大多喜城(上総)(112)19・05・04 

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大多喜城・天守閣

 パ パ 大多喜城(おおたきじょう)を築いた本多忠勝(ほんだ ただかつ)という武将を知っているかい?

 チ ビ うん。生涯において出陣した合戦は50数回にも及んだけれど、かすり傷一つ負わなかったという武将でしょ。でも、なんでなんだろう?重武装していたからかな?

 パ パ ところが反対に軽装だったらしいよ。咄嗟(とっさ)の時の回避を重視していたんだって。チビも身軽でスバシッコイから怪我一つしないだろう。

 チ ビ そっか~。ボクは本多忠勝に似てるかニャ~。

 パ パ オッ、渋いね~。でも、武将というより、チビのその目つきはニヒルなお侍さんってとこかな。

 チ ビ 寄らば切るぞ!

 パ パ なんか時代劇ぽくなっちゃったね。


 戦国時代、木更津(きさらづ)を本拠地とする真里谷(まりやつ)氏の真里谷城の出城(でじろ)として1521年、小田喜城(おだきじょう)が築かれた。上総の中部から西部一帯を支配していた真里谷氏であったがその後、勢力が弱まり1544年に里見勢に小田喜城を奪われてしまった。
 1590年、里見氏が豊臣秀吉が出した法令「惣無事令」に違反したこと及び小田原の役での遅参(ちさん、決められた刻限に遅れること)したことを理由に上総国を没収され、上総国は里見氏に替わって徳川家康に与えられた。徳川家康は安房国(あわのくに)・里見氏の北上を警戒して配下の本多忠勝(徳川四天王に数えられた)を10万石の大多喜藩初代藩主(1590~1601)に据えた。そして小田喜城とほぼ同じ場所に三層四階の天守閣を持つ近世城郭(きんせい じょうかく)の大多喜城を築城した。

 その後、大多喜藩の規模縮小に伴い、天守閣も荒廃し、1842年に天守閣は焼失。財政難に苦しんでいたため再建できないまま明治4年(1871)の廃藩置県(はいはんちけん)を迎え廃城(最後の藩主の時は2万石にまで落ち込んでいた)となった。
 城を復元することになったが良質な資料が残されていなかったので、江戸期の一般的な天守閣を参考にして、昭和50年(1975)に天守閣の形をした博物館を建てた。現在の千葉県立中央博物館・大多喜城分室がこれである。


平山城(ひらやまじろ) : 守城戦が有利になるように丘や台地などに築かれた城。大多喜城は夷隅川(いすみがわ)を天然の外堀とした要害堅固(ようがいけんご)な城郭であった。

惣無事令(そうぶじれい) : 大名間の死闘を禁じた法令。これにより大名間の領土紛争などは全て豊臣政権がその最高処理機関となった。

本多忠勝(1548~1610) : 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。大多喜藩初代藩主を勤めた後は、桑名藩初代藩主(1601~1609)となる。

 チ ビ 房総の旅は楽しかったけど、もうくたびれちゃった。お家に帰りたいニャ~。

 パ パ ハイ、ハイ。明日一番で帰ろうね。ところで、なぜ房総半島というか知ってるかい?

チ ビ え~っと、安房(あわ)の国の「房」と上総(かずさ)の国の「総」で房総(ぼうそう)でしょ。楽しかったからまた来ようね。

里見氏のことは平成18年12月9日の チビの愛唱歌 ♪24 を見てね。

 (チビの日記!!チビのお出かけ 112)
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by chibi-papa | 2007-05-04 00:00 | チビのお出かけ  

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