電池の屋井先蔵24・07・22

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神吉町会館

 江戸時代、幡随院門前(ばんずいいんもんまえ)と呼ばれていた浅草神吉町は明治2年に成立。郡区町村編制法によって明治11年、浅草区と下谷区が設置された際、浅草区の所属となった。昭和18年に浅草区と下谷区の境界が変更になった際にはその一部が下谷区に編入されて、下谷神吉町と呼ばれるようになった。
 戦後の昭和22年、浅草区と下谷区が合併して台東区となり、昭和40年の新住居表示により東上野となり現在に至っている。神吉町の名はここ神吉町会館(かみよしちょう かいかん)として残っている。


 幡随院門前→浅草神吉町→浅草区 (浅草)神吉町→下谷区 (下谷)神吉町→台東区東上野 

 明治43年(1910)、(浅草)神吉町に乾電池工場を建設。本格的量産にとりかかり、現在の乾電池のスタイルを確立した。乾電池を発明した屋井先蔵(やい さきぞう)は 「乾電池王」 とまで謳われるようになった。しかし屋井先蔵を偲ぶものは何も見つけることができなかった。

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会館内

 屋井先蔵は明治維新の4年前の1864年、越後は長岡藩士の家に生まる。5歳で父が他界したため叔父に引き取られる。13歳で東京日本橋の時計店の丁稚になるも、病気のため帰郷。地元の時計店で年季奉公を勤め上げた後、永久機関を発明しようと再び東京に出る。永久機関は不可能だと諭され方向転換。
 明治22年(1889)電気時計を完成。そして明治25年、ついに乾電池を完成させた。その翌年(明治26年)、シカゴ万博に乾電池を使用した地震計を出品。明治27年(1894)からの日清戦争では、携帯型通信機の電源として屋井乾電池が使われた。従来の液体型の電池では極寒の満州では氷結してしまう。号外には「乃木希典少将、満州海城を攻略す」に続いて、「厳冬の戦地で大活躍!世界一の“屋井乾電池”厳寒の地でも氷結せず」の活字が躍った。翌日の紙面でさらに詳しく報道され、特集が組まれた。


 ・明治18年浅草七軒町の裏長屋で試作開始(明治25年、屋井乾電池合資会社の看板を掲げ製造を開始)→・西黒門町(少し広い場所に移転)→・明治43年神田錦町(本社屋)浅草神吉町で量産体制に入る→・大正2年下谷日暮里(大正12年の関東大震災で工場が焼失、再建するも又もや火災により焼失)→・川崎並木町(斬新な大工場を建設、昭和2年 胃癌により死去、享年63)→・後継者に恵まれず、いつしか乾電池工業会の名簿から消える。

 発明家になるんだと、親戚一同の反対を押し切って上京を決意。三国峠を越え、残雪の残る山肌を振り返った時、それが白い躑躅(ツツジ)のように見えたという。故郷のことを忘れることのないよう、都内の自宅に白い躑躅を植え生涯愛でたという。
 先人未踏の道を情熱で切り開き、幾多の困難を夢見る力で乗り越えた発明家・屋井先蔵。せめて神吉町内会のどこかに、白いツツジで囲んだ案内板が設けられていたらと思う。


参照 「乾電池王」屋井先蔵の生涯 『白いツツジ』 上山明博著 PHP研究所出版 2009年
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by chibi-papa | 2012-07-22 23:00 | チビのお出かけ  

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