浜田山と人見街道(142)20・02・11 

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西永福の理性寺(りしょうじ)

 杉並区浜田山4丁目一帯は内藤新宿(新宿追分)の米問屋「浜田屋」の所有地であった。その持ち山の中に浜田屋弥兵衛の墓があって、墓参りの度に一族が供養にと村の子供たちに菓子や小銭を与えていたので「浜田屋の山」は有名であったという。それが地名となり明治18年に浜田山と名付けられ、さらに昭和8年に開業した駅名にもなった。

 その後の浜田屋は明治の中頃に没落し浜田屋の山も人手に渡ってしまった。そこで弥兵衛の墓は四谷大木戸(現:新宿1丁目27辺り)にあった理性寺(1654年開創)に移葬された。
 その理性寺はというと、大正3年の区画整理で浜田山に隣接する現在地の永福3丁目(西永福駅のすぐそば)に移転して来た。これも何かの縁なのだろう。それなのに理性寺の案内板には浜田屋弥兵衛のことは一切触れられていない。


池波正太郎著「鬼平犯科帳」第1巻7「座頭と猿」に理性寺が出てくる。

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井の頭通りから分岐している通称「人見街道」の起点

 東京都通称道路名設定公告によると、人見街道の起点は杉並区浜田山三丁目 浜田山駅入口交差点で、終点は府中市若松町四丁目 人見街道入口交差点の12、2キロメートルとある。でもこれは本来の人見街道ではない。
 本来の人見街道は武蔵国(むさしのくに)の国府があった府中は八幡宿から東方に伸び(三鷹第一小学校、京王線八幡山駅前を経由して)、世田谷区船橋5丁目で滝坂道に合流していた。


 府中市八幡町1丁目八幡宿交差点から若松町4丁目人見街道入口交差点の間に航空自衛隊府中基地があるのでその間は不明。そこから三鷹一小交差点まではいわゆる人見街道だが、通称「人見街道」はそこで左に折れて、久我山駅の脇を通って井の頭通に合流する。

昭和59年に東京都は無知から久我山道を人見街道として三鷹第一小学校以西のいわゆる人見街道に付け足してしまった。

 しかし、本来の人見街道はそのまま真っ直ぐで、下本宿通を過ぎ中央高速道路の下を抜け、宝陽幼稚園の前を通って道なりに行くと環状8号線沿いのコジマ電機前に出る。そこから甲州街道・上北沢4丁目交差点までは不明であるが、そこから京王線・八幡山駅前を通って都立松沢病院を左手に見ながら赤堤通(古府中道)を行く。そしてスーパーマーケットのヨークマート前で滝坂道に合流する。

松沢病院と小泉元首相 : 小泉純一郎は昭和42年(1967)4月から2ヶ月間、精神病院・松沢病院に精神分裂症で入院していた。その人物が34年後の平成13年(2001)4月、こともあろうに総理大臣になってしまった。
そしてまず過去を暴かれないよう個人情報保護法を成立させ(平成15年)、精神病院を精神科病院に(平成14年)、精神分裂症を統合失調症に名称を変更させた(平成18年)。そして最大のマジック・郵政民営化で我が国をメチャクチャに!
郵政民営化法案については平成17年9月17日の チビのお出かけ 23 を見てね。

チ ビ ; 通称道路名を付ける目的は何なのでしょうか?

都建設局道路管理部長A; 親しんだ名称を付けることで道路施設への親近感を醸成していくことが目的です。

チ ビ ; 久我山道を人見街道と勝手に命名して、親近感が醸成されるとお考えでしょうか?

道路管理部長A; 地元で呼び習わされている名称をそのまま通称道路名に取り上げるとは限りません。ハイ。

チ ビ : では、東京都のお役人が決めた通称道路名に従え、ということでしょうか?

道路管理部長A; 浜田山駅入口交差点からの人見街道は昭和59年に公告されていますからもう既に24年経過していますので、根付いているものと考えられます。ハイ。

チ ビ ; 都職員の無知から勝手に名付けて何とも思わないのですか?

道路管理部長A; なにぶんにも通称道路名設定公告で公告されていますので・・・、ハイ。それに、人見街道に通じている、という意味で久我山道を人見街道としても間違いとはあながち言えないのではないでしょうか。ハイ。

チ ビ ; 権力で勝手に歴史を曲げても良いとお考えですか?

道路管理部長A; 正規の手続きどおりに公告していることなので、そう言われましても・・・、それに単なる道路の名称にすぎませんから。ハイ。名称は利便性という要素を持っていますから・・・ハイ。

チ ビ ; そういうことが歴史の冒涜だと思うのですが。そこで、こういうことを繰り返さないためにも、自戒の念も込めて経緯を記した案内板を立てたらいかがでしょうか?そして新規採用の都職員の研修の一環として見せることにしたら?

道路管理部長A; ハイ、ハイ。ご意見はご意見として伺っておきます。貴重なご意見ありがとうございます。ハイ。


人見街道の由来 : 府中市若松5丁目の浅間山(せんげんやま)は別名、人見山といわれていた。その人見山は多摩の台地が古多摩川などの河川で削られここだけ小高く残ったもので、それも標高80メートルで3つの頂を持ち目立ったため、この街道に人見の名が付けられた。 

遠く飛鳥時代の645年「大化の改新」の翌年に「改新の詔(みことのり)」が発せられ全国を国・郡・里に分けられ、武蔵国が成立した(534年の武蔵国造の乱で既に武蔵国の原型ができていた)。このことから人見街道はそれ以前から存在した道と考えれれる。
平安時代の901年に菅原道真が失脚し大宰府に左遷させられた際に、家族はバラバラにされた。逆臣の子として三男・道武(みちたけ)は武蔵国の国府・府中の先の谷保(やぼ)に流罪となったが、まだ少年だった道武はどのような思いで人見街道を歩いて府中に向かったのであろうか。菅原道真、道武が祀られている谷保天満宮については平成18年5月のチビのお出かけ53 を見てね。

散り散りと 逆臣の子 道武が 下る街道 武蔵国へと  (チビ)

滝坂道 : 仙川から上祖師谷6丁目の神明社前、経堂(すずらん通)、淡島(淡島通)を経て渋谷方面への道。
国府・府中の外港が品川湊(山手通りの起点の品川区東品川1丁目付近)だったことから渋谷で、さらに品川方面への道と接続していたのであろう。
滝坂道と人見街道が合流する地点(ヨークマート前)から南へ2、5キロ行くと矢倉沢往還(やぐらざわ おうかん)の旧道に突き当たり、駿河国・沼津宿へと繋がっていた。
徳川家康が四谷~調布の甲州街道を整備するまでは、滝坂道がその役割を果たしていた。

(チビの日記!!チビのお出かけ142)
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by chibi-papa | 2008-02-11 23:59 | チビのお出かけ  

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