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市川、船橋戦争(129)19・10・14 

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市立市川歴史博物館

 市川と船橋との間で戦争があったわけではない。
 今から140年前の戊辰戦争でその局地戦として市川、船橋地区も戦場になり961軒の家屋が焼失した。歴史博物館(市川市堀之内)ではこの市川船橋戦争の全容を明らかにする展示及びギャラリー・トークが特別企画された。
 テーマ:「市川船橋戦争と市民」
 解 説 : 斉藤喜一(市川博物館友の会副会長)

 北総線で京成高砂駅から3つ目の北国分駅下車。国分の地名はかつて下総国分寺があったことに由来する。駅前ロータリーでは縄文土器を掲げた女性のブロンズ像「縄文ノ賦」(じょうもんノうた、作:久保田俶通、くぼた よしみち)、が出迎えてくれる。歴史博物館はここから徒歩8分、堀之内貝塚公園内にある。


戊辰戦争(ぼしん せんそう) : 王政復古で成立した明治新政府が徳川幕府勢力を一掃した内戦(慶応4年=明治元年~明治2年)。慶応4年(1868)の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。近年では昭和63年(1988)、次は平成60年(2048)の干支が戊辰。西暦年を60で割って8が余る年が戊辰の年となる。
・ 慶応2年12月(1866年):徳川慶喜、第15代将軍に就任
・ 慶応3年10月(1867年):徳川慶喜、大政を奉還
・ 慶応4年1月(1868年):鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)
・ 慶応4年3月:甲州勝沼の戦い(近藤勇率いる甲陽鎮撫隊敗れる)
・ 同年4月:江戸城明け渡し。徳川慶喜は水戸へ
・ 同年閏4月:市川船橋戦争(撒兵隊敗れる)
・ 同年5月:上野戦争(彰義隊敗れる)
・ 同年7月:江戸を東京と改称
・ 同年8月:会津白虎隊自刃
・ 同年9月:明治と改元(1月1日に遡って明治元年とすることとした)
・ 明治元年同月:会津戦争終結
・ 明治2年5月(1869年):箱館五稜郭陥落(ここに戊辰戦争終わる)

閏月(うるうづき) : 明治6年(1873)に太陰太陽暦から太陽暦(地球が太陽の周りを回る周期を基に作られた暦)に移行した。太陰太陽暦では太陰暦(月の満ち欠けを基準として作られた暦)を基にしながらも約3年に1度、閏月を挿入して実際とのずれを補正しなければならない。
太陽暦に移行する前の太陰太陽暦は天保暦(てんぽうれき)と言われるもので、それまでの寛政暦と違って西洋天文学を取り入れかなり精密な暦になっていたが、それでも閏月による補正が必要であった。
太陽暦への移行で、明治5年12月3日を一足飛びに明治6年1月1日にしたので、明治5年の12月は1日と2日の2日間しかない。それによって師走の行事などに混乱が生じたようだ。

 幕末の慶応4年(1868)閏4月、江戸城の明け渡しに不満を抱く旧幕府軍(撒兵隊、さっぺいたい)と官軍(岡山藩、佐土原藩、福岡藩、薩摩藩ら)が市川、船橋地区で戦い、ここ市川宿だけでも焼失家屋127軒、罹災者669人に及んだ。
 閏4月3日早朝5時、中山法華経寺に拠点を置く撒兵隊(江原第1大隊)が八幡の岡山藩陣地を急襲し、一時は撒兵隊側が有利に展開した。しかし、その日の午後には松戸方面や江戸川西岸から岡山藩、薩摩藩の援軍が駆けつけ、撒兵隊は敗走し一日で官軍の勝利に終わった。
 この戦い以後、房総地域では新政府に対する集団的な抵抗はなくなり、戦線は会津、箱館へと移っていった。


旧幕府軍の敗因 : 榎本武揚は旧幕府軍・海軍を率いて館山に入り、大鳥圭介は旧幕府軍・陸軍・伝習隊を率いて市川に入った。榎本武揚は箱館へ、伝習隊は会津藩と連携して官軍に対抗するため北へ向かってしまい、撒兵隊(総数2000人、木更津に布陣)は第1大隊300人を中山法華経寺へ、第2・第3大隊600人を船橋大神宮に派遣したが、もうその時すでに伝習隊はいなかった。そこで撒兵隊は単独での江戸奪還は困難と考えて一旦は武装解除を受け入れたが、秒読み段階で突然それを拒絶し攻撃に転じた。撒兵隊の敗因は、
① 新撰組の局長・近藤勇が流山で官軍に捕らえられたことを知り大鳥圭介が動揺し市川から移動してしまった。これが一番大きな敗因。
② 伝習隊と撒兵隊との連絡、撒兵隊同士の連絡がなっていなかったこと。
③ 第1大隊が市川で官軍を打ち破っているとの報を受けているのに昼ごろ船橋大神宮の本営に突然、佐土原藩(さどわらはん、薩摩藩の支藩、廃藩置県のあと宮崎県に編入)軍が現れ大混乱に陥ってしまったこと。
④ 船橋へ敗走中の第1大隊は福岡藩軍によって中山・船橋間を遮断され挟み撃ち遭ってしまったこと。
⑤ 武装解除か否かで隊内で意見が割れたことなどに起因する。

 戦闘が終わった翌日には新政府の特使が住民の被害状況を確認し、市川宿に500両、船橋宿には3000両を下賜して住民が新政府に敵意を抱かないように配慮した。また明治7年(1874)には千葉県令(けんれい、県知事)は、地元民が旧幕府軍も含めた全ての戦死者の供養をおこなう事を許可している(墓標が両市内に点在している)
 第1大隊長の江原素六(えばら そろく、1842~1922)は負傷して戦線を離脱、その後、静岡藩に下向した。明治23年(1890)第一回衆議院議員総選挙に当選、明治28年(1895)には麻布学園を創立するなど、政治家・教育家として名を残した(沼津の江原公園に銅像が建っている)


江原素六と同時代を生きた高木兼寛(1849~1920)は戊辰戦争の際に薩摩藩兵の軍医として従軍。その後、海軍軍医総監となり、慈恵医大を創設した。チビのお出かけ128 を見てね。

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県道沿いに牧場?

 堀之内貝塚公園内には考古博物館もある。興味深く見学した。貝塚公園を散策しているといたる所に貝殻が表層にあらわれている。3千年の時を越えて出会った貝殻・・・ハマグリ、イボ・キサゴが主体で稀にヤマトシジミもあるとか。

 帰り、道に迷って市川松戸道路に出てしまった。そこで牛の親子のオブジェに出会った。
 やっと北国分駅にたどり着いた。来た時には気が付かなかったが駅構内には発掘された縄文土器が展示されていた。


イボ・キサゴ : 扁平なベーゴマのような形をした巻貝。

市川歴史博物館 : 鎌倉時代からの市川の歴史や文化を今に伝えている。特に海辺と台地、水路と陸路など地形を生かした市川の生活や塩作り、海苔の養殖、米作り、梨作りなどが常設展示されている。

市川考古博物館 : 市川市には原始・古代の遺跡が多く、土器・石器・埴輪・瓦など多数出土している。これらを先土器時代から平安時代までを時代を追って展示されている。

(チビの日記!!チビのお出かけ129)
・・・今年のキーワードは 『 ロハス(Lifestyles of Health and Sustainability)とグレイトコラボレーション(Great Collaboration) 』・・・

by chibi-papa | 2007-10-14 23:59 | チビのお出かけ  

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