国分寺崖線と国分寺跡(176)20・12・07

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殿ヶ谷戸庭園(とのがやと ていえん)

 JR国分寺駅のすぐ近くに殿ヶ谷戸庭園がある。
 大正4年(1915)国分寺村殿ヶ谷戸の傾斜地に、江口定條が国分寺崖線の崖地と崖下から湧出する地下水を巧みに利用した別荘を建てた。その後、昭和4年(1929)三菱財閥岩崎家の別邸となり、昭和49年には東京都が買収して昭和54年(1979)から公園として公開されている。

 
殿ヶ谷戸 : このあたり一帯は1867年まで尾張徳川家の鷹狩り場(御鷹場)に指定されていたことから尾張の殿様の「殿」?と、丘陵地が侵食されて形成された谷状の地形である「谷戸」から成っている。

江口 定條(ていじょう、さだえ)は、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が設立した三菱商業学校で学んだ。そして、三菱合資に入り大正9年(1920)総理事となった。その後、昭和6年(1931)満州事変の不拡大を期待されて満鉄副総裁に就任した。が・・・

満鉄 ; 南満州鉄道㈱のことで、日露戦争の翌年の明治39年(1906)に設立され、昭和20年(1945)まで旧満州に存在した半官半民の特殊会社。
初代総裁は後藤新平。江口定條は、12代総裁・内田康哉(こうさい)の下で副総裁に就任した。

満鉄の路線 : 本線はあじあ号が走っていた大連・新京間700km。支線として京浜線、奉山線、安奉線などがあった。
京浜線は新・ハルピン(哈爾間240km、奉山線は天・海関間420km、安奉線は天・東間260kmで、鴨緑江(おうりょくこう)を渡って朝鮮の京義線と接続し、釜山まで繋がっていた。釜山・新京間を急行ひかり、急行のぞみが走っていた。
京義線は長い間 38度線で分断されていたが、南北の対話が進み再連結となり昨年12月に運行が開始された。しかし事態は一転、北朝鮮側の強硬姿勢で先月28日をもって運行中断となった。
北朝鮮は集団指導体制に移った模様。そして9月ごろ金正日の影武者?が脳卒中で倒れた。(講談社現代新書「金正日の正体」重村智計著に、総書記は既に5年前に亡くなっていたという情報が載っている)。軍優先の「先軍政治」はどのようになるのか?

三菱商業学校 : 岩崎弥太郎は明治8年、船舶運航技術に熟練した船員を育成することを目的に三菱商船学校(東京商船学校→東京商船大学→平成15年、東京水産大学と統合して東京海洋大学になった)を設立。
一方、実業に役立つ人材を育成することを目的に明治11年(1878)、福沢諭吉の門下生を校長や教官に迎え神田錦町に三菱商業学校を設立(福沢諭吉が簿記の解説書を出版した5年後のことであった)。予備科3年、本科2年。簿記、算術、漢学、英語などの他、英語による経済学、歴史、地理、数学の授業を行った。さらに1年間のインターンシップもあった。
岩崎弥太郎の長男・久弥を一期生として入学させるという、相当な熱の入れ方だったが、6年後の明治17年廃校となった。

国分寺崖線(がいせん) : 今から7万年~3万年前にかけて多摩川が武蔵野台地を侵食してできた河岸段丘(かがんだんきゅう)で、武蔵村山市緑ヶ丘から大田区嶺町まで30km続いている。世田谷区の岡本公園や等々力渓谷も国分寺崖線の一部。
・河岸段丘は、平成18年12月3日の チビのお出かけ 89 を見てね。
・岡本公園は、平成20年7月6日の チビのお出かけ 158 を見てね。
・等々力渓谷は、平成18年8月19日の チビのお出かけ 68 を見てね。

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武蔵国分寺公園・西元地区

 国分寺崖線の雑木林が今でも残る武蔵国分寺公園は、公園の中央を東西に走る多喜窪通りによって、北側の泉地区と南側の西元地区に分かれている。
 かつて雑木林は人の生活とは切り離せないもので、薪や木炭といった燃料のほか、田畑の肥料にする柴や落ち葉、食料となる山菜などの恵を受けてきた。
 青木、アズマ根笹、赤松、エゴノキ、ガマズミ(蒲染)、欅、小楢(こなら)、蛇ノ髭(じゃのひげ)、白樫、ヤブラン(藪蘭)、山桜・・・それに紅葉が色を添えている。

 この下に名水百選に選ばれた真姿ノ池(ますがたのいけ)湧水群がある。


崖線の 湧水集め ゆく野川 (チビ)

野川 : 国分寺市にある日立中央研究所内(春と秋の年2日だけ一般公開している。この秋は11月16日であった。残念!)の湧水を源流として、国分寺崖線に沿って流れる。「お鷹ノ道」沿いの小川など崖線下からの湧水を合わせ、二子玉川で多摩川に合流している。全長20km。

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武蔵国分寺跡

 741年(奈良時代)、第45代・聖武天皇(しょうむ てんのう)は仏教により国を安定させる(鎮護国家)べく、全国68ヶ国すべてに国分寺を建立することの詔(みことのり)を発した。
 武蔵ノ国では古代官道の東山道(とうざんどう)武蔵路(府中街道)を挟んで国分寺と国分尼寺が建てられた。国衙(こくが、武蔵ノ国の役所)の3kmほど手前で、湧き水の豊富な国分寺崖線を背にして南面するこの地に、金堂や七重ノ塔などが建っていた。今でもその面影が穏やかな初冬の風に薫ってくる。


古に ありし宝塔 黙して語らん 今は七重に 公孫樹高し (チビ)

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七重ノ塔

 七重ノ塔は続日本後紀によると、835年に雷火で焼失。その十年後に男衾郡(おぶすまぐん、埼玉県寄居町付近)の長官が再建を願い出たことを許可したとある。
 鎌倉時代から室町時代に移る1333年、分倍河原ノ合戦で再び焼失したという。現在、このあたりは史跡公園の整備に向けて、土地の公有化が進められている。


武蔵国衙跡や東山道は平成20年9月21日の チビのお出かけ 169 を見てね。

続日本後紀(しょく にほんこうき) : 平安時代の869年に編纂された歴史書。第54代・仁明天皇(にんみょう てんのう)在位の833年から850年まで、18年間の動静が詳述されている。

分倍河原ノ合戦(ぶばいがわらのかっせん) :第96代・後醍醐天皇の呼びかけに応じて新田義貞(にった よしさだ)は 5月8日 上州新田郷(群馬県太田市)で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。幕府軍を11日に小手指(所沢市) 、12日には久米川(東村山市)で撃破。幕府軍は多摩川で新田軍を食い止めるべく分倍河原(府中市)まで撤退し防備を固めた。新田軍は15日攻撃を開始したが逆襲にあい、狭山まで一旦退却した。その際に国分寺が焼失したといわれている。
翌16日、体勢を立て直した新田軍は分倍河原を撃破、分倍河原の対岸の関戸の防衛線も突破。鎌倉街道を敗走する幕府軍。この壊滅的な打撃に幕府軍は完全に守勢に転じることになった。そこで、要塞堅固を誇る鎌倉に立て籠もり7つの切通し全てを封鎖して、待ち構える幕府軍。21日、新田軍は稲村ヶ崎から鎌倉に突入。5月22日、14代執権・北条高時は自刃し、ここに鎌倉幕府は滅亡した(それは新田義貞が挙兵してからわずか2週間後の事であった)
京王線およびJR南武線の分倍河原駅前のロータリーには、馬に跨(またが)った新田義貞の銅像が建っている。

史跡武蔵国分寺跡(僧寺地区)の整備は平成15年度から20ヵ年計画(平成35年度完了予定)で進められている。整備の促進を図るため、2週間後の12月21日に市民への説明会がおこなわれるという。
なお、国分尼寺跡の方は平成15年に整備終了している。

(チビの日記!!チビのお出かけ 176 )
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by chibi-papa | 2008-12-07 22:05 | チビのお出かけ  

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