沢庵和尚と沢庵漬け (131)19・11・23  

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沢庵和尚の墓

 漬物石みたいのが沢庵和尚(たくあん おしょう、1573~1645)の墓。
 江戸時代の臨済宗の僧。但馬国(たじまのくに、兵庫県豊岡市)の生まれ。紫衣事件で出羽国(でわのくに、山形県上山市、かみノやまし)へ流罪となった。前将軍・徳川秀忠の死去により特赦(とくしゃ)され、沢庵の志とは裏腹に第3代将軍・徳川家光の絶大なる寵遇(ちょうぐう)を受け東海寺を与えられた。

 また、多くの大名や公家の帰依も受けた。そのことを心無い人たちからは“変節漢”(自分の信念を変えた男を軽蔑していう言葉)とか “大名好き”との悪評も受けた。
 しかし、そんな汚名を受けながらも沢庵の真情は、大徳寺の危機を救う一念にあった。そして遂に将軍家光から大徳寺の住持任命権の復旧を勝ち取ったのである。


沢庵の父は但馬国山名家の重臣であったが、沢庵が8歳の時に羽柴秀吉に攻められ滅亡した。父は浪人に、沢庵は10歳で出家した。師事していた住職が大徳寺住持(じゅうじ)となり京に上ったため沢庵もこれに従い大徳寺に入った。37歳で大徳寺第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去った。

紫衣事件(しえ じけん) : 江戸幕府は朝廷の行動を制約するため禁中並公家諸法度(きんちゅうならびに くげしょはっと)を大御所・徳川家康、第2代将軍・徳川秀忠らの連署をもって1615年に公布した。
1627年 第108代・後水尾天皇(ごみずのお てんのう)が発した紫衣着用の勅許(ちょっきょ)について幕府は法度違反として勅許状を無効とし、京都所司代(きょうと しょしだい)に紫衣の取り上げを命じた。
葦原や 茂らば茂れ 己がまま とても道ある 世とは思えず (後水尾天皇)
沢庵は郷里の但馬国から急ぎ京に上り、幕府に抗弁書を提出し反対運動をおこなった。そのかどで1629年 流罪となった。

出羽国上山の藩主は沢庵のために草庵を寄進した。沢庵はこれを「春雨庵」と名付け、特赦までの3年間を何不自由なく過ごしたという。

特赦後、1634年に第3代将軍・徳川家光が上洛した際、沢庵は将軍に謁見(えっけん)した。それが縁で沢庵は家光に懇願されて江戸に下った。家光は品川に東海寺を建て、沢庵を住持とした。

 東海寺は京浜急行・新馬場駅(しんばんば えき)から近く、目黒川に面している。しかし、沢庵の墓はそこにはない。そこから暫く西へ、東海道線のガードをくぐった所に官営品川硝子製造所跡の史蹟があって、そこを線路に沿って入って行くと東海寺大山墓地がある。
 墓地の管理人さんによると、当時の東海寺は西は御殿山、東は旧東海道に及ぶ5万坪弱と広大だったという。本堂も今よりも北にあったと言う。

 沢庵は江戸で没した。墓は要らないと遺言したにもかかわらず、漬物石を置いたような墓(台座の上に長さ1m、高さ50cmくらいの石が乗っている)がある。


沢庵の遺戒(ゆいかい、遺言) : 沢庵は遷化の直前に「老僧遺戒の条々」として遺言を残している。沢庵和尚の本質が示されている。(以下の原文は漢文)
一、私に法を継ぐ弟子はない。私の死後、もし沢庵の弟子と名乗る者があったら、それは法の賊である。官に告げて厳罰にせよ。
一、私に法を継ぐ弟子はない。従って、弔問を受ける喪主たるべき者はない。自宗多宗とも読経にお越しになることもあろう。当寺の首座は門外に出て、事の訳を述べて、お帰り願うこと。どうかお入りになって、と請じ入れてはならぬ。
一、私は存命中、衣鉢(袈裟と托鉢を受ける鉢)を先師の塔に還(かえ)した。従ってボロを纏うた黒衣(こくえ)の僧に過ぎぬ。
一、死後、紫衣画像を掛けてはならぬ。一円相をもって肖像に代えよ。華・燭・香炉は任意でよろしい。
一、鉢盂(鉄製の鉢)・供物など一切供えてはならぬ。
一、志のある方は、持参の香合(こうごう)で線香1本を立てられよ。これもその人の自由、私には関係はない。
一、香典と称して持ってこられたら、たとえ芥子粒ほどでも受け取ってはならぬ。
一、私の死後、禅師号を受けてはならぬ。
一、本寺の祖師堂に位牌を祀ってはならぬ。もし、自分の一存で祀ろうとして位牌を納める者があったら、密かにこれを焼き捨てよ。この人こそ私に最も親切な方である。
一、大徳寺山内の長老方の遷化(せんげ、高僧が死ぬこと)の際は、必ず御斎(おとき)がある。私は本寺を退いて身を荒野に捨てた者、本寺の営みなど一切存ぜぬこと。御斎は必ずおこなってはならぬ。かねて考えていたことで、今思いついたのではない。
一、私の身を火葬にしてはならぬ。夜半ひそかに担ぎ出し、野外に深く地を掘って埋め、芝をもって覆え。塚の形を造ってはならぬ。探し出すことが出来ぬようにするためだ。身の回りを世話してくれた2、3名も二度とその場所に詣でてはならぬ。
一、我が身すでに絶えたなら、夜間速やかに野外に送れ。もし昼間だったら亡くなったと言うてはならぬ。夜を待って密かに送るが良い。僧としては晃と玖の二人の他、送ってはならぬ。帰ってきたら香を焚き拝をするのは結構だが、どんなお経も読んではならぬ。
一、寺の内外に石塔を立ててはならぬ。先師春浦(しゅんぽ)和尚の偈(悟りの境地を表現する漢詩)に、
   本身無舎利  本身に舎利無し
   臭骨一堆灰  しゅうこついったいの灰
   掘地深埋処  地を掘って深く埋む処
   青山点埃絶  せいざんてんあいを絶す
と。これを思いこれを念(おも)え。
一、特に年忌(命日、法要)と称するものを営んではならぬ。

徳川将軍家の剣術師範の柳生宗矩に剣術を指南したという。それは「無心の剣法」というもので、無心とは一つのことに囚われないことを言う。
「打ち込む瞬間の拍子合いに心を置けば拍子合いに心を取られ、自分の太刀に心を置けばその太刀に心を取られることになる。これらは全て何かに心が止まって自分の方が抜け殻になるということなのです。仏法においては、この止まる心を“迷い”と言い、“無明住地煩悩”ということなのです。即ち、一箇所に止まった心は自由に働くことがでない。止まることのない心を無心と言うのです。」

 沢庵漬けの謂れは、ある日のこと徳川家光を食事に招待した。家光が腹を空かしたところに大根のたくわえ漬けを供したところ、家光が思わず言った。「たくわえ漬けにあらず沢庵漬けなり!」と。

沢庵漬け(pickled radish) : 大根を米糠と塩で漬け、鬱金(うこん、turmeric)や梔子(くちなし、gardenia)で黄色に着色した漬物。たくわん、おこうこ とも呼ばれる。

東海寺大山墓地には賀茂真淵らの墓もある。
賀茂真淵 : かもノまぶち、江戸時代中期の国学者。万葉集などの古典を研究した。
西村勝三 : 官営品川硝子製造所が軌道に乗らないのを明治16年引き受けた。明治41年に品川硝子会社の跡地は製薬の三共により買収された。今でも広町1丁目に第一三共㈱の品川工場がある。西村は靴の製造を始め靴業界では有名。
井上 勝 : 日本の鉄道の父、初代鉄道頭、退官後は汽車製造会社を創設した。井上勝の墓は東海寺大山墓地の先端にあり、東海道線と新幹線が分かれる場所に位置している。
渋川春海 : しぶかわはるみ、江戸時代前期の天文学者。20年もの歳月をかけた天体観測を基に、唐暦から我が国独自の太陰暦 『貞亨暦(じょうきょうれき)』 を作った。

(チビの日記!!チビのお出かけ131)
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by chibi-papa | 2007-11-23 16:00 | チビのお出かけ  

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