金王八幡宮例大祭(73) 18・09・16 

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庫で明日の出番を待つ神輿(みこし)は全10基

 渋谷氏の祖・河崎基家は前九年ノ役(奥州征伐)の功労として源義家(八幡太郎)よりこの地(渋谷区渋谷)を与えられ、渋谷川を自然の堀として築城した。そして1092年(平安後期)に城の一角に社を創建したのである。その子・重家のときに第73代・堀河天皇(第73代天皇、在位1086~1107)より渋谷姓を賜り、これが渋谷の地名の起こりと言われる。
 また、重家の子・金王丸は源義朝、源頼朝に仕え武勇に勝れたことから、源頼朝が金王丸を偲んで植えた桜を金王桜と名付けたことから、社は金王八幡宮(こんのう はちまんぐう)といわれるようになった。
境内は「砦の石」と今に伝わる石があり、かつてここが城(渋谷城)だったという痕跡が残っている。

 現在の社殿と門は江戸時代に春日局が徳川家光の三代目将軍の継承をここ八幡宮に祈願し、叶ったことにより建立された。社殿は総漆塗り。

 
河崎基家(かわさき もといえ) : 川崎の地を開発し支配した。相模と川崎と渋谷において発展した。

前九年ノ役(1051~1062) : 平安時代後期、陸奥国の豪族・安倍氏の反乱を源義家は父・頼義と共に平定した。

源義家(みなもとの よしいえ、1039~1106) : 通称、八幡太郎義家(はちまんたろう よしいえ)
後三年ノ役(1083~1087)からの帰途、幡ヶ谷の池(旗洗池)で源氏の旗である白旗を洗ったといわれ、その旗をここ金王八幡宮に奉納して上洛したという。

源義朝(みなもとの よしとも、1123~1160) : 義家は義朝の曾祖父。頼朝は義朝の三男。

源頼朝(みなもとの よりとも、1147~1199) : 父・義朝が平治の乱で平清盛に敗れたため伊豆国に流されたが、成人して平家を打倒し、鎌倉幕府を築いた。

渋谷金王丸(しぶや こんのうまる、1143~1185) : なかなか子の授からない渋谷重家が祈願すると、剛夜叉明(こんごうやしゃみょうおう、五大明王の一人)のお告げがありほどなく男児が誕生したことから、金王丸と命名した(金王八幡神社の社記によると金王丸は重家の子となっているが、渋谷氏の系図はいろいろあってはっきりしない。重家の子が重国でその重国の子が金王丸なのか、それとも重国とは異母兄弟なのか)
金王丸は平治ノ乱(へいじのらん、1159)で源義朝の小姓として仕えたが、平清盛(たいらの きよもり、1118~1181)に破れた。その後、源義朝の菩提を弔うため出家し土佐坊(とさのぼう)と号した。
出家した土佐坊は源頼朝と出会い密命を受けた。1185年、六条堀川の義経の屋敷に夜討(堀川夜討)をかけたが、捕らえられ六条河原で斬首された。

その後の渋谷氏 : 5代執権・北条時頼の時に恩賞として北薩摩(鹿児島県川内市一帯)を与えられた。それを機に渋谷一族郎党は北薩摩に移住した。

春日局(かすがの つぼね、1579~1643) : 徳川家光(幼名;竹千代)の乳母。竹千代の弟・国松(徳川忠長)との間の世継争い(よつぎあらそい)に危機を感じ、徳川家康に直訴した。


  チ ビ 模型が展示されているけど、お城というイメージじゃないね。

 パ パ そうだね。時代は平安後期だからね。

 チ ビ でも、春日局が渋谷の金王八幡宮に祈願していたなんて意外だね。春日局というと文京区あたりの寺社(麟祥院)のイメージがあるから。

 パ パ 春日局は朝廷から賜った称号で、名はお福といって明智光秀の姪にあたるんだ。その光秀が本能寺ノ変で織田信長を討った後、山崎ノ合戦で敗れ京都・小栗栖(おぐりす)の竹藪で野武士によって殺されたんだ。だけど、首実検されていていないから真相は文字通り藪の中なんだ。

 チ ビ ところでさぁ、竹千代(家光)と弟・国松(忠長)との間で、なぜ世継ぎ争いが起こったのかニャ~?

 パ パ 第2代将軍・徳川秀忠と淀君の妹・江(ごう、父・浅井長政、母・織田信長の妹お市)との間に最初男の子(長丸)が生まれたが、3年後に竹千代が生まれると長丸が亡くなってしまったんだ。だから両親としては竹千代に愛情を注ぐことができなく乳母としてお福をつけたんだ。

 チ ビ それで?

 パ パ 竹千代が生まれた2年後に国松が生まれると、国松が長丸の生まれ変わりのように思えて愛情は国松に集中したんだ。江戸城では何かと利発な国松が大切にされ、竹千代は二の次にされていたので、お福はこのままでは世継は国松になってしまうと危機感を覚え、すでに駿府城に隠居していた徳川家康に直訴に行ったんだ。

 チ ビ 竹千代の乳母は行動力があるニャ~。それで?それで?

 パ パ お福の話を聞いた徳川家康は直ちに江戸城へ。突然の大御所(おおごしょ、家康のこと)の来城に秀忠は大慌て。
 「孫の顔が見たくなってのう」の家康の言葉に、竹千代と国松が呼ばれ、家康は竹千代に「こちらに来なさい」と言って呼び寄せ隣りに座らせた。すると国松も一緒に傍に寄ろうとするが、「長幼(ちょうよう)の儀礼をわきまえないとは何事か。竹千代殿は兄、世継ぎとなる身、国松殿は弟、臣下(しんか)となる身であろう。同列に並ぶことは許さぬ。」さらに念を押すかのように「ほんに竹千代殿はよい将軍になられるであろうのう。」この家康の鶴の一声で、次期将軍は竹千代(家光)と決まったんだ。

 チ ビ そういう経緯があって、あの名シーンがあるんだニャ・・・

 パ パ では、なぜ明智光秀の姪・お福が将軍家の乳母になれたんだろうか? なぜ竹千代(家光)を溺愛したのか? また、なぜ乳母の直訴に家康は面会に応じたのだろうか? なぜお福は朝廷より春日局の称号をいただくことができたのか?
それはね・・・


 チビはいつしかパパの腕の中で居眠りを始めている。将軍になった夢でも見ているのだろうか・・・

(チビの日記!!チビのお出かけ 73)
 ・・・ロハス的な生活を心がけていきたい・・・
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by chibi-papa | 2006-09-16 19:40 | チビのお出かけ  

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