新宿牛込地区(160)20・07・12 

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夏目漱石とツーショット

 戦国時代、後北条氏(小田原北条氏のこと)に属する豪族の牛込(うしごめ)氏が舌状台地先端部の現在の新宿区袋町に牛込城を築く。
 明治11年(1878)東京府牛込区となり、昭和22年(1947)に四谷区、淀橋区と合併して東京都新宿区(当初の新宿区役所は箪笥町の旧牛込区役所に置かれた)となった。

 明治・大正時代の文豪・夏目漱石(なつめ そうせき)の旧居跡にある漱石公園が、今年の2月にリニューアルオープンした。公園の入口では、最晩年の境地 『 則天去私 』 の文字を台座に刻んだ漱石の胸像が出迎えてくれる。そこで、文豪とツーショット。
 明治38年(1905)、日露戦争の日本海海戦があった年、大学講師の傍ら 『吾輩は猫である』 で作家デビューし、人気を博した。その翌年、それが舞台化されたことに気を良くし、いつか芝居の脚本を新聞に連載しようと思うようになった。大正5年(1916)、『明暗』を書き終えたら、いよいよ脚本に取り掛かろうとしたが、『明暗』 の執筆中に世を去ってしまった。享年49。
 芝居好きの漱石はどんな脚本を構想していたのであろうか。

 則天去私(そくてん きょし)とは、小さな私を去って、自然に委ねて生きることであるが、この語は胃潰瘍で伊豆・修善寺で療養中に、800ccも吐血して生死をさまよった時(修善寺の大患)の心境を表したものだといわれている。しかし、その語は漱石の発言を弟子達が書き残したものであって、その意味合いは必ずしも明確ではない。

 夏目漱石は慶応3年(1867)江戸の牛込馬場下横町(新宿区喜久井町)に生まれ(~大正5年、1916)、本名は金之助。金之助という名は、生まれた日が庚申(こうしん)の日だったので、厄除けの意味で“金”の文字が入れられたというが、庚申の夜に受胎した子は大泥棒になるという言い伝えを、漱石の親は受胎を出産と勘違したのか、定かでない。


庚申の夜に受胎した子は大泥棒になるというので、香を焚き赤い花を立て、お燈明と菓子と飯を供え、性の交わりを慎んだという。こういう日に女性に乱暴した男は地獄に落ちると信じられていたので、庚申の夜は女性が一人歩きしても安全とされた。

夏目漱石文学の凄いところは、問題に向き合うだけで、解決しなかったところにある。

千円札の肖像 : それまで伊藤博文(いとう ひろぶみ)だったのを昭和59年(1984)から夏目漱石になった。そして20年後の平成16年(2004)に野口英世へとバトンタッチされた(その際、横が1センチ4ミリも短くなったがもう慣れた)
ところで、野口英世(のぐち ひでよ、明治9年~昭和3年)というと、貧困と幼い頃の火傷という試練を克服して、渡米し世界的な医学者となり、最後はアフリカで研究半ばで非業の死に倒れた。野口英世の業績は当時こそ賞賛されノーベル賞候補となったが、時の試練に耐えられず、今ではデータ捏造などのため殆どの論文は評価されていない。そういう点からも野口英世は、お札の肖像から遠く離れた位置にいる人物といえるのではなかろうか。

旧千円札の夏目漱石の肖像画は黒いネクタイをしているが、それは明治天皇の喪に服していた時の写真を使用したため。因みに旧5000円札の新渡戸稲造は白いネクタイをしているが、それは結婚式で撮影された写真を肖像画にした為。
なお、現在の5000円札の肖像は樋口一葉(発行開始は平成16年)

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山鹿素行の墓

 漱石公園の近くの宗参寺(そうざんじ)に山鹿素行(やまが そこう、1622~1685)の墓があるというので寄ってみた。棕櫚(シュロ)の木が目印のように立っているのですぐ分かった。

 山鹿素行は江戸時代・前期の儒学者、兵学者で、林羅山(はやし らざん)から官学の朱子学(しゅしがく、儒教を体系化した学)を学ぶも、後に朱子学の観念論化を批判したことから、幕府に忌(い)まわれ赤穂藩へ流罪となった。そこで、赤穂藩士の教育をおこなった中に大石内蔵助(おおいし くらのすけ)がいた。
 本所松坂町の吉良上野介(きら こうずけのすけ)邸討ち入りの際の、一打ち二打ち三流れの「山鹿流儀の陣太鼓」は山鹿素行の兵学から生まれたといわれているが、芝居での創作なのかもしれない。

 山鹿素行の教えは後の吉田松陰(よしだ しょういん、1830~1859)や乃木希典(のぎ まれすけ、1849~1912)に影響を与えた。


宗参寺は牛込氏により室町時代に創建された。牛込氏の墓は都指定史跡になっている。はるか遠く飛鳥時代、大宝律令(701年)によりこの地に牛の牧場が設けられたことから、この辺りは牛込と呼ばれた。戦国時代、ここに城を築いた豪族は地名から牛込氏を名乗った。

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神楽坂の毘沙門さま

 徳川家康の命を受け、池上本門寺の末寺として日本橋馬喰町(ばくろちょう)に創建されるも、火災に見舞われ麹町に移転、ここでも火災にあい第11代将軍・徳川家斉が治世のころ牛込神楽坂(かぐらざか)に移転して来た。
 善国寺(ぜんこくじ)のご本尊の毘沙門天(びしゃもんてん)は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めている。


牛込神楽坂は明治時代から戦前までは山手を代表する繁華街・花街だった。かつての牛込城は善国寺の裏手にあった(袋町15、光照寺の前に案内板がある)が、小田原北条氏(後北条氏)滅亡(1590)と共に廃城となった。江戸時代、牛込氏は旗本として続いた。

 神楽坂という地名を一躍全国区にしたのは、芸者歌手・神楽坂はん子によるところが大きい。神楽坂で芸者をしていたところをコロンビアレコードにスカウトされ、昭和27年にキングレコード・江利チエミの「テネシーワルツ」に対抗して作られた「ゲイシャワルツ」が大ヒット。一躍スター歌手となる。
 神楽坂はん子に憧れて高校を中退して芸者になった神楽坂浮子は、ビクターレコードから歌手デビューした。


♪ ゲイシャワルツ
[作詞]西条八十 [作曲]古賀政男
一、
あなたのリードで 島田も揺れる
チークダンスの 悩ましさ
乱れる裾も 恥ずかし嬉し
芸者ワルツは 思い出ワルツ

二、
空には三日月 お座敷帰り
恋に重たい 舞い扇
逢わなきゃよかった 今夜のあなた
これが苦労の 始めでしょうか

三、(略)
四、
気強く諦め 帰した夜は
更けて涙の 通り雨
遠く泣いてる 新内流し
恋の辛さが 身に沁みるのよ


島田髷(しまだまげ) : 駿河国の島田生まれの遊女が鎌倉時代に考案したとされる髷で、その変形として江戸の芸者の髪型・芸者島田がある(文金高島田は花嫁に結われる)

新内流し(しんない ながし) : 二人一組となって普通三味線と上調子三味線(うわぢょうし しゃみせん)の二丁で合奏しながら街頭を流す。呼ばれればお座敷に上がって新内節を語って聞かせる。新内節の代表曲は明烏(あけがらす)

平成7年(1995)に神楽坂はん子が肝臓癌で亡くなって(享年64)からは、神楽坂浮子は神楽坂はん子の持ち歌だった「ゲイシャワルツ」をカバーしている。

(チビの日記!!チビのお出かけ160)
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by chibi-papa | 2008-07-12 17:59 | チビのお出かけ  

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