玉川上水と玉川兄弟 (103)19・04・01

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多摩川(羽村取水口あたり)

 『 誇らしげ 羽村の堰の 桜かな 』 (チビ)

 第3代将軍・徳川家光の頃になると膨れあがる人口のため、井之頭池の湧水を水源とした神田上水(かんだ じょうすい)では足らなくなってきた。そこで、第4代将軍・徳川家綱の治世になった1652年に幕府は多摩川から江戸に上水を引く計画を立てた。そして玉川兄弟に幕府から6000両(7500両?)下賜(かし)され、1653年4月開削工事(かいさく こうじ)を開始、同年11月開削工事完了、そして翌1654年6月より江戸市中へ待望の通水が始まった。

 羽村(はむら)から四谷大木戸(よつや おおきど)までの43km、高低差92mを、鍬(クワ)や鶴嘴(ツルハシ)そして畚(モッコ)程度の道具だけで、世紀の大土木工事を僅か8ヶ月で完成させた。以後、淀橋浄水場が廃止(昭和40年)するまでの約310年間、この玉川上水(たまがわ じょうすい)が利用された。


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羽村取水口

 多摩川の流れは取水堰(しゅすいぜき)のあたりで蛇行し羽村の岸に直角にぶつかる所で取水され、武蔵野台地の稜線(りょうせん)を選んで江戸への水路とした。

試験的に通水してみたら、現在の福生市熊川あたりで水喰土(みずくらいど、水を食べてしまうような土)と呼ばれる砂利層に、水がみるみる地中に吸い込まれていってしまった。その時の落胆はいかばかりであったろうか。それでもすぐ気をとり直して、水喰土を避けて約1km掘り直した。
台地の稜線に水路を通したおかげで、野火止、千川、三田などの分水に好都合だった。千川上水は大蔵省印刷局王子工場に、三田用水はサッポロビール恵比寿工場(平成18年12月23日、チビのお出かけ 92 を見てね)で近年まで利用されていた。

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玉川上水羽村陣屋跡

 取水堰の向かいに上水道の取り締まり、水門や水路、堰堤(えんてい)の修理などの上水管理に関する業務のため、陣屋(じんや、役人の詰め所)が置かれていた。 

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玉川兄弟銅像

 羽村公園で立って堰(せき)を指さしているのが兄・庄右衛門(しょうえもん)、座って測量用の杖尺(じょうじゃく、じょうしゃく)を手にしているのが弟・清右衛門(せいえもん)
 測量は束(たば)にした線香を竹竿(たけざお)に括り付け(くくりつけ)たり、提灯(ちょうちん)の明かりを利用して夜間に行なわれたという。また高井戸村(現:杉並区高井戸)付近まで掘り進んだ所で幕府からの資金が不足してきた。そのため家産を投入してまでして工事を続行したという。

 完成後、その功績により兄弟は名字帯刀(みょうじ たいとう)を許され、玉川姓を名のる事を許された。また、200石の扶持(ふち)を賜り(たまわり)、玉川上水役に任ぜられた。明治政府は明治44年に明治政府は従五位を追贈(ついぞう)し、業績を讃(たた)えた。昭和61年には、東京都は水流を復活させて玉川兄弟を讃えた。


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小平監視所付近

 西武拝島線及び多摩都市モノレール・玉川上水駅の近くに都水道局の監視所がある。羽村で取水した多摩川の水はこの監視所で水質監視をおこなった後、東村山浄水場へ埋設管で送水されている。
 一方、昭島市にある多摩川上流水再生センター(下水処理場)で再生された水を埋設管でここまで運び、小平監視所に隣接したポンプ場で、野火止用水用と、玉川上水用に分けて流している。
 このように現在は羽村からここまでは文字どおりの上水が、ここから下流は下水の再生水を流しているわけだが、これによって空堀(からぼり)状態になっていた玉川上水に水流が復活し、玉川兄弟の偉業を今でも顕彰することができる。
 再生水の噴出部は滝のようになっていて、ほんの少し臭った。鴨はそんなことを気にせずのんびり泳いでいた。


小平監視所では除塵機(じょじんき)でゴミを取り除いていた。大切な水資源、汚さないようにしようね!チビからのお願いです!!

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四谷大木戸跡

 新宿区四谷区民センターの脇に水道碑記と並んで四谷大木戸跡の石碑がある。また玉川上水掘割跡もある。四谷水番所で水量を調節していた。ここから先は木樋や石樋による地下水道(ちかすいどう、江戸東京博物館にその模型が展示されている)だった。

水道碑記(すいどうノいしぶみノき) : 高さ4、6メートルの石碑。玉川上水建設の理由や工事を請け負った玉川兄弟の功績を讃えた内容が記されている。石碑の上部の篆字(てんじ)は徳川宗家16代当主の徳川家達(いえさと)

四谷大木戸の水番屋(みずばんや) : ここで水量調節し、台風などで水が増えた時は現在の新宿御苑の玉藻池(たまもいけ)に余水を流していた。玉藻池を源流とする渋谷川は神宮前5、6丁目の辺りがかつて隠田村であったことから、宇田川と合流するまでの流れを隠田川(おんでんがわ)とも呼んでいた。流れはやがて芝大門(金杉橋)あたりで江戸湾(東京湾)に注いでいる。
水番屋は羽村、代田村(杉並区)にもあったが、四谷大木戸の水番屋は構内の面積は630坪(2,082㎡)余りあり、芥留(あくたどめ)、流れてきたゴミを止める)、吐水門(はきみずもん、満水時に玉藻池に水を排水する)、水門(すいもん、ここから暗渠へ入る)があった。水門では水量を測定する歩板(あゆみいた)が設けられこの板と水面までの間隔から水量の増減を調べた。

余水は玉藻池の手前600mの「母と子の森」エリアの池にも流していた。上ノ池、中ノ池、下ノ池を通って千駄ヶ谷駅の東の外苑橋交差点付近で玉藻池からの流れと合流していた。

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玉川兄弟の墓(台東区・聖徳寺)

 寺の門前に 『水の恩人・玉川兄弟顕彰碑』 があり、そこには「水を大切にしましょう」の添え書きがある。墓所の正面奥には 『不朽之功績』 (ふきゅうのこうせき)と刻まれた石碑があって、その左奥に兄・庄右衛門(?~元禄8年、1695年)、その手前に翌年亡くなった弟・清右衛門(?~元禄9年、1696年)の墓碑が並んでいる。

 手作業で正確に43kmをたった8ヶ月間でやり遂げた玉川兄弟を、改めて賞賛する次第です。


『水源を 使命に燃えて切り開く 兄弟技に 万朶(ばんだ)微笑む』 (チビ)

 明治維新後の玉川上水の歩み
・明治19年(1886年)
 コレラが大流行し東京では1万人が死亡。原因
 は多摩川の上流でコレラ患者の汚物を流した
 ためとみられた。
・明治26年(1893年)
 東京市街の水源確保(飲料水汚染防止)のため、
 三多摩地区(北多摩郡、西多摩郡、南多摩郡)を神奈川県から東京府に編入する。
・明治29年(1896年)
 杉並区・和泉給水所から淀橋浄水場までの
 新水路が完成する。
・明治31年(1898年)
 新宿区西新宿に淀橋浄水場が完成し通水する。
・明治32年(1899年)
 東京市全域に給水を開始する。
・大正12年(1923年)
 関東大震災により新水路の一部が破損する。
・昭和12年(1937年)
 甲州街道の下に導水管を新設し、新水路を廃止
 する。新水路の跡地を埋めて道路とする(水道に
 因んで水道道路と名づける)。
・昭和38年(1963年)
 小平監視所が完成する。
・昭和40年(1965年)
 淀橋浄水場を廃止し、機能は東村山浄水場へ
 移転する。浄水場の跡地は新宿副都心となるり、
 玉川上水は上水としての使命を終える。
・昭和46年(1971年)
 大蔵省印刷局王子工場が千川上水からの取水
 を停止したことにより、
 小平監視所以東は完全に空堀の状態となる。
・昭和61年(1986年)
 都の清流復活事業により、小平監視所以東に
 下水処理水を使用して水流を復活させた。
・平成15年(2003年)
 開削350年を記念して玉川上水を文化財保護法
 に基づく国の史跡に指定した。
・平成17年(2005年)
 都水道局内に「玉川上水保存管理計画策定に関
 する委員会」を設置する。

 (チビの日記!!チビのお出かけ 103)
・・・今年のキーワードは「ロハスとグレイトコラボレーション」・・・
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by chibi-papa | 2007-04-01 20:37 | チビのお出かけ  

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