青戸と青砥(128)19・10・14 

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東京慈恵会医科大学附属青戸病院

 パパはここ青戸病院(当時は青砥病院)で生まれた。
 青戸病院の前身は昭和13年に建てられた大島病院・中川診療所(結核療養所)で、それを昭和18年に東京慈恵会医科大学が買い取り、大学附属中川療養所と改称したのに始まる。
 戦後の昭和21年、総合病院に改組し大学附属東京病院分院青砥病院となる。初代院長には古閑義之教授(こが よしゆき、森田療法で有名な森田正馬 もりた まさたけ教授の直弟子)が就任した。昭和38年には鉄筋4階建の本館が完成したのを機に大学附属病院青戸分院と改称。昭和49年に別館、昭和60年に第二別館が建てられ現在に至っている(昭和61年、青戸分院から青戸病院に変更)

 チ ビ; 青砥病院を青戸病院に なんで変えたんだろうね。

 パ パ; 地名に合わせて地域に根ざした病院をイメージしたんじゃないかな。

 チ ビ; でも、駅名は京成青砥駅、青砥だよ。

 パ パ; 青砥は鎌倉武士の青砥左衛門尉藤綱(あおと さえもんノじょう ふじつな)からきているのさ。

 チ ビ; 地名の青戸は?

 パ パ; 戸は津と同じ意味も持っていて、水上交通の要所に付く地名なんだ。例えば青戸の下流の奥戸(おくど、中川)、松戸(江戸川)、登戸(多摩川)・・・。
青戸の船着場は葛西城(葛西御殿)の近くにあって、大戸(おおと)と呼ばれていたのだろう。それがおおと→あおと→青戸になったと思うんだ。つまり青戸と青砥は全く別の由来からきているんだよ。でも、その青砥藤綱は伝説上の人物で実在しなかったんだ。

 チ ビ; へぇ~そうなんだ。


青砥駅 : 京成電鉄は大正元年(1912)に開業するも、青砥駅ができたのはそれから16年後の昭和3年(1928)であった。それまでは立石・高砂間に駅は設置されていなかった。

東京慈恵会医科大学 : 大学令に基づく旧制大学の中で最も古い医科大学で、高木兼寛が明治14年(1881)に中央区銀座4丁目で開設した 「成医会講習所」 が起源。当時の医学教育はドイツ語が主流であったがここでは英語でおこなっていた。当時の新聞には「日本橋の南にドイツの風は吹かない」と掲載されたりした。
 さらに高木兼寛は翌年の明治15年に有志共立東京病院を開院、明治18年に看護婦教育所を付設。明治20年、皇后陛下より「慈恵」の名を賜り東京慈恵病院と改称する。明治37年には産婆(助産婦)の養成を始める。

高木兼寛(たかき かねひろ、1849年~大正9年・1920年) : 宮崎市の生まれ。薩摩藩蘭方医(オランダ医学)を学び、戊辰戦争の際に薩摩藩兵の軍医として従軍した。明治2年(1869)に開成所洋学局に入学し英語と西洋医学を学ぶ。鹿児島医学校が創設されると21歳でいきなり教授となった。
その後、海軍に入り明治18年(1885)には海軍軍医総監(海軍軍医の最高階級)に登りつめた。当時の軍隊内部で流行していた脚気(かっけ)の解決に取り組み、脚気は細菌が引き起こす感染症であると主張する陸軍軍医の森鷗外(陸軍軍医総監に登りつめる)と対立した(脚気論争)
高木兼寛が主張した白米の中に大麦を混ぜた麦飯食で脚気の撲滅に成功した(明治43年・1910年に鈴木梅太郎によって米の糠から抗脚気因子が発見されオリザニンと名付けられた、オリザリンは世界で最初に発見されたビタミン)

脚気論争と日露戦争 : 陸軍軍医の森鷗外(除隊後は小説家)は自説に固執し麦飯食を禁止する通達を出した。これによって陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名の兵士を失う事態になり「森鴎外はロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した」と批判された。
一方、海軍軍医の高木兼寛は兵員に麦入りご飯を食べさせたため、脚気患者は軽症者がわずかに発生したのみで死者は出なかった。このことは日露戦争での日本海海戦(明治38年・1905年)の間接的な勝因となった。

海軍カレーの登場:陸軍が白米にこだわったのは、軍隊に入ったら白米が腹いっぱい食えるという期待に応えるためもあったのだろう。
一方、海軍は麦飯食にした(当時の麦は臭かったようだ)。そのかわり、カレーなどを用意した。後に海軍のカレーが人気となり、除隊した兵士が国に帰ってカレーライスを作った。それが全国に広がっていった。カレーライスは旨い。

 ところで、8月29日の深夜に奈良県で30代の妊婦(妊娠7ヶ月)を救急車で搬送中に胎児が死産した問題で、感情的に叫んでいる報道が見受けられた。
 でも、妊婦は交通事故などによる負傷者とか急病人とは違う。この妊婦は産科の受診を受けていない「飛び込み出産」で母子手帳を持っていなかった。胎児の大きさとか、逆子か否かとか、感染症はどうだとかが分からなければ、24時間体制による妊婦の受け入れは困難となろう。

 我が国の乳児死亡率は3、0を切っている。つまり出生千人に対して1歳未満で亡くなるのが3人(千三つ)以下ということ。だから不幸にして死産となったら医師、病院は責任を追及されるというご時世、とてもじゃないが怖くて「飛び込み出産」は受け入れたくないというのが産婦人科医の本音だろう。

 9月25日にNHK「その時、歴史が動いた」の第299回「赤ちゃんを死なせない~乳児死亡率ゼロ・ある村の記録~」の再放送があった。昭和31年の岩手県沢内村の乳児死亡率は69、6。つまり出生千人に対しておよそ70人が1歳未満で亡くなっていたことになる。それが昭和38年1月1日午前0時に死亡率ゼロを実現した。
 それは行政と妊婦と医師の連携(今で言う周産期医療システムのことであろう)から生まれた。肝心の妊婦が産科の受診をしていないという無知では救いようがない。


産経新聞の論説に「妊婦たらい回し、また義務忘れた医師たち」と題し、「それにしても、痛みをこらえる患者をたらい回しにする行為は許されない。患者を救うのが医師や病院の義務である。それを忘れてはならない。」とある。マスコミがこのように感情的になっても物事は好転しないどころか、かえって産婦人科医のなり手がいなくなり周産期医療システムを破壊することになってしまう。
妊婦の方にも果たす責任があることを訴えていくのがマスコミの本来の姿であろう。

「日本病院団体協議会調べ」によると、2006年以降に休止した診療科数の一番多いのが産婦人科で71、次の小児科は67、精神科は34。

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葛西城址公園

 国道6号と環七通りが交わる手前右側に葛西城址公園がある。
 葛西城は室町時代初期に関東管領の上杉氏が築いたが、戦国大名の小田原北条氏に攻め落とされた。そして小田原北条氏は里見氏との国府台合戦の時にここを本陣としたことがある。その後、小田原北条氏の滅亡により荒廃してしまった。

 徳川家康によって修復され、鷹狩りの際の休憩所・宿舎(葛西御殿)として使用されたという。ところが、第4代将軍・徳川家綱が治世の1657年、明暦の大火(振袖火事)によって天守閣を含む江戸城が焼失したため、その仮屋として移築された。
 環七通りの向かい側が御殿山公園。今は環七通りで分断されているが、往時はここら一帯が葛西城であり葛西御殿であった。


葛西城 : 葛西城復元図によると中川によって運ばれた土砂が堆積した微高地に築かれた平城で、東側は中川、西側は湿地帯という自然の地の利を生かした場所にあった。そして城郭(じょうかく)は中川から運河のように引いた堀と土塁によって防御されていた。

関東管領(かんとう かんれい) : 室町幕府が設置した鎌倉府(関東十カ国を統治するための出先機関)の長(鎌倉公方、かまくら くぼう)を補佐する役職。代々上杉氏が世襲していた。

小田原北条氏 : 単に北条氏というと鎌倉執権の北条氏と混同するので、こう呼ぶ。後北条氏(ご ほうじょうし)ともいう。
1590年、豊臣秀吉により小田原北条氏が滅んだ後は徳川家康の支配下に入る。

明暦の大火(振袖火事)についてはチビのお出かけ95を見てね。

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青砥史蹟復興之碑

『 秋本番 広く香るや 金木犀 夏は梔子 春沈丁花 』 (チビ)
『 金木犀 香り漂い 石蕗(つわぶき)の 黄色目につく 神無月かな 』 (チビ)

 チ ビ; 青砥史蹟復興之碑、何々・・・「鎌倉幕府の名臣(めいしん)評定頭(ひょうじょう がしら)青砥藤綱はこの地を愛好し・・・」
パパ~。パパは藤綱は伝説上の人物だと言ったけど、実在していたんじゃないの?さらに「・・・名判官(めいはんがん)としての善断(ぜんだん、うまく処置すること)滑川(なめりがわ)に於ける逸事(いつじ)等・・・」。ほら~、藤綱はいたんだ!実在していたんだ~!
ねえ、滑川における逸事ってなあに?

 パ パ; 青砥藤綱がある夜、滑川を馬で渡っている時、十文銭を落としてしまったんだ。すぐ家来に命じて松明(たいまつ)を五十文で買ってこさせ、その灯りでようやく銭を探し当てることができた、という逸話ばなしなんだ。

 チ ビ; 十文を見つけるのに五十文使ったら四十文の損じゃない。

 パ パ; それに対して青砥藤綱は、「たとえ十文の銭であっても、探さなくては天下の貨幣は永久に失われてしまう。拾い上げた十文銭は手元にあるし、松明を買った五十文も商人の手から次々に流通して世の中で役立っている。合わせて六十文の銭はなんの損失もない。これが天下の利益というものだ」と説いたんだ。

 チ ビ; 藤綱は経済の本質が良くわかっているみたいだね。

 パ パ; 公正で剛直(ごうちょく、信念を曲げないこと))な青砥藤綱という架空のキャラクターを通して善政とされる執権政治を目標とし、鎌倉幕府を維持しようとしたんだ。


金木犀(きんもくせい) : 春の沈丁花(じんちょうげ)、夏の梔子(くになし)とならび強い香りを漂わせる。金木犀は菓子などに芳香を添える素材として栽培されている。金木犀といわれる所以は、花が黄赤色(いわゆる金色)で、灰褐色の幹や紋が動物の犀(サイ)の皮膚に似ているため。 

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青砥藤綱城跡

 チ ビ; パパ~!決定的な証拠を見つけたよ!「青砥藤綱城跡」の石碑!関東管領の上杉氏がここに城を築く前に藤綱が築城したんだ~!室町時代の前の鎌倉時代にだよ~!パパ~!

 パ パ; そんな大声を出さなくても聞こえるよ!藤綱は伊豆大場氏の後裔(こうえい、子孫のこと)で、承久ノ乱の功により上総国青砥の地を賜り青砥を名字としたというけれど、「角川地名大辞典・千葉県」によると上総には青砥という地名は無い!それに生年月日も亡くなった日もわからないんだよ!評定頭だったのにそんな事ありえないだろう。

 チ ビ; う~ん。

 パ パ; 奥州平泉の中尊寺に伝わる鎌倉時代の古文書には、この地を本拠地としていた青戸二郎重茂(あおと じろう しげもち)なる武士の名が記されている。その青戸は地名が先なのか、青戸重茂の名が先なのかは不明だけど、青戸重茂と青砥藤綱が混同しちゃったんじゃないかな。

 チ ビ; でもボクは藤綱が実在の人物だと思うんだ。今度、鎌倉に行ったときに滑川で青砥藤綱実在の痕跡を探すんだ!


承久ノ乱(じょうきゅうノらん) : 鎌倉時代の承久3年(1221)に後鳥羽上皇(ごとば じょうこう)が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げて敗れた兵乱。この乱の結果、幕府の力が優勢となり朝廷の権力は制限されることになる。

 = チビとパパの青砥藤綱実在論争はまだまだ続きそう =

(チビの日記!!チビのおでかけ128)
・・・今年のキーワードは 『 ロハス(Lifestyles of Health and Sustainability)とグレイトコラボレーション(Great Collaboration) 』・・・
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by chibi-papa | 2007-10-14 17:45 | チビのお出かけ  

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