小田原城落城 (11)17・02・13
2005年 02月 13日
1585年に四国を平定し、翌1586年には九州を平定した豊臣秀吉は、残る関東と東北の攻略に取り掛かる。そして配下に治めていない関東と東北に対して「惣無事令」(ソウブジレイ)を出す。「惣無事令」とは大名同士の私的な争いを禁じるというもので、天下統一の号令でもある。
そんな中、1589年10月、小田原北条氏が真田配下の名胡桃城(なぐるみじょう、上野国月夜野)を奪取するという事件が起きた。これは「惣無事令」違反で北条氏を攻める大義名分を得たことになる。早速11月に北条氏に宣戦を布告。その一方で東北の武将たちにも出陣を要請することによって、旗幟(キシ)を鮮明にすることを迫った。
1590年3月、京を出陣した秀吉は4月に小田原城を包囲する。最初から長期戦を想定して小田原を見下ろす石垣山に一夜城を構築。6月になってようやく伊達政宗が秀吉の許(モト)に大幅に遅れて参陣。それから1ヶ月後の7月、とうとう北条氏は百日間の篭城(ロウジョウ)を解いた。
かつて武田信玄も上杉謙信も落とせなかった天下の名城は秀吉の手に落ち、百年間に亘って関東に君臨していた北条氏は滅亡。ここに豊臣秀吉は天下統一を果たしたのであった。
※ 鎌倉執権の北条氏と区別するため、小田原北条氏とか後北条氏と呼ぶ。
常盤木門は本丸の正面に位置し、最も大きく堅固な門。その常盤木とは常緑樹を意味し、小田原城が永遠に繁栄することを願って常盤木門と名づけられた。
パ パ ; ところで、いつだったか、本丸跡の一角の動物園の象さんを見て、血相を変えて逃げ出したことがあったね。
チ ビ ; あの時は、象さんがボクを目がけて襲って来たと勘違いしたんだよ。
小田原城二の丸の表門。大扉の飾り金具に銅が用いられたことに由来して銅門(アカガネモン)というんだニャ~。
(チビの日記!!チビのお出かけ 11)
by chibi-papa | 2005-02-13 00:00 | チビのお出かけ