(126)19・09・02 高橋是清翁記念公園

e0031605_22571439.jpg
1955年(昭和30年)に再建された高橋是清像

 地下鉄・銀座線・青山一丁目駅下車、青山通りを赤坂見附方向に行くと、カナダ大使館と草月会館の間に高橋是清翁記念公園(たかはし これきよ おう きねんこうえん)がある。向かいは赤坂御用地で紀州徳川家の下屋敷があった所。こちら側は丹波篠山藩(たんばささやま はん)青山家の中屋敷があった。その後、明治11年に赤坂区役所になり(明治24年には現在の港区役所赤坂支所の位置に移転)、明治35年に高橋是清邸が完成し二・二六事件で倒れるまでここで30年あまりを過ごした。母屋は都立小金井公園内の江戸東京建物園に移築されている。

赤坂区 : 芝区、麻布区、赤坂区は昭和22年に統合されて港区になった。区名を新聞で募集したところ青山、城南、東港、三田などあったが、東港(とうこう)に絞られた。しかし東京都東港区では「とうきょうととうこうく」となって早口言葉のようになってしまうので、東港の東を削って港区とした。 

 高橋是清(1854年・安政元年~1936年・昭和11年、享年82)は第20代総理大臣そして7回も大蔵大臣を務めた。そのふくよかな容貌から 「だるま蔵相」 と呼ばれ、その人生はまさに七転び八起きの人生であった。

時代背景
 ・ 4歳の時 1858年(安政5年) 安政の大獄
 ・ 6歳の時 1860年(万延元年) 桜田門外の変
 ・13歳の時 1867年(慶応3年) 大政奉還
 ・17歳の時 1871年(明治4年) 廃藩置県
 ・23歳の時 1877年(明治10年) 西南戦争
 ・40歳の時 1894年(明治27年) 日清戦争(~1895)
 ・50歳の時 1904年(明治37年) 日露戦争(~1905)
 ・60歳の時 1914年(大正3年) 第一次世界大戦(~1918)
 ・69歳の時 1923年(大正12年) 関東大震災
 ・72歳の時 1927年(昭和2年) 昭和金融恐慌
 ・78歳の時 1932年(昭和7年) 五・一五事件
 ・82歳の時 1936年(昭和11年) 二・二六事件
 ・五年後の  1941年(昭和16年) 太平洋戦争(~1945)

 安政元年、幕府御用絵師の子として生まれたが、庶子(しょし、相手は30も年下の女中)のため生後まもなく仙台藩の足軽・高橋家に里子に出され養子となる。
 1864年、10歳の時に仙台藩より英学修行の生徒に選ばれ、横浜でアメリカ人宣教師のヘボン塾(現・明治学院大学)に学ぶ。


ヘボン塾の同窓として、駐英公使として日英同盟締結に尽力し、外務大臣となった林董や三井物産の創設者の益田孝らがいた。

ヘボン式ローマ字 : ヘボンは1815年、アメリカ・ペンシルバニア州で生まれ、ペンシルバニア大学で医学を学ぶ。日米修好通商条約が締結された(1858年・安政5年)情報が伝わると、翌年に宣教師として横浜居留地で活動を開始する。夫人の協力を得て塾を開く(1872年・明治5年には女子教育をおこなうため宣教師キダーがヘボン塾から独立して現・フェリス女学院を興す)とともに和英・英和辞書を1867年に出版。その辞書で用いたのがヘボン式ローマ字。
チビをヘボン式ローマ字で書くと chibi 、訓令式ローマ字だと tibi 。明治学院大学の白金キャンパスにはヘボン館がある。

 13歳の時、仙台藩の命令によりアメリカ・サンフランシスコに留学。しかし、意味が分からないまま奴隷売買契約書にサインさせられ、カルフォルニア州オークランドの農園主に50$で売り飛ばされてしまった。運良く助け出され翌年・明治元年に帰国した。帰国したものの仙台藩は官軍に抵抗したためアメリカ帰りの是清を受け入れるどころではなかったが、サンフランシスコで知遇を得た薩摩の森有礼(もり ありのり、後の初代・文部大臣)が書生として雇ってくれた。
 さらに、東京大学の前身の英語助手の仕事を世話してくれた。ところが、芸者遊びを覚えてしまい、ついには教官を辞職して芸妓のヒモに・・・。そんな生活に疑問を持ち始めたころ、唐津藩が英語学校を新設してその教師を求めていたのを聞きつけ唐津へ。24歳の時に大学予備門(東京大学の前身)の教員となる。その傍ら共立学校(現・開成高校)の校長に就任した。


共立学校と岡田総理 : 1871年(明治4年)、現在の神田淡路町に創立されたが創立者の急逝により廃校同様になっていたところに、1878年(明治11年)に是清が大学予備門(現・東京大学)の教師のかたわら共立学校の校長となる。是清は同校を進学予備校として再生し、翌・明治12年には大学予備門入学者の4分の1を占めるに至った(現在でも開成高校は東大合格者数でトップの座にある)
岡田啓介は共立学校での是清の教え子だった(岡田の下で7度目の大蔵大臣に就任)。岡田は福井から上京して共立学校に在籍したが、学資がかからない海軍兵学校に進み→海軍水雷学校校長→海軍大将→総理大臣(第31代)になった。対米戦争の回避、終戦に向けて尽力した。戦後の昭和27年、サンフランシスコ平和条約発効により日本の主権回復を見届け85年の生涯を閉じた。

 英語教師と翻訳で5千円を貯めた。それを3万円に増やしてその利子で、30名程度の私的な奨学金制度を作ろうと考えていた。そうしたら、銀相場を勧められそれに乗ったら詐欺だった。瞬く間に5千円が消えてしまった。
 そんな是清を救ってくれたのはまたもや森有礼であった。森の世話で特許局(農商務省の外局)の初代局長に就任(33歳)し、欧米を視察し特許法の制定に尽力した。ところがまたしても黒い影が寄ってきた。35歳の時、森有礼の友人の前川農商務省次官がペルーの銀山開発の話を持ち込んできた。是清は国家のためになると思って、休職してペルーに渡るもそこは廃坑だった。ペルー側の詐欺だった。ペルーから帰国後、邸宅を売り払い清算し、さらに特許局長も辞職せざるを得なかった。これに責任を感じた前川次官は是清を日本銀行総裁に紹介し、とりあえず事務主任になった。日銀総裁は是清の能力を高く評価し本店支配役に登用した。更に東京銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の前身の横浜正金銀行(よこはま しょうきん ぎんこう、外為専門の銀行)に移り外為業務を習得し、44歳で日銀副総裁、56歳で日銀総裁になった。


 日露戦争の戦時外債の公募で活躍したことにより50歳の時に貴族院議員に勅選され、53歳で男爵となった。第一次山本権兵衛(やまもと ごんべえ)内閣の大蔵大臣に就任(58歳)、原敬(はら たかし)内閣でも大蔵大臣(2度目、64歳)となり、子爵になった(66歳)。原敬が暗殺に倒れた直後に第20代内閣総理大臣に就任(67歳)するも、大黒柱の原敬がいない党を立て直すことができず、内閣は7ヶ月で瓦解した。
 69歳の時に爵位を返上して貴族院議員を辞任、衆議院議員選挙に立候補し当選。その後、農商務大臣に就任したりした。昭和2年(72歳)に昭和金融恐慌が発生、田中義一(たなか ぎいち)内閣で4度目の大蔵大臣として金融恐慌対策に従事した。犬養毅(いぬかい つよし)内閣の時に5度目の大蔵大臣に(77歳)、岡田啓介(おかだ けいすけ)内閣の時に7度目の大蔵大臣に就任(80歳)した。昭和11年に公債漸減による財政引き締めの方針をとって軍部と対立、その年の二・二六事件で赤坂の自宅で暗殺された。享年82。
 “我こそは国家の経済の番人なり”という雰囲気の肖像画は日本銀行・本店に掲げてある。


昭和金融恐慌 : 今から80年前の昭和2年(1927)3月、震災手形(本来は関東大震災で支払ができなくなった手形のことで、内47%が鈴木商店のもの)の整理中に台湾銀行の総合商社・鈴木商店への放漫な貸付による経営破綻が暴露され、取り付け騒ぎが起こった。これを機に破産が相次いだ。
取り付け騒ぎなどの事態を収拾できず若槻内閣は総辞職し、4月20日、田中義一内閣が成立した。田中は80歳の是清を蔵相(4度目)に任命して金融恐慌の解決を図った。是清はすぐさま5月12まで支払猶予令(モラトリアム)を実施することを決め、その発令の準備期間として4月22日(金)、23日(土)を全国の銀行を一斉に休業とし、24日の日曜日を含めた3日間で片面印刷の2百円札を大量に刷り、見せ金として銀行の店頭に積ませた。これによってモラトリアム修了後も混乱なく、金融恐慌は沈静化した(3週間のモラトリアム期間中に1250万枚・25億円分を印刷し、その後 回収した)
 今年6月に亡くなった宮澤喜一は平成10年に小渕内閣発足時に蔵相に就任し「平成の高橋是清」といわれた。金融危機に際して大量の赤字国債を発行し続けたため、その多額の償還が来年・平成20年から始まる。財政危機が目前に迫ってくる。
ところで今の世界経済を見るに、サブプライム問題(Subprime problem)をきっかけに世界大恐慌がとてつもなく大きな口を開け始めたようだ。
 
二・二六事件(にいにいろく じけん) : 昭和11年2月26日、未明からの異例の大雪。近衛歩兵第3連隊の営門(現在TBSがある)を137名の部隊が出発。三分坂(さんぷんさか)、薬研坂(やげんさか)を越え高橋蔵相邸まで10分たらず。率いるは中橋基明(なかはし もとあき、30歳)中尉。
内62名が屋敷内に突入、門前で制止する玉置巡査は重傷。中橋中尉が「天誅」と叫んで、是清が寝ている蒲団を剥ぎ拳銃を3発撃ち、中島少尉(27歳)が軍刀で突いた。午前5時5分、絶命。
軍法会議で公判を23回実施した後、中橋中尉および中島少尉はともに叛乱罪で昭和11年7月5日死刑判決。処刑日は7日後の12日。

是清が襲撃された理由
5度目の蔵相の時(犬養内閣)・・・昭和7年、上海事変が勃発。陸相が陸軍部隊派遣を閣議に諮ったが、是清は財政面から反対する。陸相は憤慨しながらも、最小限の出兵と不拡大を約束して了承を得た。
6度目の蔵相の時(斎藤内閣)・・・閣議の席で「陸軍は予算をやるとすぐ戦争をする」の発言で陸相と激論となる。
7度目の蔵相の時(岡田内閣)・・・「国防とは守るに足るだけで良し。軍部は常識に欠けている。地方幼年学校の増設は無意味である。社会から隔離した特殊教育を幼年学校で行なうから片寄った人間を作るので。この人間が陸軍の幹部となって政治にまで口を出すのだから言語道断、国家の災いである」と、予算閣議の席で陸相に説教をした。

それぞれの晩年
東郷平八郎(海軍大将、1848~1934、享年86)・・・軍令・軍政に干渉。老害を撒き散らす。
大山 巌 (陸軍大将、1842~1916、享年74)・・・内大臣になるも軍に対して一切不干渉を貫く。
高橋是清(政治家、1854~1936、享年82)・・・大蔵大臣として必死になって軍部の暴走を止めるも止められず、暗殺された5年後に太平洋戦争に突入。

高橋是清とユダヤ人銀行家・ジェイコブ シフ(1847~1920)。この2人の死によって、我が国と欧米の関係は新たなステージを迎えることになる。

(チビの日記!!チビのお出かけ126)
・・・今年のキーワードは 『 ロハス(Lifestyles of Health and Sustainabillity)とグレイトコラボレーション(Great Collaboration)』・・・

  
[PR]

by chibi-papa | 2007-09-02 22:59 | チビのお出かけ  

<< (127)19・09・08 紀... 東京都慰霊堂(125)19・0... >>