渋谷・鹿児島おはら祭(154) 20・05・18

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自顕流の奉納演舞

  昨日 土曜日は渋谷・鹿児島おはら祭の 「プレおはら」 で、今日が 「本祭り」 。午前中は鹿児島出身の東郷平八郎を祭神とする東郷神社・社殿前で自顕流の演舞が奉納された。

 「じげんりゅう」 には自顕流と示現流の二つがある(読みが同じなので混同され易い)。自顕流は正式には薬丸野太刀自顕流(やくまるのだち じげんりゅう、示現流と区別するため薬丸流ともいう) と言い、「薩摩の初太刀を外せ」 と新撰組の近藤勇をも恐れさせた剣法。平安時代から極秘裏に伝えられたもので、先制攻撃を重視するため防御のための技はない。また、精神論も存在せず、 「抜即斬」 の一撃必殺を鍛えあげるというもの。
 門弟たちの中から明治維新で活躍した者が数多く出たため今でも鹿児島では 「明治維新は薬丸流で叩き上げた」 と言われる。東郷平八郎(元帥海軍大将、侯爵)もその一人であった。

 大声で奇声を発しながらのガムシャラなような剣法は、剣道とは異質なものに見えた。薩摩藩10代藩主・島津斉興(しまづ なりおき)は稽古を見た際に 「まるでキチガイ剣法じゃ」 と言って席を立ったといわれている。それほど激しい。
 稽古で使用するのは竹刀でなく、柞ノ木(いすノ木、繊維が緻密で印鑑の材料に適している、ゆすノ木ともいう)の棍棒(こんぼう)。持たせてもらったらズシリと重かった。


島津斉興(1791~1859) : 祖父の島津重豪(しげひで、1745~1833)が浪費家で天文学的な借金をつくったが、重豪の死後から財政改革に取組み、清(しん)との密貿易や砂糖の専売などによって経済発展を果たし、幕末期の財産的基礎をつくった。
斉興の跡継ぎをめぐってはお由羅騒動(おゆら そうどう)が起こり、老中・阿部正弘(まさひろ、1819~1857)の調停により斉興は隠居し斉彬(なりあきら、1809~1858)が跡を継ぐことになった。

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東郷神社

 東郷平八郎(1848~1934・昭和9)は日露戦争の日本海海戦(明治38年、1905)において連合艦隊司令長官として、ロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに撃滅した。
 その東郷平八郎を祀る東郷神社には東郷元帥の強運、勝運にあやかろうと参拝者が多い。ここで授与されるお守り(勝守)にはZ旗が刺繍されている。


日露戦争を国際的視野で見ると、第0次世界大戦と呼ぶことができる。

バルチック艦隊 : バルト海に展開するロシア艦隊の大半を極東に派遣するために編成された第2、3太平洋艦隊のこと。
旅順港とウラジオストック港に釘付け状態のロシア太平洋艦隊と合流して一気に日本の艦隊を殲滅せんと、南アフリカの喜望峰回りで大艦隊(戦艦8、海防戦艦3、装甲巡洋艦3など)を率いて7ヶ月間かけてやって来た。
これに立ち向かうは、連合艦隊(戦艦4、装甲巡洋艦8など)司令長官・東郷平八郎。

Z旗(ゼットき) : 黄・青・赤・黒の4色で染められた信号旗(船同士の意思疎通に使用)。日本海海戦で士気の高揚を図るため、旗艦三笠はマストにZ旗を掲げ「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の意味を伝えた(太平洋戦争の真珠湾攻撃に際して空母赤城もZ旗を掲げた)

東郷の没後、東郷神社が東郷の祖先の地・渋谷に創建された。福岡には日本海海戦の玄界灘を一望できる山の上に創建された。日本海海戦については、平成18年7月16日のチビのお出かけ 63 を見てね。

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代々木公園の薔薇のアーチ

 午前の会場(東郷神社)から午後の会場(道玄坂・文化村通り)へ代々木公園を通って移動する。
 一重で全体は赤だが中心が黄色いメイアンは晩秋まで絶え間なく咲くという。黄色い八重のコルデスなど色々な薔薇が咲き誇っている。今が見ごろ。


 (とげ)のある草木を茨(いばら)という。薔薇には刺があることからイバラといわれ、それがいつのまにか「イ」が抜けてバラとなった。薔薇は茨城県の県花になっている。

 それにしても薔薇は難字だニャ~。漢和辞典を引いてみると、薔は「水辺に生じる草」、薇は「マメ科の2年草」とある。これが何でバラなのかニャ~。わかんニャン。

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篤姫の駕籠が到着

 午後は“平成の篤姫さん”行列があり、続いて踊り連によるパレードがある。篤姫は薩摩で生まれ、渋谷(千駄ヶ谷徳川屋敷、東京体育館のあたり)でその生涯を閉じた。今、文化村通りに篤姫の駕籠(かご)が到着した。

 今年のNHK大河ドラマは 『篤姫』 (あつひめ)。篤姫(1836~1883・明治16)は薩摩藩・島津家一門に生まれ幼名は“おかつ”。島津本家・島津斉彬の養女になり篤子と改名(幕府には実子として届出)。その後、近衛家(五摂家の筆頭)の養女(敬子と改名)として、第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の正室となった。家定が亡くなってから後は天璋院(てんしょういん)と号した。
 ドラマの第19回 「大奥入場」 では家定との婚礼のため大奥に入り、大奥の広大さ、膨大な数の奥女中たち、様々なしきたりに驚きながらも、大奥のこれまでの非合理的なしきたりを変えようとする篤姫。さて今夜、第20回は 「婚礼の夜」 。波乱の篤姫の人生をどう描いていくのか・・・。


『 篤姫や 薩摩生まれの けしんめに 激動超えて 渋谷でとずる 』 (チビ)

けしんめ : 鹿児島弁で一所懸命とか必死の意味。

篤姫は安政の大地震(安政2年・1855)のため三田の藩邸(上屋敷)が被害にあったこともあり、渋谷の藩邸(下屋敷)にその年の暮に入った。お輿入れ直前の約1年間をそこで過ごされた(三田は海に近いが、渋谷なら黒船からの砲撃もとどく心配がない)

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おはら祭り踊りパレード開始10分前

 薩摩生まれの東郷平八郎を祀った神社がなぜ渋谷にあるかというと、渋谷は東郷元帥の祖先の地、ルーツなのだ。
 渋谷光重(渋谷重家の孫、渋谷重国の子)は相模国の豪族で武蔵国の渋谷も領有していた。鎌倉時代の1247年に5代執権・北条時頼が有力御家人の三浦泰村(みうら やすむら)一族およびその娘婿の千葉秀胤(ちば ひでたね)一族を滅ぼすという事件が起こった(宝治合戦、ほうじかっせん)。渋谷光重はその恩賞として千葉秀胤が所有していた北薩摩(薩摩川内市あたり)の地頭職を与えられた(千葉秀胤の本拠地の下総は北条氏が支配)

 渋谷光重には6人の男子がいたので、長男を相模国(綾瀬市)に残しあとの5人は北薩摩に下向(げこう)させた(1248年)。武蔵国の渋谷を離れる決意をしたのは執権・北条氏が幕府の安泰のために豪族に対して厳しい政策をとっているので、いつ何時、禍(わざわい)が渋谷一族に降りかかってくるかもしれぬと懸念してのことであった。
 こうして一族郎党を引き連れて下向した5人の兄弟は、北薩摩のそれぞれの地名を名字とした。この内の東郷氏からちょうど700年後に出たのが東郷平八郎なのである。

 渋谷音頭が流れ出す。いよいよ2千人の踊り連によるパレード開始だ!


♪ 渋谷音頭
[作詞] 下村八重 [作曲] 渡久地政信
一、
緑の風が 弾んだ声を
運ぶ渋谷は 若い街
古い歴史を そのままに
綴る代々木の 森近く
忠犬ハチ公 待ち合わせ
ラブラブ渋谷 ラブラブ渋谷

二、
お洒落なウインドウ 原宿通り
ちょいと私も 若づくり
欅並木の 木梢にも
響く 屋内競技場
きっと出る出る 新記録
ラブラブ渋谷 ラブラブ渋谷

三、
スクールバスの あの娘に今日も
きっと逢えるよ 常磐松
八幡通りも この辺り
誰の見舞か 日赤の
窓に揺れてる 紅い薔薇
ラブラブ渋谷 ラブラブ渋谷

四、(略)
五、(略)

『縁あると 渋谷音頭に おはら節 轡十字が 街中をゆく』(チビ)

轡十字(くつわじゅうじ) : 丸に十字の印。薩摩藩の旗。

毎年11月に開催される本場・鹿児島でのおはら祭りでも渋谷音頭がながれるという。
初代・忠犬ハチ公像は鹿児島出身の彫刻家・安藤照(てる)によって昭和9年に制作された。現在の忠犬ハチ公像は子息の安藤士(たけし)によって昭和23年に再建された。忠犬ハチ公のことについては平成18年2月5日の チビのお出かけ 35 を見てね。

渋谷の地を渋谷氏が賜った経緯は平成18年9月16日の チビのお出かけ 73 を見てね。

渋谷区広尾の国学院大学キャンパスは薩摩藩渋谷藩邸があった所。高輪にあった江戸の薩摩藩邸は江戸湾に近いので、黒船による砲撃を警戒して島津斉彬は内陸部の渋谷に新しく屋敷を求めた。篤姫はここから江戸城に輿入れした。

薩摩川内出身のたばこ王・岩谷松平は、西南戦争の年・明治10年に上京し、渋谷区猿楽町に住み「天狗たばこ」を発売した。現在、渋谷区宇田川町に「たばこと塩の博物館」がある。

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飛び入り参加は不可

 これ「豚の着ぐるみ」なんだけど、ピンク色でまずかったな。鹿児島特産は黒豚だったニャ~。

昨年の第10回渋谷・鹿児島おはら祭りは平成19年5月13日の チビのお出かけ 113 を見てね。

(チビの日記!!チビのお出かけ 154 )
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by chibi-papa | 2008-05-18 14:36 | チビのお出かけ  

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