汐留、竹芝(6) 16・10・02 

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大江戸線汐留駅構内

 2年前に開業してまだ間もない汐留駅構内。植物が綺麗に植えられていて、とてもここが地下連絡通路とは思えないよ~。

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日本テレビ前

 ここの広場では、日本テレビのキャンペーンや大道芸人のアトラクション(attraction)をやってたりするよ。今年2月に日テレ開局50周年を機に麹町からここ汐留に移転してきた。

 それにしても、もっと有意義なテレビ番組を制作できないものなのかニャ~!そんな要求は無理かもしれない。報道の精神を忘れたテレビの情報は、操作されているので価値が低い。
 「やらせ」がすっごく多いし、映像=真実と錯覚させるように制作するからね。まあ、テレビをあまり見ないことだニャ~。
 極言すれば、テレビは洗脳装置なので、テレビは見てはいけないよ!
 それだけでなく、テレビをつけると放射線や磁力線が微量ながら出てくるので、見ないほうが良いに決まっている。だけど、どうしても見る時は離れて見てね。


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竹芝埠頭公園

 右に各国の国旗が見えるけど、あれは帆船のモニュメントだよ。
 アッ! マストにセーラー(sailor、船員)が立ってる~。よ~く見ると人形だニャ~ン。


セーラー服のデザインは、水兵が強い海風の中でも命令を聞き逃さないよう、襟を大きくして襟をすばやく手で立てられるようにした(襟に大きな耳の役割を持たせた)
大正時代、女学校で体操服として採用されたことから、いつしか女学生の制服となった。

 桟橋には三宅島や八丈島などへの伊豆諸島航路の船が停泊しているね。
 それともその先の小笠原諸島まで行く船なのかニャ~?とにかく東京都はとっても広いんだ~!

日本領土の最南端・沖ノ鳥島および最東端・南鳥島ともに東京都に属している(因みに最北端は北海道の択捉島、最西端は沖縄県の与那国島) 。
沖ノ鳥島は小笠原村の村役場がある父島から1,000km離れていて、面積は7.8km²と 思っていたより意外に広いが、満潮時には海面上に15㎝ほどの岩が二つ出るだけの無人島。でも、この島のお陰で、経済水域は40万km²も広くなっている。
南鳥島は父島から1,300km離れている1.5平方kmの島で、一般市民の定住者はいないが気象庁職員と海上自衛隊員が常駐している。明治24年から日本人が住んでいて、その2年後には南鳥島と命名され東京府小笠原支庁に編入されているのに、明治35年(1902)、アメリカがこれを領有しようとハワイから軍艦を出航させた。それを察知して我が方も軍艦を派遣し先に上陸、島で小競り合いになったが日本領として確定した。

最北端は北海道の択捉島(エトロフトウ)としておいたが、本来はもっと北の北、千島列島の最北端の占守島(シュムシュトウ)である。地図帳を見て下さい。日本とロシアの間には4本の国境線が引かれていて未だ確定していないのです。その4本とは、
 ① 樺太の北緯48°線
 ② 宗谷海峡
 ③ 択捉海峡
 ④ 占守島とカムチャッカ半島の間の海峡
①の国境線は明治37年の日露戦争で勝ち取った領土(ポーツマス条約)だから返すとすると②の宗谷岬と樺太の間の宗谷海峡が国境線ということになる。
 一方、③の択捉海峡は幕末の安政元年(1854年)日露和親条約で国後島、択捉島は日本と決まり、それ以北の千島列島は明治8年(1875年)の樺太・千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)で占守島までが日本と決めた。この条約は共に戦争によるものではないので、太平洋戦争に負けたからといって取り上げられるものではない。それはカイロ宣言(昭和18年)、ポツダム宣言(昭和20年)でも明らかである。我が国はポツダム宣言を受諾して無条件降伏したのである。よって③でなく④が国境線であるべきはずである。
ところで昭和20年8月18日、突如、ソ連軍は国境線を越え占守島を不当に占領した(占守島ノ戦い)。その時の日本守備隊の奮戦で、ソ連軍の進攻が遅れ北海道を占領できなかった。北海道が本土と分離されなかったのは占守島守備隊23,000名のお陰である。
それにしても、歯舞、色丹はもともと北海道の島々なのだから未だにロシアが占拠しているのは道理がいかない。それに、北方四島(歯舞、色丹、国後、択捉)が戻ってくれば良いと考えること自体おかしい。あくまでも我が国の最北端は占守島である。

東京に核が持ち込まれる可能性がある。
戦後、アメリカの統治下にあった小笠原諸島の父島には昭和31年(1956)から40年(1965)にかけて核兵器が配備されていた。昭和43年(1968)に返還されるにあたって、これからも「緊急の場合は核兵器を持ち込むことを認める」という秘密内諾を与えている。この合意は継続しているようだ。だから今でも東京に核が持ち込まれる可能性がある。
昭和42年(1967)12月に佐藤栄作首相は、国会答弁で非核三原則を高らかに宣言したのにもかかわらず、その4ヵ月後にはこうした秘密合意をおこなっていた。
また、昭和47年(1972)の沖縄返還にあたっても密約があり、アメリカの利益を最大限尊重した佐藤栄作は、その恩恵により昭和49年(1974)ノーベル平和賞を受賞した。ノーベル平和賞ってそんなもんだ。

(チビの日記!!チビのお出かけ 6)
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by chibi-papa | 2004-10-02 00:00 | チビのお出かけ  

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