緯度1分の値 24・08・11

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富岡八幡宮・日本最大の神輿

 今日11日(土曜)から15日(水曜)まで富岡八幡宮(とみおか はちまんぐう)の例大祭。とにかく賑やか。
 この神輿(みこし)は単に大きいだけでなく、いたるところにダイヤなどが使われているという豪華なもの。どこにダイヤが・・・警備員の目が光っている。


例祭は深川祭と呼ばれ、神田祭(神田明神)、山王祭(山王権現)と並んで江戸三大祭に数えられた。1807年(第11代家斉の治世)、見物客で隅田川に架かる永代橋が崩れ落ち、1.500名が死亡した。

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富岡八幡宮・伊能忠敬像

 お祭りの陰に隠れていても、ひたすら歩く人、伊能忠敬(いのう ただたか)。測量で歩いた歩数は5千万歩(およそ地球1周分の距離)。それも55歳から(71歳まで)だというから驚いちゃうニャ~!

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伊能忠敬居住跡をスタート

 隠居した伊能忠敬は江戸に出て深川黒江町(現:門前仲町1-18)に住み、ここでも天体の観測ができるようにした(北緯35度40分30秒と測定した、正しくは28秒、その差たったの2秒)。そして、ここから直線距離で3キロ北の浅草天文台の高橋至時(たかはし よしとき)の許に毎日通った。伊能忠敬が歩いた道は 『黒江町・浅草測量図』 として残っている。その道に沿って追体験してみよう!レッツゴー!

 沿道には神輿の担ぎ手に掛ける水を用意している箇所が見受けられた。子供たちがその役割のようだ。三年に一度の本祭り、町は祭り一色。
 塩でなく 「水」 撒いておくれ!わっしょい、わっしょい。ソ~レ ソレ ソレ お祭りだ~。


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採茶庵跡で芭蕉と出会う

 松尾芭蕉はそれまで長年住みなれた芭蕉庵を手放して、芭蕉の門人の別宅であった採茶庵(さいとあん)に厄介になっていた。元禄2年(1689)、45歳の芭蕉は曾良(そら)を伴って、東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅をした。 採茶庵は仙台掘川の横にあったので、ここから舟で隅田川をさか上り千住まで行く。舟を降りて一句。

行く春や 鳥啼き魚の目は泪』(芭蕉)

 これを矢立(やたて)の初めの句として、全行程600里(2,400km)を約150日かけた紀行文集が「奥の細道」である。
 芭蕉から百年後、伊能忠敬は採茶庵の前を毎日通っていた。その二百年後の今、チビとチビパパは伊能忠敬と同じ道のりを歩いている。
 旅立ち姿の芭蕉と別れ、我々は蔵前にある浅草天文台を目指す。奥の細道の600分の1(2,400÷4=600)でしかないが・・・


黒江町の自宅から浅草天文台までの実測は4,075m。角度調整後の子午線上では2,928m。

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浅草天文台跡がゴール

 この案内板は蔵前1丁目の交差点の角にある。案内板によると天文台(暦局、司天台)は、浅草蔵前(現:浅草橋3丁目21、22、23、24の全域と3丁目19、25、26の一部)にあって、天文・暦学を学ぶためここにいた幕府天文方の高橋至時に弟子入りした。時に伊能忠敬50歳、高橋至時31歳。

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中央下に、天文屋敷測量所と書いてある所が、浅草天文台。
右下に、幕府の米蔵があったことからこのあたりの地名は蔵前と付けられた。米蔵の用地は1620年に鳥越の丘(白鳥山)を削り、その土砂で隅田河岸を造成した。蔵の数は67棟。63万俵(37,500トン)の幕府備蓄米と旗本・御家人への給料米を収納した。

 浅草天文台は1782年、牛込藁店(うしごめ わらだな、現:新宿区袋町)から移転してきた。本来は暦を作る役所の施設で、正確な暦を作るためには天体を観測する必要があった。その規模は周囲93.6m、高さ9.3mの築山の上に、5.5m四方の天文台が築かれ43段の石段があったという。 

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左上は浅草天文台の立体図。左下はその平面図。
右は葛飾北斎の「富嶽百景」の中の「鳥越の不二」。背景に富士山、手前には渾天儀(こんてんぎ、天球儀のことで天体運行の観測器械)を据えた浅草天文台が描かれている。
描かれている人物は、伊能忠敬でも高橋至時でも高橋景保でもない。その後の人物だろう。
「鳥越の不二」としているのは、近くに鳥越神社があることから付けられた。

 高橋至時の死後、父の跡を継いだ高橋景保(たかはし かげやす)の進言により、1811年、天文方内に「蕃書和解御用」(ばんしょわげごよう)という外国語(特にオランダ語)の翻訳局が設置された(変遷を経て現在の東京大学に繋がっている)。  
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駒形堂(右奥の水色の橋は駒形橋)

 伊能忠敬は自宅の深川黒江町(北緯35度40.5分)と暦局(北緯35度42分)の距離(角度調整後)を28町(1町=109m、28町=3,052m)とした。それを基に緯度1度を距離を出すと、122kmとなってしまう。これは方角を正確に補正できなかったので正確な距離が測定できなかったことと、緯度をもっと精緻に測れなかったことによる。

 師匠の高橋至時に相談すると、そんな小さい北緯の差や距離から緯度1度を算出するのは無理だといわれ、蝦夷地測量(第一次測量)を決意するのであった。その翌年1801年(忠敬56歳)の第二次測量(本州東岸)の結果、緯度1度の値を28.2里と算出。1802年の第三次測量(羽越)でもやはり28.2里(1里は3.9273kmなので、110.75km)とした。正解は110.99kmなので、誤差はたった240m。

地球が真円だとしたら、今はパソコンで緯度1度の値を簡単に求めることができる。
(1)自宅(門前仲町1-18)の緯度と経度をメモる
 北緯35度40分28秒、東経139度47分39秒
(2)暦局(浅草橋3-22)の緯度をメモる
 北緯35度42分3秒
(3)東経139度47分39秒上の北緯35度42分3秒の地点を特定し、自宅との距離をメモる 2,928m→2.928km
(4)緯度の差
 35°42′3″ー35°40′28″=1′35″→1.583分
(5)緯度1度の値は 1度は60分なので、 
 2.928km×60分÷1.583分=110.98km
因みに地球の円周は110.98km×360度=39,953km→約4万km
 
 暦学者の間で地球の大きさが話題になっていることから、緯度1度の長さをより正確に測ってみようということで蝦夷地に出かけたが、幕府の許可を得るための建て前は、地図の作成のための測量であった。最初はほとんど自費負担だったが、地図が正確なため、だんだん幕府から支援を得られるようになった。とうとう国家的事業となって、日本地図を作り上げてしまったのである。
 明治17年から近代地図に順次置き換えられ始め、最後の種子島、屋久島の地図が置き換えられたのが昭和4年だった。伊能忠敬が亡くなってから何と最大111年間も使用されたことになる。

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by chibi-papa | 2012-08-11 23:00 | チビのお出かけ  

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