公園に佇みながら考えた。義経が兄・頼朝に滅ぼされたのを人々が同情したことから、弱者や薄幸の者に同情し味方することを何故 「判官贔屓」 (ほうがんびいき)と言うのだろうか?

 一ノ谷の合戦後、臨時の除目(じもく、朝廷が大臣以外の官を任ずる儀式)が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司(こくし、地方官)に任ぜられた。が、そこには義経の名がなかった。そこで、後白河法皇によって検非違使(けびいし、京中の非違非法を検察する役)という判官(ほうがん)に任官し、昇殿も許された。「判官贔屓」の判官は義経を指し、義経贔屓のこと。
 頼朝の推挙を得ずに任官したことは、まだ官位を与えることができる地位にない頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。頼朝は激怒し、両者に亀裂が生じた。


 それでもその後の屋島、壇ノ浦の合戦で義経の力を借りざるを得なかった。義経は西国武士を率いて多大の戦功を挙げたが、そのことが頼朝に従っている東国武士の戦功を奪う結果となり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人の不満が噴出した。また、義経の性急な壇ノ浦での攻撃で安徳天皇と平時子(平清盛の正室で二位尼と称される)を入水に追い込んだ。そのため、朝廷との取引材料となりえた三種ノ神器の内の宝剣を奪還できなかったことは、頼朝の戦後構想に狂いが生じてしまった。
 それなのに義経は平家の捕虜・平時忠(たいらノときただ、権大納言)の娘を娶り(めとり)、平家の伝統的地位を承継しようとした。貴族社会から武家政権の確立を目指す頼朝にとって、もはや容認できるものではなかったのである。
 鵯越ノ逆落としから1年後の5月、凱旋気分の義経に不信を抱いた頼朝は、義経の鎌倉入りを許さず腰越に留め置いたのであった。


合戦に 義経一人 目立ち過ぎ 源氏の旗は 調和乱るゝ (チビ)

3人を国司に推挙した2ヵ月後に頼朝は義経を伊予守に推挙した。頼朝としては同時に推挙しなかった何らかの考えがあったに違いない。

屋島ノ合戦では、「扇の的」を射落としたまでは良かった、その後がいけない。

♪ 那須与一
(明治44年 文部省唱歌)
一、
源平勝負の 晴れの場所
武運はこの矢に 定まると
那須与一は 一心不乱
狙い定めて ヒョーと射る

二、
扇は夕日に 煌(きらめ)きて
ヒラヒラ落ちゆく 波の上
那須与一の 誉れは今も
屋島の浦に 鳴り響く


 その那須与一に さらなる義経の命令が・・・船上でお祝いの舞を舞い始めた者も射よ!と。那須与一は心を鬼にして矢を放った。
壇ノ浦の合戦で義経は、舟の舵取りを狙い撃ちするという禁じ手を使って形勢逆転し平家水軍を破った。
つまり、義経は「勝ちさえすればよい」という考えであったようだ。

失脚させられた義経は西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたが、恩賞を与えることができない義経の下には集まらず、敗走。そして奥州・平泉の藤原秀衡(ひでひら)を頼ったが秀衡の死後、当主・藤原泰衡に攻められ自刃し果てた。

義経に代わって京都守護の任に就いたのは、頼朝の岳父・北条時政(北条政子の父)であった。このことが北条氏の勢力拡大の端緒を切り開くことになった。

さあ、そろそろ帰るとしよう!

  ♪白樺ゆれる高原に
  竜胆 咲いて恋を知る
  男の胸の切なさを
  啼け啼け 山鳩幾声も

竜胆は咲いていないかなぁ~
パパ、今は冬だにょ。竜胆は秋、秋、秋。
そうか、恋を知るのは まだまだ先か・・・
竜胆咲いて恋を知る~

  ♪幾春秋(いくはるあき)を彷徨(さまよ)えど
  真(まこと)の縁(えにし)結ぶ日は
  月よりの使者想い出の
  竜胆 抱いて来るという


  月よりの使者(作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一)

 ・・・今年のキーワードは 『 解 』 ・・・
(チビの日記!!チビのお出かけ182) 





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by chibi-papa | 2009-02-07 18:44 | チビのお出かけ  

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