いい国つくろう鎌倉幕府(132)19・12・08 

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大蔵幕府跡(源氏正統幕府跡)

 源頼朝(1147~1199)没後四百三拾年の1633年(11月1日から8日間)に沢庵和尚(たくあん おしょう、63歳)が従者2人を伴って鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)を巡拝(じゅんぱい)している。その紀行文の『鎌倉巡礼記』によれば、「行く手の右に芝生の広き所あり。これは右大将(頼朝のことを指している)の御殿の跡なりとて民は今に種物を蒔かぬと也」 とある。人々が頼朝公の遺徳を慕い、その足跡を残すこの地を後世に伝えようとする状況が読み取れる。
 それからさらに三百七拾年後(頼朝没後808年目)の2007年・師走に、チビが従者1人(パパ)を伴ってその地を訪れた。そこに「大蔵幕府舊蹟」の石碑がある。


 (鶴岡)八幡宮 賑わいあれど 幕府跡 今は昔と 石碑あるのみ (チビ)

『鎌倉巡礼記』 は沢庵和尚の没後に出版されたもので、そこには荒廃した寺院の様子が記されている。建長寺は数度の火災でその多くを焼失したが、沢庵和尚の進言により再建された。

 1180年、京から鎌倉に進軍してきた平家7万騎の軍勢を源頼朝軍20万騎が静岡の 「富士川ノ戦」 で追っ払い、その勢いで京に攻め上ろうとしたが、東国の地固めが先決と鎌倉に戻った頼朝は鎌倉・大蔵の地に侍所、公文所、問注所などを整備した。
 1225年、宇津宮辻に幕府を遷す(うつす)まで、この地が武家政治の中心であった。


大蔵幕府(おおくら ばくふ) : 源頼朝(よりとも)が大蔵に侍所を設置してから第二代将軍・頼家(よりいえ)、第三代将軍・実朝(さねとも)と続き、北条政子(ほうじょう まさこ、頼朝の妻で尼将軍といわれた)が亡くなるまでの46年間。

第二代将軍・源頼家は北条政子の父・時政(ときまさ)により伊豆修善寺に幽閉され暗殺された。その直後に北条時政は初代執権となり、第三代将軍・源実朝をも暗殺しようとするが失敗し、執権を子の義時(よしとき、北条政子の弟)に渡した。
難を逃れた実朝は1219年、北条義時にそそのかされた公暁(くぎょう、頼家の子)によって暗殺された。

石碑は鎌倉市雪ノ下3-11、私立清泉小学校の南西の角にある。大蔵幕府(1180~1225)は金沢街道に面して東西270m、南北220mの敷地だったと推定。石碑の「舊蹟」は「きゅうせき」と読み、旧跡のこと。

侍所(さむらいどころ)は1180年に設置し御家人の統制を担当。公文所(くもんじょ)と問注所(もんちゅうじょ)は1184年に設置し、それぞれ一般政務と裁判を担当。なお、公文所は後に政所(まんどころ)と改称された。

平家7万騎は『平家物語』より、源頼朝軍20万騎は『吾妻鏡』(あづまかがみ、鎌倉末期に編纂された歴史書)による。

頼朝の愛娘・大姫のことについては平成17年4月17日のチビのお出かけ13を見てね。

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宇津宮辻幕府跡(北条執権幕府南跡)

 北条政子が亡くなると源氏三代の政権は完全に終わった。3代執権・北条泰時(やすとき、1183~1242、執権は1224~1242)は執権政治を強化すべく、1225年に若宮大路(わかみや おおじ)と小町大路(こまち おおじ、観光みやげ屋が並ぶ小町通りではない)の間で南北250mの場所に幕府を遷したが、宇津宮辻幕府(うつのみや つじ ばくふ)はわずか12年で同じ敷地内の南側から北側に移転した。

1219年、第3代将軍・源実朝が暗殺されるとすぐに北条氏は傀儡(かいらい)として公家・九条家から2歳の藤原頼経(よりつね)を鎌倉に迎え、6年後の1225年、ここで元服式を執り行い翌年第4代将軍に据えた。

1225年に評定衆(ひょうじょうしゅう)を設置し、有力御家人による合議制を確立した。その一環として1232年に御成敗式目(ごぜいばい しきもく)という武士政権のための法令を制定した。

御成敗式目は全51ヶ条からなり、第8条の「権利の上に眠る者はこれを保護せず」という法原則は、現在のわが国の法律の原点といも言えるべきことなどが多く含まれている(時効の概念を明文化したのはこれが世界初)

石碑は鎌倉市小町2-15-19、カトリック雪ノ下教会と鎌倉彫会館の間を80m入った宇津宮稲荷大明神の所に建っている。

石碑の「辻」は辻子(ずし、図子とも書く)のことらしい。辻子とは大路と大路を結ぶ小路のことと言う。

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若宮大路幕府跡(北条執権幕府北跡)

 1236年、北条泰時は政庁を北側に移設した。それから1333年に新田義貞(にった よしさだ)に攻められ鎌倉幕府が滅びるまでの97年間を、名君の誉れ高い5代執権・北条時頼(ときより)や、元寇を退け国難を救った英雄8代執権・北条時宗(ときむね)らがこの場所で国政を執った。

石碑は宇津宮辻幕府旧跡から北へ250mの鎌倉市雪ノ下1-11にある。

最期の執権は16代・北条守時(もりとき)で、1333年5月18日、新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つため出撃し巨福呂坂(こぶくろざか)で激戦を繰り広げるも力尽き自刃(じじん)。14代執権だった北条高時(たかとき)及び15代執権だった北条貞顕(さだあき)は北条家の菩提寺・東勝寺にて北条一族一門870余人と共に自害した。ここに百五拾年間繁栄を極めた鎌倉幕府は滅亡した。

 ところで、鎌倉幕府が成立したのは「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」で1192年と暗記している人が多いと思うが、それは源頼朝が征夷大将軍に任命された年であって形式的にすぎない。
 実質的には1185年に壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させ6年間の内乱を終結させたこと。それに同年、後白河法皇より守護・地頭の設置権を与えられ全国の軍事権・警察権を掌握したことをもって鎌倉幕府が成立したとするのが多数説になり、教科書の記述が変わった。
 そうなると暗記も1192年(いい国)から1185年(いい箱)へ、「いい箱(1185)つくろう鎌倉幕府」と覚え直さないといけないニャ~!


大蔵幕府跡、宇津宮辻幕府跡、若宮大路幕府跡の石碑は鎌倉町青年会によってそれぞれ大正6年、大正7年、大正9年に建之(けんし)されている。この他の旧跡にも石碑を精力的に建之している。碑文を読んでいると鎌倉町青年会の鎌倉を愛する熱き思いが伝わってくる。

(チビの日記!!チビのお出かけ132)
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by chibi-papa | 2007-12-08 17:17 | チビのお出かけ  

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