川越・中院と東照宮(140)20・02・02 

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中院・『狭山茶発祥之地』碑

 平安時代・初期の830年、円仁(えんにん)によって開かれた無量寿寺(むりょうじゅ じ)は、鎌倉時代・後期に中院を中心に北院と南院が建立された。そして再び天皇の勅願所(勅命によって国家鎮護などを祈願する社寺)となり580の末寺を持つに至った。

 江戸時代・初期、北院(仏蔵院)は院号を喜多院と改め(1612年)、徳川家康が亡くなる(1616年)と中院(仏地院)があった場所に仙波東照宮を造営。そのため中院は現在の場所に移転を余儀なくされた。そして南院(多聞院)にいたっては歴史の流れの中にいつしか埋没していった。

 
中院の境内に『狭山茶発祥之地』碑があり、その横には副碑が建っている。それによると、「遠く平安の昔、最澄(伝教大師)が唐より茶を持ち帰ったことに始まる。そして円仁(慈覚大師)が当寺を建立する際に比叡山より茶の実を携えて来て、境内に薬用として栽培した。これが狭山茶の起源である」(意訳)とある。
 年代順に見てみると、
① 805年、最澄(遣唐使として天台山で修行した)が帰国の際に茶を持ち帰った。
② 815年、「続日本紀」によると近江行幸されていた第52代 嵯峨天皇(786~842、在位期間809~823)に茶が献上された。
③ 830年、円仁が無量寿寺建立の際に持ち込み、これが狭山茶として広まった。

 そして時代はず~っと下った昭和4年(1929)茶室「不染亭」が建てられた。「不染」と号した茶人は加藤みき。文豪・島崎藤村の義母である。


狭山茶は日本三大銘茶の一つとして「色の静岡茶、香りの宇治茶、味の狭山茶」と並び称されている。
その狭山茶を取り寄せて東京・渋谷が一時期であるがお茶の産地となった。このことは平成19年5月のチビのお出かけ113 を見てね。

遣唐使と最澄(767~822) : 遣唐使(けんとうし)は唐の文化を摂取する目的で派遣された公式使節。630年から894年に中止されるまで16回に亘って派遣された。唐の都・長安への旅は命懸けで荒海を渡り、さらに陸路を2ヶ月も歩いた。帰途も荒海を渡らざるをえず文字どおり命懸けだった。
最澄は第15次遣唐使として804年に出発し翌805年に帰国。比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)を開いた。

遣唐使と円仁(794~864) : 円仁は比叡山延暦寺で最澄に師事した後、838年 最後の遣唐船(第16次遣唐使)に乗った。復路は困難を極め9年6ヶ月後の847年に帰国した。その間の日記『入唐求法巡礼行記』 (にっとう ぐほう じゅんれい こうき)全4巻は日本人による最初の本格的旅行記となった。
無量寿寺(円仁が830年に創建)の北院(鎌倉後期に建立)は喜多院(北院と同音)となり、東叡山(とうえいざん、東の比叡山という意味)の山号が与えられ、関東天台宗の総本山となった。

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中院・『不染』碑と不染亭

 「不染亭」は島崎藤村(1872~1943)が静子夫人の母・加藤みきに贈った茶室で、川越市新富町に建てられた。その場所にマンションが建つことになり、平成4年(1992)加藤家の菩提寺である ここ中院に移築された。

 不染世間法 如蓮華在水

(ふぜん せけんぽう にょ れんげ ざいすい、世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し、妙法蓮華経 従地涌出品第15)

 釈迦が説かれた経文にあるように、蓮は泥の中に根を張ろうともその汚れに染まることなく綺麗な花を咲かせる。私たちも世間がどんなに乱れようと、そして諸悪の誘いがあろうと、染まることなく正しく生きていきたいものだ。
 加藤みきの墓石には、島崎藤村の自筆で『蓮月不染之墓』と刻まれている。


島崎藤村が35歳の時に妻・冬子を亡くした。昭和3年(1928)、53歳のときに加藤静子と再婚。

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仙波東照宮(せんば とうしょうぐう)

 徳川家康(1543~1616)没後の1617年 久能山に一旦埋葬された遺骸を遺言により日光へ移葬する途中、川越に立ち寄った。その因縁により1633年に9mの丘陵が築かれ、その上に仙波東照宮が建立された。
 仙波東照宮は日光東照宮や久能山東照宮と比べるとだいぶ見劣りするが、日本三大東照宮の一つに数えられている。石段を上ると三つ葉葵の紋の付いた門があり、奥に社殿があるが生憎、門には鍵が掛けられていて中に入れなかった。


天海(1536?~1643)は実に謎の多い人物である。
1588年 武蔵野国の無量寿寺北院に入寺した。
1599年 北院の住職となる。
1600年 関ヶ原ノ戦いでは参謀として徳川家康に近侍したという。
1612年 徳川家康は、関東の僧侶は天海の指導に従うよう命じた。
1616年 危篤となった徳川家康は神号や葬儀に関する遺言を天海らに託す。家康の死後、天海の主張で家康の神号は「東照大権現」と決定された。
その後も第2代将軍・徳川秀忠、第3代将軍・徳川家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため1624年 寛永寺を創建した(東叡山の山号を喜多院から寛永寺に移し、喜多院の山号は星野山となる)。徳川家康のブレーンとして江戸幕府・成立に活躍した天海は、北院に入寺する迄の足跡は明確でない。天海と明智光秀が同一人物という説がある。

(チビの日記!!チビのお出かけ140)
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by chibi-papa | 2008-02-02 15:41 | チビのお出かけ  

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