青梅街道(22)17・09・10 

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宝仙寺、本堂(鎌倉期の不動明王を安置)
 
 青梅街道は江戸城の白壁に必要な石灰を青梅から運ぶために整備された街道。
 丸の内線中野坂上駅の近くの宝仙寺。本堂の手前には飛鳥様式の三重塔がある。そして明治28年から中野町役場、昭和11年まで中野区役所がここの境内に置かれていたことを示す石碑がある。


中野区と杉並区はかつての東多摩(明治11年発足、郡役所は中野村)であった。その後、明治29年に南島郡(郡役所は内藤新宿)と統合して豊多摩郡(郡役所は淀橋)となり、さらに大正15年に郡役所が廃止された。そして、昭和7年に中野区、杉並区、渋谷区、淀橋区が誕生。なお、淀橋区は昭和22年に牛込区、四谷区と合併し新宿区となる。

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蚕糸ノ森公園の桑

 東高円寺駅(杉並区)を出るとそこは蚕糸ノ森公園(サンシのモリ コウエン)。

パパ : 蚕糸試験場を筑波学園都市に移した(昭和55年)跡地を公園にしたんだよ。煉瓦造りの正門が残されていて、その名残りをとどめているね。

チビ : 筑波には先週行ったニャ~。

パパ : 蚕糸(サンシ)とはね、蚕(カイコ)の繭(マユ)からとった絹糸のことで、蚕はチビの後ろにある桑(クワ)の葉を食べて、蛹(サナギ)になるんだよ。

チビ : ニャ~?

 蚕は家畜化された昆虫で、野生回帰能力を完全に失っている。家畜として扱われるので、一匹、二匹でなく一頭、二頭と数える。卵から孵化するとイモムシ型になり、やがて蛹となって口から絹糸を出して頭部を字型に動かしながら米俵型の繭を作り、その中に籠る。
 絹糸は絹糸腺(ケンシ セン、唾液腺が変化した器官)で作られる。そこには糸の元になる蛋白質が詰まっていて、これを吐き切らないとアミノ酸過剰状態になり死んでしまうので、蚕は歩きながらでも糸を吐いて繭を作る。だから繭は一本の糸からできている。 
 一本の糸からできているが蚕が息継ぎの時に微妙に変形することから、絹織物を着ると微かな衣擦れの音がする。絹を取りだすには繭を丸ごと茹で、ほぐれてきた糸を寄り合わせる。絹を取った後の蛹は熱で死んでいるが、鯉や鶏の餌として利用する。
 絹を取り出さないままの蛹はやがて蛾になって、10日ほどで約5百粒の卵を産む。

現在のセシオン杉並(平成元年開館)の所にあった杉並第十小学校が隣地の試験場跡地に移転してきた。地域に開かれた小学校という趣旨から、小学校の校庭と公園の運動広場が共用されている。因みにセシオンとはスペイン語で「出会い」という意味。

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チャンドラ・ボースの胸像

 インド独立運動の志士・チャンドラ・ボースの遺骨が、蓮光寺に仮安置されている。

 インドの国会議事堂の正面にはボースの肖像画が(左右にはネールとガンジー)掲げられているんだって。
 インドでは超有名人なんだニャ。


 ネタージ(指導者)という敬称で呼ばれるチャンドラ・ボースは、1897年、イギリス領インドに生まれた。カルカッタ(現在のコルカタ)の大学を卒業後、イギリスのケンブリッジ大学に留学。33歳でカルカッタ市長に選出されたが、独立志向を危惧したイギリスの植民地政府の手により職を追われた。その後、即時独立を求める急進派として活動する。
 第二次世界大戦が勃発(1939年)すると、ドイツのベルリンから反英ラジオ放送を開始。やがて日本がイギリスに対し戦端を開く(1941年)と日本に協力を求め、インド洋でドイツ海軍のUボートから日本海軍の潜水艦に乗り換えて東京に到着した。日本軍がイギリス領のシンガポールや香港などを攻略した際に捕虜(英印軍)の内、インド兵で「インド国民軍」を結成、その最高司令官に就任し独立を目指した。
 1945年8月15日、日本敗戦によりそれが叶わなくなり、反英の拠点をソ連に移そうと終戦の3日後、台湾から日本軍の爆撃機で飛び立とうとしたが離陸に失敗し亡くなった。享年48。臨終の言葉「インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」のとおり、2年後の1947年、インドは独立を勝ち取ったのであった。

インドの独立運動に貢献したビハリー・ボースとは友人だが別人。ビハリー・ボースは中村屋にインドカリーを伝えたことから、区別するため「中村屋のボース」とも呼ばれている。

(チビの日記!!チビのお出かけ 22)




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by chibi-papa | 2005-09-10 00:00 | チビのお出かけ  

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