羅漢寺川跡(145)20・03・23

e0031605_1714129.jpg
松雲羅漢像

 羅漢寺川は目黒川の支流で現在は暗渠(あんきょ)になっている。五百羅漢寺や目黒不動の南側を流れ、さらに林試ノ森公園や小山台公園の北側を流れていて、目黒通りに突き当たる。
 目黒通りを越えたその先にある清水池公園は立会川の源流になっているから羅漢川の源流ではない。少し戻ると六畝川(ろくせがわ)を暗渠にしたプロムナードが北に延びている。ポケットオアシス・清水があってその先に清水稲荷神社がある。

 目黒駅は品川区内にある。権之助坂(ごんのすけ ざか)を60mほど下るとそこから先は目黒区になる。山手通り沿いに松雲羅漢像が立っている。 

 松雲禅師は第5代将軍・徳川綱吉の治世の時、536体の羅漢像を彫刻して本所五ッ目(江東区大島3丁目)に五百羅漢寺を築いた。
 明治42年(1909)にここ下目黒に移転してきた後、寺は荒廃の一途を辿っていたが昭和56年(1981)に再建することができた。この再興を記念して松雲禅師像を建立し、これを松雲羅漢と名付けたとある。


羅漢(らかん) : 悟りを得て人々の尊敬と供養を受ける資格を備えた人のこと。

e0031605_171917.jpg
目黒不動・水掛不動明王

 今まで涸れることなく湧き出ている「独鈷の滝」。
 『 清らけき 目黒の杜の 独鈷の滝 災厄難を 除ける不動尊 』(目黒不動尊御詠歌)ということで、お不動さまと所願成就の縁を結び大願が円成(えんじょう、円満に仏の心を成就)するように身代わりとなって、水を浴びて下さる。 「 チビの祈りよ叶え!」
 耳を澄ますと湧き水の音があちこちから聞こえる。さすが目黒不動は瀧泉寺(りゅうせんじ)といわれる所以(ゆえん)だ。


独鈷(どっこ) : 中央に握りの部分があって両端が尖っている杵形の仏具。

御詠歌(ごえいか) : 仏や霊場を讃える歌。

境内にある歌碑 ♪ 十五夜お月さん は平成17年2月26日のチビの愛唱歌 ♪ 6 を見てね。

e0031605_1712212.jpg
目黒不動・高台に建つ大本堂

 昨日、全国に先駆けて東京で桜が開花したと発表があった。全国に先駆けて大本堂の両脇にある桜はもう満開。

e0031605_1705031.jpg
林試ノ森公園・「林業研究発祥の地」の石碑

 林試ノ森公園の林試(りんし)は林業試験場を略したもの。明治11年(1878)に東京府下北豊島郡瀧ノ川村西ヶ原(北区西ヶ原)で開始された樹木試験場の事業を受けて、明治33年(1900)にこの地に林業試験場が設けられ、昭和53年(1978)に筑波研究学園都市に移転するまでの約80年間ここに国内外の樹木を植えて森林、林業の研究がおこなわていた。

 石碑の手前には大きな楠(くすのき)がある。タッチウッド(touch-wood)して巨木の精を受ける。そういえば目黒不動にも仁王門の近くにプラタナス(鈴懸の木)の巨木があった。


e0031605_17505094.jpg
林試ノ森公園・犬桜

 犬桜(いぬざくら)の芽を覗(のぞ)き込んでいるチビ。桜といっても犬桜は桜のイメージとはだいぶかけ離れいる。犬槐(いぬえんじゅ)の花に似ている。犬桜も犬槐もなんで犬が付くのだろう? 花が白い犬の尻尾のようだからだろうか?

 犬桜がある辺りは品川区。林試ノ森公園は東西に長いがそのほぼ中央のせせらぎ橋の東が目黒区で西が品川区となっている。目黒区の西に品川区が何であるんだ~。


e0031605_1703045.jpg
小山台公園・風の塔

 この公園も品川区。品川区というと、品川駅を連想してそこを中心とした地域が品川区と思い勝ちだが、品川駅は港区内にある。頭が混乱しそうだ。
 この彫刻は須藤 博志(すどう ひろし)作 「風の塔」。


e0031605_16585647.jpg
清水稲荷神社

 六畝川プロムナード(promenage)は清水稲荷神社まで延びている。さらにその先50mほど進むと東急バス目黒営業所の塀に突き当たる。清水稲荷神社は元々この東急バスの営業所あたりにあったという。そして真夏の旱天(かんてん)でも清水が湧き出していたと言うからこのあたりが六畝川(ろくせがわ)の源流であり羅漢寺川の源流だったのであろう。

 清水稲荷神社の所在地は目黒本町1-1。目黒本町(めぐろ ほんちょう)ということはここが目黒の中心だったということなのか。東横線・祐天寺駅まで歩く。左側が中央町(ちゅうおうちょう)ここが目黒の中央? 右側が中町(なかちょう)、こっちが目黒の真ん中? 中心地だらけ!
 江戸時代には三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村、碑文谷村(ひもんや むら)、衾村(ふすま むら)村があって、明治中頃に三田村と上目黒村と中目黒村と下目黒村の4村が目黒村に、そして碑文谷村と衾村が碑衾村(ひぶすま むら)になった。昭和に入って目黒町と碑衾町となり、昭和7年には区となるにあたって目黒町の方が繁栄していたので目黒区となった。

 目黒本町と中央町は碑文谷から分離し、中町は中目黒から分離したわけで、江戸時代は村はずれだった所。こうした所にこのような名称を付けるのは、自信がない現われと見た。
 ついでに言うと目黒区目黒は中目黒から分離し、中目黒と下目黒の間に挟まれている。中でも下でもないということで単に目黒とした。屁理屈だ。これも誤認させる。

 目黒駅は品川区、駅に近い目黒区目黒は目黒の中心地でない。中心地は東横線・中目黒駅周辺だが中目黒駅は上目黒にある。目黒区目黒も目黒本町も中央町も中町も地名からすると中心地のようだがこれら全て江戸時代は村はずれ。


 
碑衾町の衾(ふすま)は当用漢字にないという理由で、旧・衾村は八雲や緑ヶ丘という地名になり衾の字は消えた。しかし東横線・都立大学駅のすぐ近くに城南信用金庫・碑衾支店がある。辛うじてここらあたりが昔、衾村→碑衾村→碑衾町だったことが見てとれる。

中目黒村と下目黒村は目黒不動の門前町であったことから、江戸府外であるが、(公事方)勘定奉行でなく町奉行の管轄地だった。

(チビの日記!!チビのお出かけ145)
[PR]

by chibi-papa | 2008-03-23 17:21 | チビのお出かけ  

<< 舎人ライナー開業(146)20... 京王沿線Walking 5 (... >>