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松陰神社・幕末維新祭り(172) 20・10・26

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松陰神社参道

「 人々貴き物の己れに存在することを認めんことを要す 」 (吉田松陰)

(自分自身の中には貴きものが存在しているのですよ。そのことを自身で認識して下さい。認識したら貴きものとは何なのかを考えてください。)


 小伝馬町の牢屋敷で書き上げた全16節から成る留魂録の第8節は、生死観について次のように語られている。(現代語訳)
 
「今日、私が死を目前にして平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。つまり農業でいうと、春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋冬になると農民はその年の労働による収穫を喜び酒を造り、甘酒をつくって村々には歓声が満ち溢れる。この収穫期を迎えて、その労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いたことがない。
 私は30歳で生を閉じようとしている。未だ一つも事を成し遂げることなくこのまま死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむことなのかもしてない。

 だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えた今が時なのである。なぜなら人の寿命には定まりがない。農業のように四季を巡って営まれるようなものではないからである。
 人間にもそれに相応しい(ふさわしい)春夏秋冬があると言える。20歳にして死ぬ者にはその20歳の中に自ずから四季がある。30歳には自ずから30歳の四季が、50、100歳にも自ずからの四季がある。私は30歳。四季は既に備わっており、花を咲かせ実をつけているはずである。それが単に籾殻(もみがら)なのか、成熟した粟の実なのかは私の知るところではない。

 もし同志諸君の中に私の志を継いでやろうという人がいるなら、それは蒔かれた種子が絶えることなく年々実っていくのと同じことになる。どうか同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。」
 (吉田松陰)

 松陰の胸中を察した若者が続々と幕末・維新の世に活躍した。
 桂小五郎(木戸孝允)が、山県有朋が、高杉晋作が、久坂玄瑞が、伊藤博文が、山田顕義が ・・・・

 聞香(もんこう)、伽羅(きゃら)の香に聞きました。
熱き伽羅 松陰の志(死)メラメラと 世界開扉に 吾も継ぎたや 』 (チビ)
(来年から世界が真っ暗になって経済は一旦 止まるも、新たな扉が開く)

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松下村塾

 松陰が生きたのは、どのような時代だったのだろうか。吉田松陰は1830年(第11代将軍・徳川家斉の治世の頃)に、長州(山口県)萩で生まれた。
 その十年後にはアヘン戦争(1840~42)が起こり、あの大国・清がイギリスに敗れ、半植民地状態になってしまった。アヘン戦争からさらに十年後(1853)、黒船を率いてペリーが浦賀に入港し開港を迫り、その翌年の安政元年に日米和親条約が締結され下田と函館が開港された(続いてイギリス、ロシアとも締結)
 そして、安政5年(1858)には、日米修好通商条約が締結され函館、神奈川、長崎、新潟、兵庫が開港された(続いてロシア、オランダ、イギリス、ロシアとも締結)。松陰がこの幕府の開国政策に反対したということで処刑されたのが、その翌年の安政6年であった。

 22歳で長州藩を脱藩して以来、満29歳で刑死するまでの8年間の人生の大半を、蟄居(ちっきょ、閉門のうえ謹慎)あるいは下獄(げごく、牢獄に入って刑に服する)という環境下で過ごした。
 松陰は我が国の将来に危機感を持ち、一歩先を全力で疾駆していったのである。


江戸伝馬町処刑場は、平成18年5月20日のチビのお出かけ 52 を見てね。 

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吉田松陰墓所

 杉家の次男に生まれた松陰は、叔父の吉田家の養子に出された。その養父が早死にしたことにより5歳で吉田家の家督を継いだ。この吉田家が藩の山鹿流兵学の師範家だったので、玉木文之進(叔父)が松陰を厳しく教育指導した。
 そのお陰で、8歳の時に藩校の明倫館で教授見習いとなり、10歳で藩主の御前で講義することができ、吉田家を山鹿流兵学の師範家として残すことができた。


松陰は経学史学の基礎から軍学の書まで、父からあるいは叔父の玉木文之進から畑仕事の傍ら厳しく叩き込まれた。
玉木文之進が開いていた塾こそが「松下村塾」(松本村が由来)
アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って、山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために各地を遊学する。
山鹿素行の墓は、平成20年7月12日のチビのお出かけ 160 を見てね。

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32基の石灯籠

 松陰が生まれた杉家の家法
 
 杉家の家法に世の及びがたき美事あり
 第一には 先祖を尊び給い
 第二には 神明を崇め給い
 第三には 親族睦まじく給い
 第四には 文学を好み給い
 第五には 仏法に惑ひ給はず
 第六 田畠の事を親からし給ふの類なり。


チ ビ原始仏教を精神の基礎に置くボクにとって、第五の「仏法に惑わされるな」にはショックだニャ~。

パ パ僧侶階級が威張っていたからじゃないかな。

チ ビだって、お坊様は高学歴で難しい漢文で書かれたお経が読める偉い人たちだったんでしょ。

パ パ確かにそうだけど、江戸幕府は寺請制度(てらうけせいど、檀家制度ともいう)を設け、民衆はいずれかの寺院を菩提寺と定めて、その檀家となることを義務付けられたんだ。

チ ビそして寺院は現在の戸籍にあたる宗旨人別帳(しゅうし にんべつちょう)を作ったんでしょ。旅行や住所移転の際には、お寺さんが発行する証文が必要だった。さらに、それぞれの家には仏壇が置かれ、法要には僧侶を招くといった習慣が定まった。これって良いことじゃないか。

パ パそのことが、仏教教団が幕府の統治体制の一翼を担うこととなったんだ。もし宗旨人別帳から削除されでもしたら無宿人となって、犯罪者扱いになってしまう。さらに、お墓を人質のように取って、寺の維持費を民衆に負担させ、威張り始めたんだ。すなわち、特権を持った仏教は民衆を苦しめる支配者の道具になり下がってしまったんだ。

チ ビだから明治になって、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という民衆運動が起こったのか~。権力の上に胡坐(あぐら)をかいていた寺院は排斥されたんだね。

パ パお寺さんの力が衰えたと思ったら、こんどは神主が威張り始めた。

チ ビでも、太平洋戦争終結とともに神社の力も衰えておとなしくなったんだニャ~。ボクは原始仏教を、そしてパパは古神道を精神の拠りどころとしているから、もともと権力とは無関係だもんね。

杉家の家禄はわずか26石という最も下級の士分で、百姓とさほど変わらない農耕生活をしていた。貧しい中にあっても杉家の一族はひとしく学問を好み、この辺りでは学者として知られていた。
二人の叔父は杉家から出て、それぞれ吉田家と玉木家を継いでいた。

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松陰神社通りを奇兵隊がゆく

 激動の時代の生き方とは?そのタイプは6つに分かれると、山口県教育会発行の『松陰先生に学ぶ』にある。まず、揺れ動く時代の真相や原因を良く見究めている人と見究めていない人。

 Ⅰ. 見究めている人の生き方
① その変動を志を持って自分の理想とする方向へもっていこうとするタイプ
② その変動を止めようとするタイプ
③ 成り行きにまかせようとするタイプ

 Ⅱ. 見究めていない人も3つに分かれる
① 世の中の激しい動揺の本質や原因を分かっていないが、兎も角そういう世の中が面白いと自分も騒ぎを起こすタイプ
② 訳が分からないが、世の中が騒々しいのはいけないことだと思い、何とかそれを止めようとするタイプ
③ 訳が分からないので、じっとして成り行きにまかせるタイプ


チ ビ松陰先生は当然Ⅰ- ①のタイプだね。

パ パじゃ~、大老・井伊直弼は?

チ ビ井伊直弼はⅠ- ②のタイプに決まってるじゃん。

パ パそうかな~。パパはⅠ- ①Ⅰ- ①のぶつかり合いだと思うんだ。でも、井伊直弼は松陰を処刑すべきでなかった。
 山口県教育会のこの資料はチビのような回答を誘導するために、巧妙に作成されているのさ。


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松陰神社通りを大砲がゆく

 「楽しみの人に於ける在らざる所なし。山楽しむべく水楽しむべし、居楽しむべく行楽しむべし。富楽しむべく貧楽しむべし。生楽しむべく死楽しむべし
 憂楽の変(ちがい)は己に在りて物に在らんや。」
 (松陰)


親思う 心にまさる 親心 けふ(今日)のおとずれ 何ときくらん (松陰)

(私が親を思う以上に、私のことを心配してくれる親の心。今日、私がこのようなことになったと知ったらどんなに悲しまれるだろうか。)



(辞世の句)

  吾今為国死  吾 今 国の為に死す
  死不負君親  死して君親に負かず
  悠悠天地事  悠々たり 天地のこと
  観照在明神  観照は 明神に 在り

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂 (松陰)

(私は今、国のために死ぬ。この死は主君や両親に背いてのことではない。天地は永遠で果てしなく広い。神よ、私の行いの正しいことをとくとご覧下され。
この身が武蔵の野辺で朽ちようとも、私の大和魂はこの日本に留まる。)


(チビの日記!!チビのお出かけ 172 )

by chibi-papa | 2008-10-26 18:21 | チビのお出かけ  

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