龍ノ口の元使塚(167)20・09・07 

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片瀬江ノ島駅

 「江ノ島」が付く駅が3つある。小田急線・江ノ島線の片瀬江ノ島駅、江ノ島電鉄(通称:江ノ電)江ノ島駅それに湘南モノレールの湘南江ノ島駅。小田急線の駅はまるで竜宮城のようだニャ~。

 最初の元寇(1274年、文永の役)の翌年、モンゴル帝国・元(げん)は最後通牒(さいご つうちょう)を突き付けるべく5名の使者に国書を持って来させた。対する時の執権・北条時宗(8代執権、24歳)は降伏勧告を無視、元との徹底抗戦を決意した。
 そして、外交ルートを通さなかった使者をスパイとみなして龍ノ口(たつのくち)で処刑、今から733年前の今日、9月7日の事であった。これで元寇の再襲来は確実となった。

 6年後の1281年、二手に分かれてやって来た。その数、東路軍4万、江南軍10万、計14万が4400隻の船で押し寄せて来た。これを迎え撃つ鎌倉武士4万。
(弘安の役)


北条時宗への独占インタビューは平成18年11月12日の チビのお出かけ86 を見てね。

♪元寇
〔作詞・作曲〕 永井建子(けんし) (明治25年、1892年)

四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る 
十万余騎(よき)の敵
国難ここに見る 
弘安(こうあん)四年夏の頃
なんぞ怖れん我に 
鎌倉男子(だんじ)あり
正義武断(ぶだん)の名 
一喝して世に示す


元寇(げんこう) : 他国を侵略することを、寇(こう)するというので、元寇は元が攻め寄せてくるの意。

(げん) : 中国史においてモンゴル人が築いた王朝(1271~1368)を元または元朝という。

作詞・作曲の永井建子(男性)は当時、陸軍軍楽隊の楽手(後に陸軍戸山学校軍楽隊長)。「元寇」は岩波の日本唱歌集に収録されているが、軍歌そのものでしょう。「雪の進軍」も永井建子の作詞・作曲。

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常立寺

 湘南モノレールの江ノ島駅から1分の常立寺(じょうりゅうじ)は、もともと龍口刑場で処刑された罪人を弔うため建てられた真言宗の寺であるが、元からの使者もここに葬られている(文永の役、弘安の役での戦没者は敵味方に拘らず円覚寺に葬られている)

最後通牒の国書を持って行く使者は、もし相手国が不承知なら処刑されることを覚悟しなければならない。そういう意味でいくら役目だからとはいえ「覚悟の人」と言える。


多々良浜辺(たたらはまべ)の戎夷(えみし) 
(そ)は何 蒙古勢(もうこぜい)
傲慢無礼者(ごうまんぶれいもの) 
(とも)に天を戴(いただ)かず
出でや進みて忠義に 
鍛えし我が腕(かいな)
ここぞ国のため 
日本刀を試し見ん


・ 戎夷(えみし、じゅうい) : 老若男女を問わず皆殺しにする極悪非道の戦いをする野蛮人。

鎌倉武士は最初は戸惑ったが、いつまでも名乗りを上げてから戦うようなことはしなかった。名乗り上げる意味がないことが分かり集団戦法に切り替えた。
戦いの殆どは延々と弓矢の射ち合いだった。そこで、弘安の役までに海岸線に沿って20キロメートルの石の防塁を築き、そこから弓矢を射った。効果覿面(こうかてきめん)で元軍は上陸できないでいた。
夜になると鎌倉武士は元軍の船に這い上がって襲撃した。日本刀は鋼で鍛えてある。一方、元軍の刀は鋳物が多かったため折れ易かった。善戦しているうちに天が味方して暴風雨に。元軍の大船団は海の藻屑と消えた。

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常立寺・元使塚

 元からの使者(元使)は敵と雖も、五基の五輪塔が建てられ、さらに処刑から650年後の命日(大正15年9月7日)には元使塚(げんしづか)に石碑が建てられた。常立寺は日蓮宗に改宗されていたので、石碑には南無妙法蓮華経の題目が刻まれている。

五輪塔 : 密教がいう万物の構成要素の「地・水・火・風・空」をそれぞれ「方・円・三角・半月・宝珠」の形で重ねて表した供養塔ないし墓標。


こころ筑紫(つくし)の海に 
浪押し分けて行く
益荒猛夫(ますらたけお)の身 
仇を討ち還(かえ)らずば
死して護国の鬼と 
誓いし箱崎(はこざき)
神ぞ知(し)ろし召(め)す 
大和魂(やまとだま)(いさぎよ)


・ こころ筑紫 : 掛詞で「心を尽くす」と掛けている。
・ 箱崎 : 筥崎八幡宮のこと。筥(はこ)は円筒状の容器を意味する。
・ 知ろし召す : お知りになる(to know)。お治めになる(to reign)。ここでは「お知りになっている」の意。

 石碑が建之(けんし)されてから83年後の命日(平成20年9月7日)に、チビは5名の元使の冥福を祈る。
(青い布で巻かれているのが五輪塔) 

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龍口寺・龍口刑場跡の石碑

 一旦 湘南江ノ島駅に戻って、そこから3分ほどの所に龍口寺(りゅうこうじ)がある。龍口寺はかつての龍口刑場跡に建っている。


天は怒りて海は 
逆巻く大浪に
国に仇をなす 
十余万の蒙古勢は
底の藻屑(もくず)と消えて 
残るは唯(ただ)三人(みたり)
いつしか雲晴れて 
玄界灘月清し


 モンゴル帝国は騎馬民族だったこともあり造船技術が稚拙で、日本海を越えての領土拡大には失敗するものの、ユーラシア大陸で大暴れ。シベリア、中央アジア、コーカサスへと領土を拡大していった。ロシアは1240~1480年代の240年間、モンゴル帝国に支配された。その後、ロシア帝国の前身・モスクワ公国が復活し、タタールの頸木(くびき)を脱するものの、その後も毎年のように中央アジアのタタールから攻められ続いた。やがて、ロシアの国力が増してくると中央アジアに打って出て、逆にタタールを支配するようになった。さらに領土を拡大してモンゴル帝国を凌ぐ陸の大帝国を築いた。その領土拡大の原動力となったのは、何と言ってもモンゴル帝国から侵略を受けたトラウマだった。
 一方、欧州各国はコロンブスの新大陸発見(1492年)以降、欧州各国は大航海時代に突入。さらに産業革命(1760年)以降、特にイギリスは海軍力を背景に海からの領土拡大に力を入れた。そして、ロシアがユーラシアの内陸から海岸部に出て来ないように封じ込める戦略を展開し、極東については日英同盟(1902年)を結び日露戦争(1904年)を仕掛け、イギリスはその目的を達した。
 我が国は満蒙(満州と内蒙古)を国防上「日本の生命線」と位置付けたのも元寇でのトラウマ。その後、イギリスは権謀術策をもって日本を太平洋戦争に引きずり込んでいった・・・第二次世界大戦後、覇権はイギリスからアメリカに移り、昨今はロシアやチャイナなど多極化してきている・・・


龍口寺では、今月12日、13日の日蓮上人の龍ノ口法難(1271年9月12日、モンゴル帝国からの使者の処刑の4年前)を記念した大法要のための準備がおこなわれていた。

(チビの日記!!チビのお出かけ167)
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by chibi-papa | 2008-09-07 22:13 | チビのお出かけ  

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