松平定信と「寛政ノ改革」(47)18・05・03
2006年 05月 03日
清澄白河駅(半蔵門線、大江戸線)は清澄と白河を合わせた駅名で、清澄には清澄庭園があり、白河の霊巌寺には白河藩主・松平定信の墓がある。
東武亀戸線・亀戸水神駅まで歩く。
松平定信(サダノブ、1759~1829)は第8代将軍・徳川吉宗の孫として田安徳川家(タヤス トクガワケ)に生まれた。いずれは第10代将軍・徳川家治(イエハル)の後を継ぐことになるかも知れない人物とまで目されていたが、田沼意次(タヌマ オキツグ)による政治を賄賂政治(ワイロ セイジ)として批判したため、陸奥国(ムツノクニ)白河藩主の養子に出されてしまった。
定信が白河藩主となったのは天明ノ飢饉(テンメイのキキン)の最中であったが、食料救済措置が迅速だったため餓死者を出さなかったこともあり、白河藩では名君として慕われた。
田沼意次が失脚した後、幼少の第11代将軍・徳川家斉(イエナリ)のもとで老中首座、将軍補佐として、田沼意次の重商主義による政策を全面的に否定し、朱子学に基づいた重農主義による「寛政ノ改革」を断行した。
『 田や沼や 汚れた御世を 改めて 清くぞ澄める 白河の水』 (狂歌)
しかし、この「寛政ノ改革」は極端な倹約を強いたため世俗的な田沼意次の政治を懐かしむ声もみられた。
『 白河の 水の清さに 耐えかねて 元の田沼の 濁り恋しき 』 (狂歌)
『 白河の 清きに魚も 棲みかねて 元の田沼の 濁り恋しき 』 (狂歌)
さらに、成長した徳川家斉からも嫌われ失脚した。
もともとこの地は霊巌寺(霊岸寺)の門前だったので深川霊岸町と言ったが、昭和7年の町町合併の時、霊巌寺が白河藩主松平定信の菩提寺であったため、深川白河町と名付けられた(昭和45年、今の白河になった)。隣接して深川江戸資料館がある。
※ 寛政ノ改革(カンセイのカイカク) : 幕政再建を目指して緊縮(キンシュク)財政や風紀取締りを6年余りおこない、自からも率先して倹約に努めた。「寛政ノ改革」は「享保ノ改革」、「天保ノ改革」とあわせて三大改革と称される。
※ 寛政ノ改革の際に江戸町方に命じた積立制度として七分積金がある。これは町入用の節減分の7分(70%)を積立させ、定式御救(窮民に対するお救い)や臨時御救(飢饉などの際のお救い)に当てた。幕末には150万両もの残高があった。これを明治新政府が接収して、東京に学校や道路などのインフラ整備に使われた。
※ 田沼意次(1719~1788):第9代将軍・徳川家重に1万石の大名に取り立てられた。家重が死去した後も第10代将軍・徳川家治の信任は厚く、御用人から側用人へと出世しさらに側用人から老中になった。重商主義政策をとり社会の初期資本主義化によって金銭中心の生活となり、そのため贈収賄が横行した。
没後、松平定信によって私財没収となったが財産はほどんどなかった。
※ 霊巌寺(レイガンジ) : 1624年に霊巌島(中央区新川1丁目)に創建されたが1657年(第4代将軍・徳川家綱の治世のころ)の「明暦ノ大火」(振袖火事)で焼失したため、ここ深川白河町に移転してきた。この大火で川と海によって逃げ場を失った9,600人余りが霊巌島で死亡したとある。
小名木川に架かっている新扇橋の袂(タモト)に一本の桜の木。サクランボが一杯なっている。黄色いサクランボにチュッ。
♪ 黄色いサクランボ
〔作詞〕星野哲郎 〔作曲〕浜口庫之助 〔歌〕スリー・キャッツ 昭和34年
若い娘は ウッフン
お色気ありそで ウッフン
なさそで ウッフン、ありそで ウッフン
ほらほら黄色いサクランボ
摘まんでごらんよ、ワン
しゃぶってごらんよ、ツー
甘くて渋いよ、スリー
ワン・ツー・スリー ウ~ン
黄色いサクランボ
ここには船改(フナアラタメ)番所があった所。小名木川は江戸への物資輸送の重要な交通路であったために設置された番所で、現在でいえば税関みたいな所だった。
※ 小名木川(オナギガワ) : 江戸時代初期、徳川家康が行徳の塩の搬入路として開削を命じた運河で、その開削者が小名木氏だったのでこの名がある。明治30年台にはこの川沿岸には製粉会社が次々と設立された。
平安時代後期に猿藤太(サルノ トウタ)という武将がこの地の入江で力尽きてしまった。懐に経巻が入っていたことから、地元の漁師達がこの境内に塚を建てて手厚く葬ったという。このことから猿籐太の「猿」と入江の「江」の字を取り結び「猿江」の神社名になったという。
国内最古のコンクリート造の社殿は昭和6年に建てられた。
猿江恩賜公園(サルエ オンシコウエン)は江戸時代から続く徳川幕府による貯木場であった(第8代将軍・徳川吉宗の時、幕府公認の貯木場として開かれる)。その後、昭和7年に南園が開園、昭和47年に貯木場が全面廃止となり、昭和58年北園の完成に伴い全面開園となった。
そんな高い所に上って、どうやって降りるつもり?
錦糸町の錦糸の錦と言えば「♪にしき織りなす長堤に・・・」。そう、滝廉太郎作曲の「花」の3番。「織りなす」→オリナスを連想しちゃう。
本当は、錦の糸が様々な模様を織り成すことから、住居と出会いと新たなビジネスとショッピングの融合を意味する、
Organization of Lifestyle.
Interface.
New business.
Amenity Shpopping
の頭文字OLINAS。
ところで、ボクの交通安全のファッションはどう?
「亀戸天神藤まつり」で観光バスがずら~り。溢(アフ)れんばかりの人・人・人。と言うことで、早々の内に退散して、香取神社へ。
亀戸大根は普通の大根より小ぶりで人参を少し大きくしたぐらい。14代将軍・徳川家茂(イエモチ)の頃に栽培が始まり、香取神社周辺がその中心地となっていた。栽培発祥を記念して平成11年に亀戸大根の石碑が建てられた。「ワンコにはこんな所に登れないだろう」とヤンチャぶりを発揮するチビ。
明後日5日に行われる勝矢祭(カチヤサイ)での武者行列のため、いつも展示してある鎧(ヨロイ)が下ろされ、名札がつけられている。
平安時代中期、平将門(タイラのマサカド)が乱を起こした時、追討使(ツイトウシ)がこの香取神社に戦勝を祈願した。平定(940年)後、その神恩感謝として弓矢を奉納、勝矢と命名したとある。
それは鉄棒じゃないんだから、いいかげんに降りて来なさい!
こじんまりとした亀戸水神宮は室町時代の新田開発にあたって創建されたようだ。
近くを走る東武亀戸線は、明治37年(日露戦争開始の年)に開通した。ホームには「亀戸天神の最寄駅は亀戸駅です 亀戸天神と亀戸水神は違います」との注意書きが貼ってあった。
(チビの日記!!チビのお出かけ 47)
by chibi-papa | 2006-05-03 19:19 | チビのお出かけ