徳冨蘆花と芦花公園(122)19・08・11 

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徳冨蘆花が20年間住んだ母屋
 
 芦花恒春園(ろか こうしゅんえん)は京王線・芦花公園駅から15分のところにある。明治・大正期の文豪・徳冨蘆花(とくとみ ろか、熊本県水俣出身、1868-1927)が40才の時に青山高樹町(港区南青山、首都高速道路の高樹町ランプ付近)からここ東京府下北多摩郡千歳村粕谷(世田谷区粕谷1丁目)に移転して、昭和2年に逝去するまでの20年間をここ恒春園で晴耕雨読の生活を送った。
 お盆休みでもあるので、蘆花の代表作『不如帰』(ほととぎす)を読み返してみた。明治の女の悲しい運命を主題に持ってきたこの小説は大評判となり劇化され映画化された。こうした背景には明治の女性の大きな共鳴があったからであろう。

 蘆花はある日、大山巌・陸軍大将の副官であった中佐の未亡人から大山大将の長女・信子についての悲しい話を妻の愛子と一緒に聞いた。中佐は大山大将の信任が厚く一家は大山家と同居するような形であった。
 信子は17才の時、三島警視総監の長男・弥太郎(27才)と結婚した。二人は愛し合い幸福な新婚生活を持ったが、新婚2ヶ月目が過ぎることから信子は肺結核に感染したことから悲劇は始まった。三島弥太郎の母・わか子は信子の様子を見て急に辛くあたるようになり、信子に離婚を迫った。信子は愛する夫との生活を続けるために歯をくいしばってこの苦難に耐えた。しかし、結婚7ヶ月目で愛する二人は離婚させられてしまった。信子は実家の大山家に引き取られ、それから3年後に息をひきとった。信子は「あゝ辛い!辛い!もう女なんぞに生まれはしませんよ。」と叫んだという。その叫びは不如帰の叫びのようだった(トッキョキョキャキョク、特許許可局と聞こえるその鳴き声は叫ぶが如し)
 蘆花はこの話を聞いて小説を書こうと思った。大山巌大将を片岡中将に、大山夫人の捨松を繁子に、三島弥太郎を川島武男に、三島わか子を川島未亡人として、大山信子の哀話を小説に組み立てた。
 ヒロインの信子には蘆花夫妻が自分たちの子供の名に用意していた浪子という名をつけることにした。そして小説の冒頭には蘆花夫妻の新婚旅行の地・伊香保の風景を持ってくることにした。蘆花と愛子の夫婦合作の小説ともいえる。
 「上州伊香保千明(ちぎら)の三階の障子開きて、夕景色を眺むる婦人。年は十八九。品よき丸髷(まるまげ)に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬(こもんちりめん)の被布(ひふ)を着たり。」で始まる『不如帰』は明治31年(1898)11月の国民新聞から連載されることになった。

 ところが、事実は小説『不如帰』と違い、離婚話は大山家から三島家へ持ち込まれ、しかも三島家は最初これを拒んだという。しかし、大山家は信子の病が三島家に災いをもたらすことを心配して強く離婚を主張して明治26年7月に信子を実家に引き取ったというのが真相のようだ。当然のことであるが、小説のモデルはモデルでしかありえない。小説の世界と実際の世界を混同しないように注意する必要がある。


大山巌(おおやま いわお 1842-1916) : 薩摩藩士、薩摩軍の砲術隊長。日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官、日露戦争においては陸軍元帥として満州軍総司令官に就任。ともに日本の勝利に大きく貢献した。同じ薩摩藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と評された。捨松とは再婚。

大山捨松(おおやま すてまつ、1860-1919、旧姓:山川) : 会津若松の出身。岩倉使節団一行と渡米。渡米の際、「捨てたつもり、それでも帰りを待つ(松)」との母の切ない思いを込めて咲子から捨松へと改名された。日本人初の女子留学生、日本女性初のアメリカ学士号を取得。帰国後、大山巌と結婚。

大山巌と捨松との結婚 : 会津戦争で官軍の砲兵隊長は大山巌。鶴ヶ城(若松城)に籠城する会津藩に対し雨霰のように砲弾を撃ち込んだのは大山巌。当時まだ9歳だった咲子(捨松)は負傷兵の手当て、炊き出しで籠城戦を戦い、焼玉押さえ(不発弾の処理)を手伝って怪我もしている。また防衛総督の長兄の妻が爆死している。さらに、降伏後は会津藩23万石は下北半島の最北端の斗南藩(となみはん)3万石(実質7千石)に改易となり、生活は困窮を極め、口減らしのため咲子は函館に里子に出された。
そんなことから大山巌からの求婚に対して、母も長兄も絶対反対だった。が、農商務卿の西郷従道(つぐみち)の説得、留学生仲間の永井繁子の勧めなどもあって、山川家では本人次第ということになった。これを受けた捨松は「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と、デートを提案した。薩摩弁の濃い大山巌との意思疎通はもっぱら英語で話し始めた。すると、会話がはずんでいった。そんなことで、42歳と24歳、薩摩藩出身と会津藩出身が結ばれることになった。

捨松とスペイン風邪 : 大山捨松は大正8年(1919)、スペイン風邪(新型インフルエンザ)で亡くなった。このスペイン風邪は前年の1918年から猛威を振るい、世界で5000万人、我が国で39万人が亡くなった。
今、鳥インフルエンザという新型インフルエンザが脅威になってきている。スペイン風邪の二の舞にならないことを祈る。

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幸徳秋水事件から名を付けた秋水書院

 幸徳秋水事件(こうとく しゅうすい じけん)の政府の対応に対する蘆花の抗議の気持ちを表すためにこの名(秋水書院)が付けられた。蘆花は秋水らの死刑を阻止するため、兄・徳富蘇峰(とくとみ そほう)を通じて桂太郎首相へ嘆願しようとするが間に合わず処刑されてしまう。その直後に一高の学生達に「諸君、謀叛(むほん)を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。」との謀叛論を講演した。

 幸徳秋水事件は大逆事件(たいぎゃく じけん)ともいわれ、明治天皇の暗殺を計画したという理由でおこなわれた弾圧事件。主謀者とされたのが幸徳秋水である。大逆とは人の道に背く最も悪い行いで、旧刑法第73条に「天皇、皇太子などに対し危害を加え又は加えんとした者は死刑に処す」と規定した犯罪で、大審院において第一審にて終審とされた。
 事件の発端は明治43年(1910)に爆発物取締罰則違反で逮捕された者が幸徳秋水とつながりがあったことから、明治政府はこの事件を利用して、明治天皇暗殺といった一大陰謀事件を捏造し社会主義者や無政府主義者を一網打尽に抹殺しようと企てたといわれる(裁判は非公開でなされ、公判記録も戦災でほとんど失われている)。明治44年1月18日に死刑24人、有期刑2人の全員有罪判決を下し、翌19日に天皇の恩命(情けある御命令)により12人が無期懲役に特赦減刑する一方で、24日に11名を、翌25日には残り1名の死刑を執行した。異例の早さであった。まさに国家権力の暗部を象徴する暗黒裁判であった。


戦後の昭和36年、事件の唯一の生存者・坂本清馬が東京高裁に再審請求したが昭和40年に却下され、直ちに最高裁に特別抗告したが昭和42年にそれも却下された。平成13年、刑死90周年の記念講演会で作家の瀬戸内寂聴は「日本が世界に恥じる間違った裁判で無実の罪がでっち上げられた。」と訴えた。
当時、徳富蘆花の他、与謝野晶子、石川啄木、森鴎外、佐藤春夫など多くの文学者たちが政府批判の声を挙げた。この事件に関心を寄せていないと、また再び同じようなことが起こってしまう。

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徳富夫婦の墓碑

 母屋を抜けて恒春園の櫟(クヌギ)の木立に囲まれた中に徳冨蘆花夫婦の墓碑がある。墓碑の前には兄・蘇峰による墓誌がある。

 徳富健次郎墓誌
 (この墓に眠る人は、徳富健次郎といい号を蘆花(芦花)と称した)
 「1868年12月8日(明治元年10月25日)熊本県水俣市で生れ、(略)。芦花の幼時はひ弱であったが、少年時代から青年時代にかけて、父や兄から訓育を受け教導されて、その性格が形づくられた。中年以降はすぐれた文人として自立し、その著作は、広く世間に読まれ多くの読者に好まれた。
 芦花の妻は愛子、原田氏の出である。夫妻は互いに相たすけ、常に離れることがなかった。しかし、ついに子供には恵まれなかった。伊香保の療養先で、最期に臨んで、兄に後事を頼み、心静かに永眠した。数え60歳である。ときに1927(昭和2)年9月18日のことであった。芦花は生れつき真面目で意思強く妥協を排し、世間の動きに左右されることがなかった。
 また、与えることが多く、愛情を持って人々に接した。文章をつくるにあたっては、さまざまな思いが泉のように湧き出て、つぎつぎと言葉が流れ出るようであった。芦花の生涯は、終始自らを偽らず、思うままに躍動し、ひたすら真善美を追求することに努めた人生であった。遺骸は、粕谷恒春園の林の中に持ちかえり埋葬された。これは自身の生前からの願いであり、また粕谷の村人たちの希望するところでもあった。 
 兄徳富蘇峰65歳 涙をぬぐいつつ書く。」


 この墓誌の原文は、蘆花死去の直後に、兄・蘇峰によって漢文で書き記され、石盤に刻まれて墓におさめられている。

 蘆花は、国家主義的傾向を強める兄・蘇峰に反発し次第に不仲となり、明治36年(1903)に兄へ「告別の辞」を出す。幸徳秋水らの助命嘆願(明治43年)以外は疎遠となったままになっていたが、伊香保の療養先で再会する。蘆花は兄に「後のことは頼む」と言い残して亡くなったという。
 蘇峰がしたためた墓誌には「意思強く妥協を排し、世間の動きに左右されることがなかった」と弟の生き方を評価している。


 今日は暑かったニャ!ラニーニャ現象(南米ペルー沖の海面水温が平年より低くなる現象)のため太平洋高気圧が強くて、今年一番の暑さだったらにーニャ!東京・練馬では37.6℃を記録。 暑さ対策としてバックにアイスノンを2つ入れてのお出かけだった。だからボクは快適!それを担いでいるパパは汗ダラダラ。パパ、おつかれ~。

 (チビの日記!!チビのお出かけ122)
・・・今年のキーワードは『ロハス(Lifestyles of Health and Sustainability)とグレイトコラボレーション(Great Collaboration)』・・・
 
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by chibi-papa | 2007-08-11 22:21 | チビのお出かけ  

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