舎人線は来年度開業(74) 18・09・18 

e0031605_19442250.jpg
舎人公園の地下に車両基地

 荒川を越えると高い建物は少なくなり、緑豊かで住宅が密集する下町の雰囲気に変わる。そこを貫く一筋の直線の完成が待たれている。
 日暮里(にっぽり)・見沼代親水公園間(10km、全13駅)に新交通システムが来年度開業するとのことで、都電・熊野前駅から見沼代親水公園(みぬまだい しんすいこうえん)まで尾久橋通り(おぐばし どおり)を工事状況を見ながら歩いた。見た目はほとんど完成しているようだが、試運転とかはこれからで、まだまだ開業までには時間がかかりそうだ。

 ここ足立区の舎人(とねり)地区から日暮里までバスで60分(ラッシュ時)もかかるが、新交通システムだと20分と大幅に短縮される。この新交通システムは臨海副都心(新橋~お台場~豊洲)を走る「ゆりかもめ」方式で、その車両基地(長さ530m、幅85m)を舎人公園の下に建設中だ。それに伴い公園も整備されるようだ。そして舎人公園駅が公園の真ん中に出来上がる。


(くい)の直径は1m20cmで長さは15mから40mと支柱よりも長い。その支柱の上端部には突起を設け地震の時に桁(けた)が外れて落下しないように工夫されている。

19年度開業ということは、平成19年4月1日から平成20年3月31日までの間に開業するということで漠然(ばくぜん)としているので、何月に開業するのか問い合わせてみたが、19年度開業とだけの回答しか得られなかった。

ここに来る途中、吉野家に行列ができていた。今日一日だけの牛丼復活祭だった。店内を覗(のぞ)くと幼児2人を連れた若夫婦が牛丼を食べさせていた。吉野家のはアメリカ牛肉(それも鶏糞に糖蜜をかけたものを牛の餌としているという)を使用している。幼児が狂牛病に感染したらどうするのか、ふと心配になった(高齢者だったらもし感染しても発症まで長期間かかるらしいからまだしも)

e0031605_11402029.jpg
舎人公園に広がる森と大池

 舎人公園は昭和2年、足立区西部に計画された公園で51ヘクタール(1ha=1万㎡)と広い。尾久橋通りで東西に分断されいて西側がスポーツ施設(A、D地区)、東側は池(B地区)やバードサンクチュアリー(C地区)などになっている。現在も造成が進んでいて最終的には70haとも95haにするともいわれている。

 舎人(とねり)とちょっと変わった地名だが、これは「利根川の入り江」→「利根入り」→「とねいり」→「とねり」→そしてこの「とねり」に「舎人」の字を当てたらしい。
 ついでに足立の由来はと言うと、武蔵国・足立郡は湿地が多く葦(あし)が繁茂していたので、葦が立つ所から「葦立」→「あしたち」→「あだち」→「足立」になったとか。
 足立郡の北部(鴻巣市、北本市など)と中部(さいたま市の大半、草加市の大半、川口市など)は埼玉県に所属する北足立郡となり、南部は東京に編入されて南足立郡となり足立区となった。


舎人公園は戦時中、防空緑地だった所で、東京ドーム13個分と広い。

戦国時代、舎人氏がこの地を支配していたが、江戸時代に尾張徳川家の家臣となるため移って行ったという説もある。

現在、北足立郡は伊奈町だけ。伊奈町がどこかの市と合併すれば北足立郡は消滅し、足立の名が残るのは東京都足立区だけとなる。
さいたま市の大半はかつての武蔵国・埼玉郡でなく足立郡。 

e0031605_19443928.jpg
見沼代親水公園(みぬまだい しんすいこうえん)

 終点の見沼代親水公園駅は建設中だ。農業用水の役割を終えて今は親水公園としての見沼代親水公園がここから竹ノ塚方面に延びている。
 40数年前、東武線竹ノ塚駅側から見ると水田が一面に広がっていた。見沼代用水のお陰だったのだ。

 見沼代用水は見沼溜井の代替用水路として、第8代将軍・徳川吉宗が治世の享保13年(1728)に灌漑用水として造成したもので、行田市の利根大堰(とね おおぜき)あたりから利根川の水を取リ入れ、さいたま市見沼区、緑区、川口市を経て東京都足立区に至っている。


灌漑用水(かんがい ようすい) : 農地を潤すために川などから引いてきた用水。

足立区舎人地区のこの用水は元々は見沼溜井からの灌漑用水だった。見沼溜井が干拓されたためその先の利根川からの取水となった。見沼代用水となってからでも280年経つ。

溜井(ためい) : 川を堰(せ)き止めて用水路や田に水を流すためのダムのようなもの。
見沼溜井(箕沼溜井とも書く)は川を堰き止めて造った後は川の流路を付け替えたため川に接していない。そのため巨大な沼のようだったという。

江戸時代初期に現在の元荒川を流れていた荒川を熊谷市久下(くげ)で堰き止めて入間川に流れ込むようにしたり、利根川の流路を太平洋に付け替えたりの利根川東遷(とうせん)事業により流域周辺は水不足となるため第3代将軍・徳川家光の1629年、さいたま市緑区大間木付近に灌漑用の見沼溜井を造った。
それから100年後、第8代将軍・徳川吉宗の「享保の改革(きょうほうの かいかく)」の新田開発の一環として見沼溜井や溜池を干拓した。そこで新たな水確保に直線距離にして45km先の利根川に求めた。工法は吉宗に従って江戸に来た紀州藩士による紀州流を採用した。

徳川家康は関ヶ原ノ合戦の10年前の1590年、江戸入りすると直ちに伊奈忠次(ただつぐ)を関東代官頭に任じ、河川の改修工事にあたらせた。伊奈家は3代にわたって甲州流による利根川東遷工事により銚子への通水工事を行った。伊奈氏は埼玉県伊奈町、茨城県つくばみらい市伊奈地区の地名の由来になっている。

 時空をつなぐ新線の開通が待たれる。

 (チビの日記!!チビのお出かけ 74)
・・・ロハス的な生活を心がけていきたい・・・
[PR]

by chibi-papa | 2006-09-18 19:49 | チビのお出かけ  

<< 高尾山3 、6号路 (75)1... 布施とは喜びを分かち合うこと(... >>