亀ヶ谷坂切通し(13)17・04・17 

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岩船地蔵堂

 亀ヶ谷坂切通し(カメガヤツザカ キリドオし)ハイキングコースは北鎌倉駅下車、長寿寺脇の亀ヶ谷坂切通しを抜けて、岩船地蔵堂、海蔵寺などを巡るコース。

 源頼朝の長女・大姫(オオヒメ)が兄のように慕っていた源義高(ヨシタカ、源義仲の長男)
を父・頼朝に殺されてしまう。そのことに悩み苦しみ拒食症になり14年後、満19歳の若さで亡くなった。この岩船地蔵はその哀れな大姫のお守り本尊といわれている。


岩船地蔵堂 : 型の後背(コウハイ)を持った石像()のお地蔵様があるおなので、この名がある。(木像のお地蔵様もある)
しかし、ここはもともと大姫の妹・乙姫(三幡、サンマン)の霊を祀ったところ。源頼朝は大姫を後鳥羽上皇の妃にすべく入内(ジュダイ)工作を進めてきたが、大姫が死去すると乙姫を次なる候補にする。そして入内を待つばかりになったところで、乙姫は大姫の後を追うかのように亡くなった。享年13。大姫が亡くなった2年後のことだった。

1180年、以仁王(モチヒトオウ、後白河天皇の第3皇子)から平家追討の命令を源頼朝と源義仲(木曽義仲ともいう)が受け、源頼朝は伊豆で、そして木曽義仲は信濃で挙兵した。しかし、源氏の大将は二人でなく源頼朝ということで和睦(ワボク)となり、その証として婿養子という名の人質として1183年に木曽義仲の子・義高は鎌倉に入った。義高11歳、大姫5歳の政略結婚であった。
ところが、木曽義仲は源頼朝より先に入京したもののあまりにも横暴だったので、後白河法皇は源頼朝に木曽義仲追討を命じた。そして源頼朝の弟・義経が1184年の正月に木曽義仲を滅ぼした。
そこで源頼朝は将来の禍根を絶つべく人質に取って置いた木曽義仲の長男・義高の殺害を決意する。その思惑を知った大姫は義高を女装させて鎌倉から逃がした。しかし同年4月、入間川にて追っ手に捕まり斬殺される。義高の死を知った大姫はショックから床に臥せるようになり、その後の縁談を断り義高への思いを胸に生涯を閉じた。

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花の海蔵寺

 花のお寺さん・海蔵寺(カイゾウジ)早速、八重桜の下で記念写真。

咲かせよう 悟りの花を 笑(サ)かせよう 悩みの種に 悟りの華を チビ

 ちょっと離れた所に「十六の井」がある。そこは洞穴(高さ2、5mで広さ8畳ぐらい)の中に縦横4列ずつ16個の窪み(深さは40~50cmぐらい)が並んでいて、清水を湛(タタ)えている。16個あるのは十六菩薩に供えるための功徳水(香水)
を得るためだったらしい。


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武田流の流鏑馬

 この後、化粧坂(ケワイザカ)→源氏山公園→銭洗い弁天→鎌倉駅へ。さらに鶴岡八幡宮で流鏑馬(ヤブサメ)を見る。

 
直線2町(約220メートル)の馬場を疾走する。チビは怖がってバッグの中に潜り込んでしまった。馬力のあるお馬さんはどうも苦手のようだ。


「やぶさめ」は疾走する上から的に向かって(かぶらや)を射すので流鏑馬と書く。

1187年に源頼朝がこの馬場で流鏑馬をおこなって以来、今日まで続いている神事。そして、この馬場は各地に通じていた鎌倉街道の起点でもあった。
流鏑馬神事は4月(武田流)と9月(小笠原流)におこなわれる。

(チビの日記!!チビのお出かけ 13)
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by chibi-papa | 2005-04-17 00:00 | チビのお出かけ  

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