葛原岡ハイキングコース(12)17・03・27

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東慶寺山門

 JR北鎌倉駅下車。葛原岡(クズハラがオカ)ハイキングコースを行く。
 東慶寺(トウケイジ)は女人駆込み寺として多くの女人を救済した。 その東慶寺の寺法を無視して男子禁制(キンゼイ)を破った40万石の会津藩主・加藤明成(カトウ アキナリ、1592~1661)は、お家断絶・領地没収となってしまった(その時の住職は豊臣秀頼の娘・天秀尼 テンシュウニ

 恐る恐る山門をくぐるも、受付で見つかってしまった。

 『あんた!オスでしょ!』

 『あの~ボク、でも、去勢(キョセイ)しているんです。お願いだからボクの「おやつ」を没収しないで~!』


夫の許可(三下り半)がない限り離婚できない江戸時代でも東慶寺に駆け込み、協議離婚不成立になった場合でも3年間(途中から足掛け3年の実質2年に変更)の寺への年季奉公で自由の身になれた。
しかし、婚家を逃げ出しても追ってに捉(ツカ)まり連れ戻されてしまう嫁さんが多かった。東慶寺に駆け込むことはそう容易なことでなかった。
同じようなシステムが上州新田郡(ジョウシュウ ニッタゴオリ、太田市徳川町)の満徳寺にもあった。共にその特色は、尼にならずに縁切りできるという点である。違いは東慶寺の場合は双方話し合いによっての帰縁、或いは協議離婚成立ということもあったが、満徳寺は縁切り専門であった。

東慶寺の山号は松岡山(ショウコウザン)。駆込みがあると、寺役所は呼出状や出役達書を飛脚に持って行かせる。その飛脚が大名行列に出会っても、「松岡御所御用」の札を立てていれば土下座する必要はなかった。

小説家・山田風太郎(ヤマダ フウタロウ)は「柳生忍法帖」(ヤギュウ ニンポウチョウ)で、この加藤明成を残忍で暗愚な暴君として描いている。
山田風太郎は昭和20年当時(現)東京医科大学で学ぶ学生であった(空襲により学校は長野県・飯田に疎開)。卒業したものの結局は医師にならず作家になったが、戦争という時代に医学生がどう生きるべきかの日記は戦後史研究者の間で評価が高い。敗戦については戦後、「最大の敗因は科学であり、さらに科学的教育の不手際であった」と日記に著している。自らが生きた戦争という時代を土台にその体験と感性によって歴史的作品を書き続けた、戦中派を代表する作家。

加藤明成が改易された後に会津藩主になったのが保科正之(ホシナ マサユキ、第3代将軍徳川家光の異母弟)

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浄智寺客殿

 第5代執権・北条時頼(ホウジョウ トキヨリ)の子・宗政が29歳の若さで弘安4年(1281)に没し、第8代執権・北条時宗(ホウジョウ トキムネ)が弟の菩提を弔うため浄智寺(ジョウチジ)を建立。弘安4年といえば、弘安の役(コウアンノエキ、1281年)があった年だニャ。

北条宗政(ホウジョウ ムネマサ、1253~1281) : 温厚で驕り高ぶることなく善政を心がけたという。一度目の元寇の文永の役(ブンエイノエキ、1274年)の際には鎌倉で恩賞の沙汰を評定(ヒョウジョウ)していた。1277年、22歳の時に武蔵守に任ぜられる。死因は不明(病死?)
平成13年のNHK大河ドラマ『北条時宗』では、宗政は蒙古襲来の現地軍総司令官として文永・弘安の役に出陣するも弘安の役で戦死したとしている。しかし再度の元寇に備えて筑後守護に任ぜられたが、九州に赴いたという記録はない。

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峠で一休み

 足を取られる木の根道。
 ここで一休み。
 この後は比較的ゆるやかな下り。


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葛原岡神社前の石碑

 下ること20分ほどで葛原岡(クズハラがオカ)神社に着く。
 祭神の日野俊基は鎌倉幕府の執政を北条氏から後醍醐天皇による親政にしようとして、幕府に捕らえられ、弘安2年この地で露と消えた。ここら一帯は刑場だったらしいが、今は花見のメッカになっている。


日野俊基(ヒノ トシモト、?~1332) : 鎌倉時代末期の公家。1331年倒幕の謀議で捕らえられ処刑された。明治維新後、南朝が正統とされると倒幕の功労者として評価され明治20年(1887)葛原岡神社が創建された。 

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源氏山公園

 こちらも花見のメッカ。公園中央に源頼朝の銅像が立っている。頼朝の鎌倉入り八百年を記念して建てられた。

 シンガーソングライター・さだまさし の 『 縁切寺 』 では
「♪~源氏山から北鎌倉へ あの日と同じ道程で 辿り着いたのは 縁切り寺」
とあるけど、ボクたちは逆に北鎌倉駅から駆込み寺(東慶寺)に寄って源氏山に来ただニャ~。

「♪~そんな君から 別れの言葉 あれから3年 縁切寺」
東慶寺は正確には縁切り寺でなく駆込み寺なんだニャ~。


源頼朝(ミナモトのヨリトモ) : 父・源義朝(ミナモトのヨシトモ)が平清盛(タイラのキヨモリ)に敗れたため伊豆国(イズのクニ)に流されるが、成人して平家打倒の兵を挙げ鎌倉を本拠に関東を平定する。その後、平家を滅ぼし征夷大将軍に任ぜられ、1192年鎌倉幕府を開く(いつくろう鎌倉幕府)

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銭洗い弁天

 湧き水をここに集めてから、岩屋に引いているんだな。この下にある岩屋では、おカネを洗うと倍になるといって、夢中になっている人々でごったがえしていた。おカネより大切なものを忘れたかのように・・・

♪ あゝカネの世やカネの世や
 (添田唖蝉坊 ソエダ アゼンボウ 明治5年~昭和19年 演歌師)

あゝカネの世やカネの世や 地獄の沙汰もカネ次第
笑うもカネよ 泣くもカネ 一も二もカネ 三もカネ
親子の中を裂くもカネ 夫婦(フウフ)の縁を切るもカネ
強欲非道と謗(ソシ)ろうが 我利我利亡者(ガリガリ モウジャ)と罵ろ(ノノシロ)
痛くも痒くもあるものか カネになりさえすればよい
人の難儀や迷惑に 遠慮していちゃ身が立たぬ

・・・略・・・

あゝカネの世やカネの世や 互いに血眼皿眼(チマナコ サラマナコ)
食い合い奪(ト)りあい 毟り(ムシリ)合い
負けりゃ乞食か泥棒か
野垂れ死ぬか 土左衛門(ドザエモン) 鉄道往生 首括り(クビククリ)
死ぬより外に道はない あゝカネの世やカネの世や

(チビの日記!!チビのお出かけ 12)
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by chibi-papa | 2005-03-27 00:00 | チビのお出かけ  

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