63回目の終戦記念日(165)20・08・15 

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千鳥ヶ淵緑道

 午前11時30分 靖国神社・本殿に昇殿参拝させて頂いた後、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に向かう。
 緑道とその隣の歩車道の整備工事がおこなわれている。バリアフリー化と見通しの確保をするそうだ。そういえば特に右側の緑道が広くまっすぐになったニャ~。来年の桜の季節までには完成するという。


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千鳥ヶ淵戦没者墓苑・六角堂

 打ち捨てられたままの屍(かばね)は、今も島々や海に残されている。

 海外戦没者の半数近くの115万柱の遺骨を未だ収容することなく放置していて平気な人間って、そして国って何なのかニャ~。
 チビはそんな疑問を持ちながらも、今年も動物の代表として献花にやって来た。戦禍に散った軍用犬、軍用馬、軍用驢馬(ろば)、軍用鳩(伝書鳩)、軍用象、軍用駱駝(らくだ) ・・・、さらに動物園の動物たちの無念の死に思いを馳せ 合掌。

 人間も動物のことまで思いが回ると、もっと違った世の中になると思うんだけどニャ~。


童謡「めんこい仔馬」のモデルになった軍用馬・勝山号については平成18年8月13日の チビの愛唱歌♪19 を見てね。

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千鳥ヶ淵高射機関砲台座跡

 これは皇居を直接守るため昭和20年(1945)に設置された「九八式高射機関砲」の台座跡で7基ある。口径20ミリで有効直接射程距離は1千メートル、360度の方向に撃てるという当時としては最新式であった。
 敵機(P51戦闘機など)が飛来してくると一斉射撃。しかし、高度1万メートルのB29爆撃機には全く歯が立たない。

 やがて、B29は低空無差別爆撃に切り替えて来るものの、1千メートル以上の高さだったので、やはりこの高射機関砲では無理だった。5月25日の山ノ手大空襲によって皇居・大宮御所などが焼夷弾により炎上、一部を焼失してしまった。


高射機関砲が昭和20年の何月に、ここに設置されたかご存知の方がいらっしゃいましたらお教え下さい。

5月25日の大空襲を受けて、6月22日の御前会議において天皇は最高戦争指導者に終戦の指示を出す。

田中静壱(しずいち)・東部軍管区司令官(大将)は5月25日の大空襲の責任を感じ、8月15日の宮城事件、8月24日の川口放送所占拠事件などを体を張って解決した後、自決した。享年57。
遺 言 : 「(陛下の)御聖断後、軍は良く統制を保ち 一路大御心(おおみこころ)に副い(そい)奉りあるを認め 深く感謝仕候(かんしゃしそうろう)。茲に(ここに)私は方面軍の任務の大半を終わりたる機会に於いて、将兵一同に代り闕下(けっか、陛下の前)に御詫び申し上げ、皇恩の万分の一に報ずべく候。閣下(少将以上の武官)並びに将兵(将校と兵士)各位は、厳に自重自愛、断じて軽挙を慎まれ 以って(もって)皇国の復興に邁進せられん事を。」
 
東京大空襲 : 焼夷弾を用いた大規模戦略爆撃で、中でも3月10日の空襲が特に規模が大きかった。
 ・昭和20年3月10日 東京大空襲(深川・城東・浅草地区など)
 ・昭和20年4月13日 城北大空襲(赤羽を含む王子地区)
 ・昭和20年4月15日 城南大空襲(大森・蒲田地区)
 ・昭和20年5月25日 山ノ手大空襲(皇居も被災)

 台座跡は北の丸公園・代官町通りに沿った土手を登った所にある(千鳥ヶ淵警備派出所から約100メートル)。近くには説明表示などがないので、何も知らないまま台座の上で昼寝をしていたり、お弁当を広げている。

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旧近衛師団司令部庁舎

 皇居・乾門(いぬいもん)の近くに明治43年(1910)に建てられた瀟洒(しょうしゃ)な赤レンガの洋館がある。63年前の今日、昭和20年8月15日、徹底抗戦を主張する陸軍青年将校らが近衛第一師団長の森赳(もり たけし)中将を殺害して蜂起したいわゆる宮城事件(きゅうじょう じけん)の舞台になった所である。

 蜂起した陸軍青年将校らは師団長命令を偽造して近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠。終戦の詔勅(しょうちょく、天皇の発する公式文書)を録音した玉音盤を奪取しようとしたが失敗。
 ポツダム宣言を受諾した旨の降伏表明は当初の予定通りおこなわれ、ここに太平洋戦争は終わりを迎えた。


63年前の夏
8月6日
・アメリカ軍による広島への原爆投下
既に終戦を決意した我が国は、その障害となり得る陸軍の主力を広島に集め原爆投下を黙認、原爆死没者慰霊碑の石室前面には終戦のための生贄に対して 『 安らかに眠って下さい (軍部独走の)過ちは繰返しませぬから 』 と刻まれている、このことを踏まえて田中静壱大将の遺言を読んでみる。
8月9日
・ソ連対日参戦。
・アメリカ軍による長崎への原爆投下。
・最高戦争指導会議において、国体護持(天皇の地位保証)を条件としてポツダム宣言を受諾することに決まる。
8月10日
・御前会議においてポツダム宣言の受諾の御聖断下る。連合国へ条件つき受諾を通知。
8月11日
・当時日本領だった南サハリン(南樺太)にソ連が侵攻。
8月12日
・連合国からの回答。日本政府による国体護持の要請に対し、「天皇及び日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に subject to とする」の回答あり。
・外務省はこの 「subject to」 を終戦を推し進めるため「制限の下に置かれる」と訳す。
・陸軍ではそれを「隷属するものとする」と訳したことから、天皇の地位が保証されていないとして戦争続行を唱える声が巻き起こる。
8月13日
・最高戦争指導会議で議論が紛糾したが、連合国からの回答を受諾することに決定。
・陸軍青年将校らはクーデター計画案を練る。
8月14日
・正午、御前会議においてポツダム宣言受諾の再御聖断下る。天皇は 必要であれば自身が国民へ語りかける、と述べられた。
・午後2時、陸軍青年将校らは当初のクーデター計画案に替わる代案「兵力使用第二案」を練る。
・午後3時、御聖断の訓示。
・午後4時、近衛師団歩兵第二連隊が宮城警備のため乾門より入城。
・午後9時、ラジオが明15日正午に重大放送があるという予告放送を流す。
・午後11時30分より宮内省政務室において玉音放送を録音。
8月15日
・クーデター決行(宮城事件)。15日正午までの24時間が『日本のいちばん長い日』となる。

ノンフィクション『日本のいちばん長い日』というと著者は大宅壮一となっていたが、実は半藤一利(はんどう かずとし)が昭和40年に書き上げたもの。半藤一利は当時、月刊誌「文芸春秋」の編集部次長だったこともあり、当代一のジャーナリストの大宅壮一の名を冠して出版された。30年後に名義を半藤一利に戻している。

戦後63年が経過し、殆どの日本人にとって戦争は経験を伴わない抽象概念でしかなくなった。このことは戦争というものに対して非現実的なイメージを抱きかねない。単純で分かり易く勇ましい正義の戦いに、高揚感を覚え易い。
そこで戦争の疑似体験として、たとえば、大岡昇平の『俘虜記』、『野火』、『レイテ戦記』などを読み、先の大戦についてもっと議論すべきではなかろうか。いつまでも耳を塞いでいると戦争の方から近づいてくる。

近衛師団(このえ しだん) : 天皇ならびに皇居の警備をおこなう部隊。

 現在この建物は国立近代美術工芸館として、明治以降の工芸及びデザイン作品を展示している。

(チビの日記!!チビのお出かけ 165 )
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by chibi-papa | 2008-08-15 21:21 | チビのお出かけ  

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